望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

日本の貧困は「降格する貧困」に近づいている。セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態』講演から。

「はしごの下にいるんだよ。それ以外におれたちが誰なのかをはっきりさせる言葉があるのか。おれたちははしごの下にいて、食うや食わず、それだけさ。おれたちのための言葉なんてない。はしごの下には工員がいて……やがて上に上がっていく。でも、おれたちは?失業者じゃない、工員じゃない、何でもない、存在しないんだよ!社会の乞食だ。それがすべてさ。何者でもないんだ!」(工場勤務歴20年以上の41歳RMI受給者の語り)

セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態』終章の冒頭に掲げられたエピグラフ

10/22に現代フランスを代表する社会学者であり、貧困の社会学で有名なセルジュ・ポーガム教授の講演に行きました。講演のタイトルは「貧困の基本形態 日本的特殊性の有無について」となっており、今年日本語訳された『貧困の基本形態』のタイトルをそのまま掲げつつ、さらに日本の貧困についても語ることが期待されました。

日仏会館フランス事務所 | イベント・カレンダー | 貧困の基本形態日本的特殊性の有無について

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

 

非常に素晴らしい講演でしたし、ポーガム教授の考え方がもっと多くの人に知られてほしいと思ったので、講演内容をこちらの記事で共有できればと思います。自分自身の感想や考えについても、記事の最後に少しだけ述べています。

ポーガム教授を招聘され、こうした会を開いてくださった日仏会館及び関係者の皆さまに感謝します。

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ポーガム教授と『貧困の基本形態』

ポーガム教授の講演は以下の順序で進められました。

  1. 研究対象としての貧困の定義
  2. 社会的降格という概念
  3. 比較的アプローチ
  4. 貧困の基本形態という分析枠組でヨーロッパを見る
  5. 日本的特殊性は存在するか?

f:id:hirokim21:20161023184300j:image講演の目次

1. 研究対象としての貧困の定義 

ポーガム教授は、まず「貧困とは何か」という定義についての考えから講演をスタートしました。

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測定にまつわる諸問題

  • 「貧困」について考えるとき、「貧者は何人いるのか?」という数の話になりがちだが、貧困という現象を理解するということの目的は、必ずしも数を数えることだけではない
  • 貧困を数える、貧困線をどこかに定義するということは常に恣意的な作業である
  • 例えば、2005年のフランスのデータでは、貧困線を平均所得の50%以下と定義するか、それとも60%以下と定義するかによって、貧困であるとカウントされる人数が大きく異なった。50%でカウントすると360万人(人口の6%)、60%でカウントすると720万人(人口の12%)と、数にして2倍も異なったのである。しかし、50%の場合の平均所得は600ユーロ、60%の場合の平均所得は700ユーロとそれほど変わらない。こういった事例はどこかに線を引くことに伴う恣意性の存在を強く示している

f:id:hirokim21:20161023190103j:image社会的地位としての貧困

  • では、「この人は貧しい、あの人は貧しくない」ということは一体何によって定義づけられると考えるべきなのか
  • 社会学者のジンメルが1908年に「貧者」というカテゴリの定義について語ったことが参考になる
  • ジンメルはこう言った。「社会の周りの人から援助を受けているものが"貧者"である」と
  • これは、特定の人々を社会がどのように扱うのか、という点に着目した貧困の定義である。すなわち、ある社会がどのような援助のシステムを用いて、特定の人々とどのような関係を取り結ぶか、ということに注目しているわけである

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社会ごとに貧困が持つ意味合いは異なる

  • ここから言えることは、異なる社会ごとに貧困のカテゴリ化のあり方は異なるということだ。以下の3つのタイプがあると考えることができる
  • 1)貧者はある程度自然に発生してくるものと考える(Naturalisation)
  • 2)貧者は本人が悪いのだと考える(Culpabilisation)
  • 3)貧者はシステムの被害者だと考える(Vicitimisation)
  • このように貧者という存在が社会においてどう知覚されるかが異なるだけでなく、貧者自身の体験のあり方も社会によって異なることが重要である

2. 社会的降格という概念

ポーガム教授は続いて自身の博士論文のタイトルでもある「社会的降格」という概念と、その概念が生み出された背景について論じました。 

f:id:hirokim21:20161023190254j:imageフランスにおける初期の研究

  • 1980年代のフランスでは「新しい貧困」が問題になっていた
  • 以前より多くの人々が社会的援助を求めるようになっていた。失業し、失業保険も使い切って、さらにその先の援助を使う人々が増えていた
  • 私が社会調査を始めた頃は、毎年50%ずつ貧困支援に関わる予算が増額していた。先に述べたジンメルによる貧者の定義に従えば、それと同等のペースでフランス社会における貧者が増えていったと言うこともできる
  • 貧者に対する調査をしてわかったことは、彼らが他者から自分に対するネガティブな視線を、自分で自分自身に対して持っているということだった。 そうした調査を通じて「社会的降格」というアイデアが出てきた
  • 援助を受ける人たちは社会の外ではなく中にいる存在である。社会の中にいながらある特定の地位、他より価値が低い地位を与えられている。言うなれば社会における一番下の層、その層の存在について異常であり何とかしなくてはと社会全体が考えている層にいる存在である
  • 大事なことは、こうした社会的降格がプロセスとして起こるということである。そのプロセスは以下3つの連なりとして整理することができる
  • 1)脆弱になる
  • 2)依存する
  • 3)社会的な絆が断絶する
  • こうしたプロセスを通じて少しずつハンディキャップが蓄積していく
  • しかし、彼らは決して受け身なだけの存在ではなく、自己の境遇を何とかしようとする存在でもある
  • こうした考え方を用いてヨーロッパや世界の他の国々について分析してみてはどうだろうと考えるようになった

f:id:hirokim21:20161023205324j:image『貧困の基本形態』訳者であり、当日のモデレータを務められた川野英二大阪市立大准教授

3. 比較的アプローチ

ポーガム教授は次に自身が長年にわたって取り組んできた、貧困に関する多国間の比較分析について論じました。

f:id:hirokim21:20161023190202j:image方法論

  • ヨーロッパはその内側に非常に多様な国々を抱えており、比較分析におけるラボとしての役割を果たしている
  • 例えばドイツとギリシャには生活水準に大きな差があり、また北欧と南欧の間にも文化の差がある
  • 比較研究のために、EUのすべての国で、同じ条件下でインタビュー形式の調査を行った
  • このアプローチを活用することで、ヨーロッパだけでなく、南米やインド、日本など、世界の様々な国を比較の対象とすることができる
  • トクヴィルもかつて社会によって貧困のあり方、捉え方が違うと書いていた。富める国の貧困と貧しい国の貧困は違うということを書いていた

f:id:hirokim21:20161023190231j:image
ポーガム教授

4. 貧困の基本形態という分析枠組でヨーロッパを見る

ここからポーガム教授は「貧困の基本形態」という彼独自の分析枠組についての説明に移りました。

f:id:hirokim21:20161023190335j:image社会が貧困と持つ関係の基礎

  • ジンメルの定義を思い出すと、貧者とそれ以外の相互関係が鍵になっていた
  • それは社会による表象と貧者本人の体験の双方に関わるものである
  • そうした観点から貧困の基本形態を以下の3つに整理することができる

f:id:hirokim21:20161023190704j:image3つの貧困の基本形態

  • 1)統合された貧困
  • 2)マージナルな貧困
  • 3)降格する貧困
  • この3つが貧困の基本形態である

f:id:hirokim21:20161023190355j:image統合された貧困

ポーガム教授は3つの基本形態について「社会的表象」と「生きられた経験」という2つの側面から説明を加えていきます

  • まず統合された貧困について。この社会では、貧困は自然現象として捉えられる。社会の中で、多くの割合の人々が貧困状態にあるような社会である
  • そこでは貧困をどうにかしようという議論ではなく、むしろ経済開発を進めていこうという議論が支配的である
  • 貧者は自分たちが貧しいとは思っていない。貧者であるという負の烙印もあまりない。みんなが貧しいからむしろ社会に統合されていると感じている
  • 1835年にトクヴィルがポルトガルをそうした社会として描いている
  • 現在の南欧諸国もこうした社会であると考えられる

f:id:hirokim21:20161023190408j:imageマージナルな貧困

  • 次にマージナルな貧困について。こうした社会では、貧困は社会がなんとか戦って改善すべき対象として考えられている。貧困は自然な存在ではなく、排除していくべき対象である
  • 貧者は社会の中のほんの一部に過ぎず、社会の周辺部分にのみ存在する。マイノリティという地位、余剰的な地位を与えられている。いわば社会の残余物、社会的な問題として知覚されている

f:id:hirokim21:20161023190422j:image降格する貧困

  • 最後に降格する貧困について。経済的危機や不況の蔓延がこうした貧困の背景にある。「新しい貧困」や「社会的排除」という言葉で表現されるような状況
  • 一部の人が残余的な形で貧困状態にあるのではなく、貧困層がどんどん拡大していく社会。そこでは社会全体が不安を抱えており、自分も明日そうなるかもしれないという感覚が広がっている

f:id:hirokim21:20161023190443j:image統合された貧困の説明要因

次にポーガム教授は3つの基本形態について、経済/開発、社会の絆、社会的保護の仕組みという3種類の説明要因を用いて説明を加えていきます

  • まず統合された貧困について
  • 経済はあまり発展していない状態にあることが多く、
  • 家族的なつながりや連帯が保護の役割を果たしており、
  • 公的な社会保障、最低賃金といった仕組みは発達していない

f:id:hirokim21:20161023190500j:imageマージナルな貧困の説明要因

  • 次にマージナルな貧困について
  • 経済は発展しており完全雇用に近い状態が達成されている
  • 皆が雇用されているので、家族に助けてもらう必要が薄れている
  • 公的な社会保障システムが確立しており、貧困をなくし予防していくことが目指されている

f:id:hirokim21:20161023190508j:image降格する貧困の説明要因

  • 最後に降格する貧困について
  • 失業率が上昇し、なかなか仕事に就けない人が増えてくる。また一度仕事に就いても不安定な状況に置かれる人が増えてくる
  • 家族や近しい人が助けてくれるという社会的な絆は弱まっている
  • 公的な社会保護に支援を求める人の数が増大する

f:id:hirokim21:20161023190634j:image統合された貧困に近い国々

続いてポーガム教授はこれら3つの貧困の基本形態のそれぞれに当てはまるヨーロッパの国々を述べていきます。

  • 統合された貧困に近い状態にあるのは地中海諸国である

f:id:hirokim21:20161023190645j:imageマージナルな貧困に近い国々

  • マージナルな貧困に近いのはスカンジナビア諸国である
  • 東西統一前の西ドイツもこれに近い。西ドイツでは「貧者がいない」と考えられていた。統一後、東側の人口と一緒になって初めて自国内の貧者の存在が知覚されるようになった

f:id:hirokim21:20161023190700j:image降格する貧困に近い国々

  • 降格する貧困に近いのはイギリス、フランス、そして東西統一後のドイツである

5. 日本的特殊性は存在するか?

講演の最後に、ポーガム教授は自身の分析枠組を日本に適用し、日本における貧困の形態について論じました。

f:id:hirokim21:20161023190530j:image2つの期間

  • 日本の戦後を2つの期間に分けることが、貧困の基本形態という観点から適当だと考える
  • 高度成長期はマージナルな貧困の時代、1990~2010年代は降格する貧困の時代とそれぞれ言うことができるのではないか

f:id:hirokim21:20161023190542j:image戦後における貧困:マージナルな貧困

  • 高度成長期の貧困はマージナルな貧困であった
  • 高い経済成長率と完全雇用に近い状態。社会的保護のシステムも整備が進み、ジニ係数は非常に低い状態であった。スウェーデンよりも低い時もあるほど不平等の少ない社会だった
  • 自分の仮説では、この時代、集合的意識の中で「貧者はいない」と皆が思っていたのではないか
  • そこでは非常に特別なケースだけが貧者であると知覚されていたのではないか

f:id:hirokim21:20161023190554j:image1990~2010年代の貧困:降格する貧困

  • 1990年代以降は状況が変化し、降格する貧困の時代になっているのではないか
  • 賃金労働社会が危機に陥り、失業率が増加している。不安定雇用の割合が増え、労働市場がよりフレキシブルな形に変化している
  • 他の国々と同様、日本でもネオリベラルな政策が採用され、「再市場化」という考え方が支配的になっている
  • 貧困の存在が目に見えるようになり、ホームレスなどについても多く語られるようになる。貧困が国民の意識に入り込み、日常の一部となっている
  • 多くの日本の人たちが自分もその貧困層になってしまうのではないかと考えている

f:id:hirokim21:20161023190604j:image貧困を自己責任と見るか、被害者と見るか

  • 貧困を自己責任と見るか被害者と見るか。議論の余地のあるテーマだが、ヨーロッパ人の私から見ると、日本では「働くことは良いことだ」という「働く倫理」が強いように思われる。「貧しい人は怠け者である」という烙印を押す傾向が強いのではないか
  • 他方、ヨーロッパの国々と同様、日本にも連帯する意識もあるのではないか。従って、ある程度抑制された形ではあるが、被害者として見る意識もあるのではないか

結論

講演全体を振り返り、ポーガム教授は講演の要旨を2つの点にまとめました。

f:id:hirokim21:20161023190615j:image結論

  • 1)貧困の基本形態という分析枠組は様々な社会における貧困との関係を比較するのに役立つのではないか
  • 2)日本は今のフランスやドイツに近いと言える。マージナルな貧困から降格する貧困への変化の途上にあるのではないか

f:id:hirokim21:20161023184325j:imageポーガム教授と同時通訳の方(先日のムクウェゲ医師の講演のときと同じ方でとても素晴らしい通訳でした)

個人的な振り返り

講演の内容は以上です。一見素朴でわかったような気になってしまう「貧困」という現象をどう捉えるか、ポーガム教授が提唱する方法は貧困そのものを見るよりも、「貧者を含む社会全体が貧者との間に取り結ぶ関係のあり方を見る」というものでした。その方法論こそがポーガム教授の研究のエッセンスだと思うので、ぜひそのことがこの記事から伝わればと思います。

モデレータの川野准教授がおっしゃっていましたが、日本の貧困研究は他国に比べて進んでいるとは言えない状況のようです。講演冒頭でポーガム教授が問題提起した数的な貧困線の調査についても、日本では民主党政権時にようやく始められたばかりです。それから相対的貧困率、子どもの貧困率といったものについて具体的に議論することが可能になり、また少しずつ議論が広がり始めた段階と言えるかもしれません。

しかし、ポーガム教授のフレームワークは貧困についてさらにその一歩先を見据えるものです。日本社会は自らの内なる貧者との間にどのような関係を取り結んでいるでしょうか。生活保護や失業保険、年金といった制度的な関係だけでなく、貧者をどんな視線で見つめるか、貧者がどんな経験をしているか、深く考えたことがあるでしょうか。

世界の中で同じ時代に存在し、似たような苦境に直面していても、国や社会のあり方によって貧困のあり方は異なります。そこには必然や抗いがたい流れがあるだけではなく、今の社会のあり方を意識的に理解することを通じて変えていける部分もあるはずです。

講演後のQ&Aでポーガム教授もおっしゃっていましたが、降格する貧困への移行に伴って、中間層から脱落した人々がむしろ強い権力を求め、労働者のための政党であるはずの社会民主主義的な政権下でむしろネオリベラルな政策が推進されていく、ここ20~30年ほどの間に起きているそうした世界的な潮流の存在は明らかだと思います。

ここ日本においても時に「活躍」というポジティブな言葉の装いを伴いながら、できるだけ多くの人を労働による自立へと移行させつつ、同時にその労働のあり方自体はどんどんと不安定化していくという流れが眼前で進行しています。働き方の柔軟化、多様な働き方の推進はとても重要ですが、それが生活基盤となるはずの労働の不安定化と表裏一体だとすれば手放しで喜ぶことはできません。

いずれにせよ、ポーガム教授の診断の通り、貧者の存在はここ日本でも社会のごく一部を占める周辺的な現象、マージナルな存在であることをやめ、ホームレス、ネットカフェ難民、ワーキングプアなど様々な形をとって社会に偏在するようになっています。いま一度私たちの社会のあり方を問うきっかけとして、このタイミングでポーガム教授の言葉が聞けたことに改めて感謝したいと思います。

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

(追記)その後、「降格する貧困」というテーマで11/3にTOKYO FMに出演させていただきました。その時にお話したことの一部を以下の記事にまとめていますので合わせてお読みくだされば幸いです。

児童虐待問題について福祉専門職の後輩が教えてくれたこと

昨日の朝こちらの記事を読んで何ともいたたまれない気持ちになり、「何度も保護できるチャンスがあっても保護できなかった。子どもを社会で育てるってどういうことだろうか。」というコメントを添えて投稿しました。

「バイバイ」笑顔の幼子、母は橋から落とした:朝日新聞デジタル

すると、行政で福祉専門職として働いている後輩からとても参考になる文章を送ってもらったので、ぜひシェアさせてください(本人の承諾を得ています)。現場に近い立ち位置からの貴重なコメントだと思います。

何度も保護できるチャンスがあっても保護できなかった。
死亡事例の報道でよく言われることです。

最初に念のため、申し上げておきたいのは児相が支援しているケースの99%は児相の支援により命を落とすことを防げているのであって、1%、ほんのわずかな綻びで命を落としてしまうケースばかりが報道で取り上げられ、その度に現場はプレッシャーを高め、中には心を病んでしまう職員もいるという悲しさです。
報道の性質は仕方がないのですが。
現場も当然心を痛め、真摯に検証します。公務員として子どもを守る責任をひしひしと感じ(時には自身の家庭の福祉も犠牲にしつつ…)頑張っている人が多いとは思います。
報道を責めたいわけではなく、児相が批判されるのはある程度仕方ないのです。公務員ですから。責任があります。
でも当たり前ですけど、個人の責任ではないのですよね…。仕組みの問題があります。そして、その仕組みは今回の児童福祉法改正で大きく変わりつつあります。

で、このケース、仮に保護できていたとしても、一定期間の後にお家に帰っていたと思われます。
理由は2つ、①命に関わる怪我をしていないこと、そして、②それだけ民法の家制度や親権がまだまだ強固だからです。

①は、阿呆か、と批判されるかもしれません。
ストーカー案件などでもよく警察が、何かあってからでないと動けない、と批判されます。何もない「疑い」の段階で警察が逮捕してしまえば人権問題になりますから、ある意味で当然ですよね。権力の暴走を抑止する仕組みです。
児相も似たようなもので、権限の強い警察でさえこれなのですから、福祉である児相なんて尚更です。

②かなり激しい虐待ケースでも、裁判では児相が負け、親権者が勝っている現実があります。民法の家制度を今すぐ見直すべきと言いたいわけではありませんが、難しい問題です。

仮に保護されて、親権停止や親権喪失がなされたとしても、今度は受け皿(社会的養護)の問題が出てきます。児童養護施設や里親の不足、そして、単に数的な不足だけでなく、現実に他人の子(それも虐待の影響もあって中には対応の難しい子もいます)を育てることの難しさから、施設や里親宅でのトラブルも日々起きています。
日本は海外に比べて施設9割、里親1割と施設に偏っていますので、今回、厚労省はこの里親委託率を上げると掲げています。
前述のように里親宅での難しさもありますので、単純に数を増やせばいいわけではありませんが、まずは数という考え方もありかもしれません。でもきちんと質も担保していかねばなりません。

児童福祉法の改正により児相の権限は(良し悪しは別として)どんどん強化されていきます。職員も大幅に増やされます。
それでも結局、福祉の枠組みの限界や、民法の強さによりこうした事例は悲しいことになかなかゼロにはならない気がします。
じゃあ民法を捨てて、欧米のような個人主義になれば万事解決か?というとそんな簡単な話でもありません。
結論は出ませんが、考え続けていきたいです。 

送ってもらった文章は以上です。何か正解があると訴える文章ではありません。でも、どこにどんな論点があるか、教えてくれ、考えさせてくれる文章だと思います。だから、シェアしたいと思いました。

私が以前インタビューをしていただいた際に、子どもの虐待死の事件に触れて以下のように述べたことがあります。

以前、2010年に起きた大阪二児置き去り死事件について書かれた杉山春さんのルポを読みました。アパートの一室で幼児がごはんも与えられずに放置されている。役場や福祉の人が介入できずに最悪の結果になってしまいました。近くに住んでいる人が気づいて、強く警告することができていたら…。どうしてもそう考えてしまいます。社会問題の現場は日本中にあるし、誰もが当事者になりうる。行動を一つ起こせるかどうかで人の生死を左右するような瞬間が、遠くの中東やアフリカだけではなく、日本の、自分のすぐ近くにありうるということに改めて衝撃を受けました。

一つ一つの悲劇を嘆くだけでなく、そして今の状況を前提にした罵り合い、責任のなすりつけ合いをするのでもなく。これから新たな悲劇が起きてしまう可能性を少しでも下げていくための具体的な仕組みや制度のあり方を学び、構想することができたらと改めて思いました。

現場で働いている方からこういった情報をいただけるのはとても恵まれたことです。彼らに対する最大限のリスペクトを。そして、自分自身もっともっと勉強するところから始めなければ。

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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組織に潰されないための離脱・発言・忠誠

厚労省から過労死白書が発表された。

過労死等防止対策白書 |厚生労働省

長時間労働に耐えられなくて、上司や同僚に会うのがいやで、勤め先のビルを見るのがいやで、そのために精神を壊したり、命を絶ったりする人の数が少しでも減ってほしいと心の底から思う。

信じられないほどの長時間労働、無意味に思える単純作業、権力を誇示するためだけの儀礼的なルール、そういったものも人並みには経験してきた。どんなに不快でもちっぽけな自分にはどうすることもできない、そんな無力感と常にセット売りだった。

アルバート・ハーシュマンという20世紀ドイツの政治経済学者がいる。彼は、組織に所属する個人が直面する問題に対して、個人の側が取れるアクションを大きく3つの型に整理した。1970年のことだ。

  • 離脱(exit)
  • 発言(voice)
  • 忠誠(loyalty)

「離脱」はわかりやすい。組織のメンバーであることをやめること。言葉のポジティブな意味で逃げることだ。

「発言」もわかりやすい。組織のメンバーであり続けながら声を上げて中から変えていくこと。

それに比べて「忠誠」はわかりづらい。忠誠によって組織に潰されそうな状態をどう回避できるというのだろうか。むしろ逆の意味を帯びてしまいそうな雰囲気すらある。

こう考えるとわかりやすい。「忠誠」は来るべき「離脱」と「発言」の潜在的な威力を増すための準備なのである。上に書いたが忠誠の原語はloyaltyである。組織に対する関与度、コミットメントの度合いと言い換えることもできるだろう。

関与度の高いメンバーから面と向かって批判されたら、そして離脱を示唆されたら、組織は大きく動揺する。その力を蓄えるために必要なのが忠誠だ、という構図が浮かび上がってくる。

するとこういうことになる。まずは忠誠から入り、いざとなったら発言で揺さぶり、にっちもさっちも行かなければ離脱する。これが個人と組織の健全な関係を維持するための「離脱・発言・忠誠」というアイディアの根幹にあると思う。

その上で大事にしたいと思うことが3つある。最後に。

  • 忠誠と従属を混同しない。発言と離脱への備えが自立の根幹にある。
  • 発言と離脱はまず自分のために。加えてそれらが自分と同じ境遇にいる他人のためにもなる行為だと知ること。すると、少しだけ余計に勇気が得られる。
  • たまたま自分が元気なとき、組織に対する忠誠を維持できているとき、隣にいる彼や彼女は崖っぷちかもしれない。そのことを想像することをやめない。

昨日と違う社会のあり方を想像できるか。深く悲しい出来事の中から、未来を変える強さを生み出せるか。離脱・発言・忠誠。自分に優しく、そして人間に優しく。

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)

 

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望月優大(もちづきひろき) 
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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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「性器の傷跡を見ればどのグループの仕業かわかる」デニ・ムクウェゲ医師がコンゴの紛争資源と組織的性暴力について語ったこと

「性器の傷跡を見ればどのグループの仕業かわかる」

コンゴのデニ・ムクウェゲ医師の講演を聞いて、この言葉が今も頭に残っています。その背景にどういう意味、そして社会的な構造があるか、自分に理解できた範囲で共有できればと思います。

f:id:hirokim21:20161004211736j:imageデニ・ムクウェゲ医師

ムクウェゲ医師はコンゴ民主共和国(DRC ; Democratic Republic of Congo)の医師でノーベル平和賞の本命とも言われています。コンゴの現状を伝えるアドボカシーのために世界を回っており、その途上でいま日本に来ています。10/4に東京大学で行われた講演会を聞きに行ってきました。

デニ・ムクウェゲ医師講演会:コンゴ東部における性暴力と紛争鉱物 | イベント | 東京大学

ムクウェゲ医師及びムクウェゲ医師の日本招聘に尽力された方々によるアドボカシー活動にほんの少しでも貢献できればと思い、このエントリを書いています。

米川正子氏による背景の説明

ムクウェゲ医師による講演の前に、以前UNHCRでコンゴ東部のゴマ所長をされていた立教大米川正子准教授による背景の説明がありました。(米川氏によるこちらの記事も是非合わせてご一読ください。)

f:id:hirokim21:20161004211556j:image米川立教大准教授

  • DRCでは、96年の第一次紛争勃発以来、累計で600万人以上とも言われる第二次大戦以降、一つの地域で最大の犠牲者が発生している。しかし、隣国ルワンダのジェノサイド等に比して、そのことはあまりに知られていないし注目されていない(そもそもコンゴでの紛争はルワンダ紛争の余波でルワンダ軍がコンゴ東部に侵攻したことから発生した)。
  • 国家は国民を保護する役割を負っていると考えるのが普通だが、DRCでは国家自身が加害者となっている現状がある。反政府勢力との境界線も曖昧で、資源の搾取を目的として協力関係を持つことも多い。これは近隣のルワンダやウガンダでも見られる構造。
  • 国際機関の働きにも問題がある。国連PKOは文民や市民を保護するというよりも、戦争犯罪人を保護しながら軍事作戦を行っている。国際刑事裁判所(ICC)は「small fish」ばかりを裁いており、国家元首を含む「大物」を意図的に起訴していないと考えられる。コンゴ東部での戦争犯罪についてはまだ一度も起訴がされておらず、こうした不処罰の背景には紛争鉱物の問題があると考えられる。

「コンゴは扉も窓もない宝石店のようなものだ」

続いてムクウェゲ医師の講演に移ります。ムクウェゲ医師はまずDRCにおける法治国家の不在と、それが紛争資源問題とどう関係するか、そのことから語り始めました。(以下ムクウェゲ医師の発言内容は同時通訳で聞いた内容を部分的に要約したものです)

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中央アフリカの大きな部分を占めるDRC

  • 紛争鉱物と呼ばれ、不法な開発が横行している3T+G(すず、タンタル、タングステン+金) 。特にタンタルはDRCに世界中の埋蔵量の8割が集中しているとされ、またすずやタングステンよりも同じ重量あたりの価格がかなり高いこともあって問題視されてきた。タンタルは熱や腐食に強いことから、PC、携帯・スマホ、最近ではロケットやミサイル、飛行機にも使われている。
  • こうした天然資源、鉱物を採掘、開発していくにあたり、DRCではそれらが法的に管理される状況になっていないということが問題である。最低賃金や労働時間規制などを含む様々な労働規制がそもそも存在せず、女性や子どもの重労働などによる人権侵害も当たり前に行われている。ムクウェゲ医師は「扉も窓もない宝石店のようなもの」と言っていた。
  • 同じことを鉱物を調達する(多国籍)企業側の視点から見ると、国家としての脆弱性はむしろ調達コストの低下と映る可能性がある。すなわち、末端の職人、労働者は奴隷のように扱われ、仮に賃金が支払われたとしても、非常に低いレベルに抑えられてしまう、そのことが調達上のメリットと映ってしまう可能性があるということだ。
  • 武装勢力を含む中間の業者としては、現地住民を酷使することで天然資源を安価に入手し、それらをある程度の高値で国外の様々な企業に売却可能なサプライチェーンが一度構築できさえすれば、その後は安定的に利ざやが確保できる。そうすることで、武器の購入など、鉱山及び周辺コミュニティの支配を目的とした武装勢力の維持・強化のための費用を外部資金調達なしにまかなうことができる。

コミュニティ全体をトラウマ化し支配するための組織的性暴力 

私たちが普段暮らす中で意識することもない法治国家という前提。その前提が不在のうちに、コンゴ東部で長年起きている悲劇。ムクウェゲ医師が医師として被害者、サバイバーに対するケアを粘り強く行っていく中で、目撃し、理解し、世界に訴え続けてきたこと。ムクウェゲ医師の講演が核心部分に迫っていきます。

f:id:hirokim21:20161004211518j:imageムクウェゲ医師についてのドキュメンタリー作品「女を修理する男」(難民映画祭HP

  • コンゴ東部で大規模かつ組織的に行われ続けている集団レイプは個人個人の性的な欲求に基づくものではない。それは、紛争資源を産出する鉱山近くのコミュニティを恐怖によって支配し、鉱山を独占的に支配するためにある種合理的に選択された手段である。
  • レイプはシステマティックに行われる。一晩のうちに、ある村の200-300人の女性が全員犯される。生後6か月の幼児から80代の老婆まで、無差別に、全員が性的暴力の標的になる。こうした性的暴力は、夫や子どもの眼前で行われる。コミュニティ全体をトラウマ化し、恐怖によって支配するためだ。こうした迅速かつ大規模なレイプは計画的にしか成しえない。それは、性的テロリズムである。
  • 性的暴行を行う際、それぞれの武装勢力は異なる形で、「一生残る特定の傷跡」を残す。例えば、あるグループは木の棒や銃を用いて膣に穴を開ける。したがって被害者、サバイバーの性器に残った傷跡を見ればどのグループによる犯行であるかをムクウェゲ医師は把握することができる。このようにあるグループ内で共有された行いの存在は、そのことを可能にする集団的な研修のようなことが行われていることを想像させる。そして、刹那的な性的欲求とは全く異なる計画性、目的意識の存在を感じさせる。
  • こうして恐怖によって支配された鉱山近くの村では、そのコミュニティ自体から逃亡する者も多い。残った者は、鉱山で奴隷のような条件で労働させられる。

遠くの国の私たちとの関係

コンゴ東部で産出される天然資源は、ムクウェゲ医師がすでに語った通り、PCやスマホなど私たちの身近な製品を生産するのに今や欠かせないものとなっているそうです。こうした事態に対して、企業、あるいは個人としてどんな視点を持ち、どんなことができうるのか。トレーサビリティの確立、資源開発や最終生産物に関わる企業や消費者の倫理、そうしたテーマが講演の終盤で語られました。

f:id:hirokim21:20161004211542j:imageタンタルなどレアメタルを取り扱う企業の方も登壇されていた

  • 2010年に米国でドッド=フランク法という金融改革法が制定された。その1502条において、DRCで産出される4種類の鉱物(3T+G)を利用する企業は、その出所及びトレーサビリティを調査し、報告書を公表する義務が課せられた。これによって、米企業だけでなく、米企業と取引をする海外企業(日本企業含む)にも同様の規制がかかることになった。
  • EUでも同様のガイドラインが近年制定され、トレーサビリティの確立が進んでいる。(しかし、日本ではまだ国内法が整備されていない。)
  • 2014年にムクウェゲ医師が旧ソ連の物理学者アンドレイ・サハロフに由来する「思想の自由のためのサハロフ賞」を受賞した際にスピーチした内容を、ムクウェゲ医師は再度以下のように語り直した。
  • 曰く、私たちは事態の原因そのものを解決するような手段をとるべきである。それぞれの国で必要な法律をつくりきちんと実施することだ。そのとき考慮に入れるべき3つの目的は、①不法な鉱物資源と紛争のつながりを切ること、②武装勢力の資金源を断つこと、③望まない移動、レイプ、強制労働といった人権侵害を阻止すること。
  • 曰く、そうした法律の制定は企業活動の自由を奪うだろうか。否、倫理を樹立するために、人権を守るという責任を果たすために必要なことである。自由を野放しにすることで、自由は死んでしまう。

ムクウェゲ医師からの最後の言葉

講演の最後にムクウェゲ医師が話した言葉をご紹介して、このエントリを閉じたいと思います。(当日の同日通訳の方の言葉づかいに沿った形になっています)

世界人権宣言の理想がありますが、コンゴ東部に住む人たちにとっては、それがいつからどのように現実になるのか、ということが問われると思います。そこにある野蛮、非人道的な状態からどうやって抜け出すことができるのか。いつ平和と人権、そして正義が守られる世界が来るのか。世界人権宣言、人々の人権を考えずに、グローバル経済を作り出すということがどうやってできるのか。

私は言い続けて尽きることがないのですが、企業は決して私たちの敵ではありません。人権に対する敵でもありません。むしろその反対です。私たちのパートナー、それ以上の友人です。平和を実現できる人たちであり、社会的な正義を実現できる、また持続的な発展を促進するためのテコでもあります。

ですので、今やわたしたちは、そして皆さんは、自分の国の政治的なリーダーに対して要求をしていくときがやってきました。紛争地域から来る鉱物資源の規制をするための法律を作ってほしいと要求をするときがきました。そして、自国のメカニズムの中で、自国できちっと証明ができて、そしてデューデリジェンスを果たすことができるようなサプライチェーンの確立というものが、輸入者を含めて、確立していくように要請していくときが来たと思います。

また、私たちは消費者として、私たちが買う商品の中にどういうものが使われているのか、それがどこから来ているのか確認するという責務があります。それが、人の人権、女性の破壊という非常に酷い状態を経てつくられたものなのかどうか、得られたものなのかどうか、それを販売する人に尋ねて確認ができるような状態をつくり出すということが必要になります。(中略) 

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ある文明が偉大な文明かどうかを測る時に、それは、物がたくさんある、あるいは快適に生活ができるということで測られるわけではありません。いかに意識が高いか、ということで測られるわけです。人が平等である、そしてまた、お互いを助け合って、お互いが相互依存をしているから、相手と共に豊かになろう、そういう意識が高い文明こそが、優れた文明なのです。

共通の人類に私たちが所属しているならば、立ち上がりましょう、そして戦いましょう、共に。蹂躙されている、尊厳を奪われている女性のために。そして、常に従属を強いられている、不法な戦争とおぞましい性的な暴力の犠牲になっている人々の平和のために、立ち上がって戦いましょう。

プロフィール
望月優大(もちづきひろき) 
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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

「難民は気持ちの悪い害虫だ」とドイツの政治家は言った。

ニューヨークで難民サミットが行われたという。
冷戦が終わって世界が平和になるかと思えた時期があった。それから25年以上が経ち、内戦や紛争で住む場所を離れる人の数が6500万人まで急増する人道危機の時代を私たちは生きている。

難民受け入れに取り組んできた一つ一つの国は、国内からのバックラッシュに悩まされている。国内での格差が拡大する中、新たな外部を受け入れる必要も余裕もないと、国内の弱者たちが排斥を訴えている。

メルケル首相は「われわれは成し遂げられる」というスローガンを一年で降ろした。「ドイツのための選択肢 Alternative für Deutschland (AfD)」という右派政党が急伸し、もはや内政が持たないと判断したからだろう。

いま、国連に代表される「超国家的な連携」という人類の夢が危機に瀕している。人々が気づかないうちに、その危機は二つの形で静かに進行している。一つは連携の主体であるべき国家それ自体が次々に不安定化、崩壊し、その後を引き継ぐ安定的な政府を作り出せないという形をとって。そして、もう一つは超国家的な連携それ自体に対する各国市民からの不信が日増しに強まっているという形をとって。

この不信には長い歴史がある。今回の難民サミットの開催を呼びかけたアメリカ自身、ブッシュ息子時代に国連を介さない単独行動主義=有志連合でイラク戦争を強行したことを覚えている人はいるだろうか。そしてまさにこのイラク戦争こそが、アラブの春による地域秩序の弛緩を伴って現在のシリア紛争そして、イラクとシリア双方におけるISの台頭の遠因となっている。

国連だけではない。EUに対する各国の不信の高まりも同じ文脈にある。世界がグローバルにつながっていく、自分の生活に対して及ぼされるグローバルな影響が強まっていく、そのことに耐えられないと感じる人々が増えている。なぜEUなどというものが作るルールに従い、金を払わなければいけないのか。なぜ異国から訪れる人々に雇用を奪われ、文化を壊され、生活を脅かされなければならないのか。

フランス国民戦線の党首マリーヌ・ルペンはこう言った。「大規模な移民と多文化主義はEUが生み出したものです。」そして「私たちは自由なフランスを欲しています。自らの法律とマネーの支配者であり、自らの国境の番人であるような」とも。超国家的な連携から脱することが、かつては自らの手中にあった完全無欠の自由を回復する、その感覚が移民や難民の排斥を訴える声のすぐ隣にある。

国連総会に合わせてニューヨークで開かれた難民サミットは、アメリカのリーダーシップのもとに36万人の難民受け入れを確認した。これが、ドイツで、フランスで、その他の様々な国でどのように説明され、どのような反発にあうだろうか。

つい先日のベルリン市議会選で当選したAfDの政治家がFacebookで「難民は気持ちの悪い害虫だ」という書き込みを書いていたことが明らかになった。このKay Nerstheimerという52歳の議員はこの投稿以外にもナチス時代を賛美するような発言を度々行っていたという。

私はドイツ語が読めないが、以下の英語記事に今は消去されたという今年1月のFacebook投稿のスクリーンショットが掲載されており、そこでは難民について「ドイツの人々が生み出した果実を食べる寄生虫 (the parasites that feed on the juices of the German people) 」と書かれているという。

私たちが生きているのはこうした時代である。人々の代わりに「本音を言う」政治家が暗い支持を集め、かつては理想主義を掲げた指導者がその勢いに慄き「われわれは成し遂げられる」というスローガンを降ろす。人道危機のコントロール、その危機によって生み出された難民の受け入れ。その両面において国民国家間の超国家的な連携が無力を示す中、その超国家的連携への嫌悪の感情が国家の器をどんどん小さくしていく。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか。本音を言ってさえいれば、私たちは幸せになれるのか。自信に満ちて本音を言う人たちが、私は怖い。

プロフィール
望月優大(もちづきひろき) 
f:id:hirokim21:20160904190326j:image
慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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関連エントリ

世界報道写真展2016が素晴らしかった

世界報道写真展2016に行きました。恵比寿の東京都写真美術館で10/23までやっています。

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「世界報道写真展」は1955年にオランダのアムステルダムで、世界報道写真財団が発足したことにより、翌年から始まったドキュメンタリー、報道写真の展覧会です。毎年、1月から2月にかけて主に前年に撮影された写真を対象にした「世界報道写真コンテスト」が開かれ、国際審査員団によって入賞作品が選ばれます。十数人から成る審査員団は毎年メンバーを替えて、審査の中立性を保つ努力がなされています。今年の「第59回 世界報道写真コンテスト」には、128の国と地域、5,775人のプロの写真家から、合計8万2,951点の作品が応募されました。1年を通じて、世界の45カ国約100会場で開かれる本展は、約350万人以上が会場に足を運ぶ世界最大規模の写真展です。(HPより)

世界中のいたるところに様々な問題があること自体を知らなかったら、その一つ一つに対して関心を持つことも、背景や歴史を学ぶことも、自分なりの考えや意見を持つこともできません。すべての始まりに「知る」ということがあります。

しかし、どこでどう知るのが良いのか。それこそ外国語のものも含めて毎日大量の記事や写真、動画が生み出されているなかで、自分の限られた時間を使ってどこに情報を取りに行くのが良いのか。FacebookやTwitterで流れてくるものを見ているだけでは、当然偏りが生じます。ソーシャルグラフによる偏りは以前から指摘されていますが、より問題だと感じるのは「現在への偏り」です。問題の深刻性よりも新規性の高いものがニュースとなり、ソーシャルメディアを埋め尽くしてしまいます。

その意味で、世界報道写真展2016は進行中の様々な問題についての、かなり質の高いショーケースになっています。シリアやアフリカ諸国からヨーロッパに押し寄せる難民、米軍内での女性兵に対する性的暴行、中国での大気汚染や化学工場の爆発、セネガルにある全寮制イスラム学校における子どもたちに対する奴隷のような扱い、ネパール大地震、リオのファヴェーラでの警官による暴力とそれを記録しようとするアングラの人々。

昨日今日の出来事ではありません。この世界で長い時間をかけて起きていることについて、2015年のある一時点で撮影された写真が厳選されて展示されています。同じ2時間を費やすなら、ソーシャルメディアから拾ってきた記事をなんとなく読むよりも、ぜひ世界報道写真展2016に行ってみてください。目を覆いたくなる写真、こんな境遇を生きている人がいるのか、これが21世紀に起きているのか、そう感じさせる写真がたくさんあります。楽しくはないかもしれませんが、得難い体験になることを保証します。

プロフィール
望月優大(もちづきひろき) 
f:id:hirokim21:20160904190326j:image
慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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民主主義の達成における公的な立論の役割(A・セン『インドから考える』より)

アマルティア・センの新刊を読んでいて、自分の様々な行為に骨組みを与えてくれるような文章があったので、簡単に触れたいと思います。

インドから考える 子どもたちが微笑む世界へ

インドから考える 子どもたちが微笑む世界へ

 

 「個人的なものと社会的なもの」と題されたはじめの文章の中で、センはインドにおける飢饉という問題に触れながらこう語っています。

民主主義の達成における公的な立論の役割は、もっと明確に理解される必要がある。飢饉に影響されたり脅かされたりする人口の比率は、どこでも小さいーー10パーセント以上であることはほとんどなく、5パーセント以下が通例だ。だから問題は、多数決により機能する民主主義が、ごくわずかな少数派にしか影響しない飢饉の排除に、どうしてそこまで熱心であり、有能でもあるのか、というものとなる。民主主義下で、飢饉をなくそうという政治的な強制力は、飢饉の被害者ではない人々が、飢饉を根絶する必要性を自分たち自身のコミットメントとして引き受けるための公的な立論の力に決定的に依存しているのだ。(中略)

ここでメディアが果たすべき役割は巨大となる。もしこうした巨大な欠乏について、印刷メディアや放送メディアが無視する傾向があるなら、インドの民主主義は、強力な制度的基盤があっても、まともに機能していないと言えるだろう。インドにおける根深い社会的不正の蔓延についての大規模な変化の見通しは、その報道が凄まじく拡大し、公的な立論の力が大きく広がるかどうかに決定的に左右されるのだ。

この文章をインドに固有のものとして読む必要はもちろんなく、私個人としては、日本にも等しく適用可能な見方として捉えています。貧困問題、難民問題、その他さまざまな社会問題について、社会に生きる比較的少数の人々を民主主義の中で守っていくには、そうすべきであるという「公的な立論」の力が絶対的に必要です。メディアのフォーマットが多様化していく中で、既存メディアだけでなく様々なプレイヤーがこうした役割を果たしうるということは、私たちにとって大きな僥倖であるとともに、同時に大きな試練でもあると考えています。だからこそ、やらなければならない。

独立した民主国は、自分で自分の問題を解決できるはずだ。でも何がまずかったのかーー社会的に、経済的に、政治的に、そしてこれらに負けず劣らず重要な、文化的な面での失敗ーーについてのはっきりした分析なしには、たいしたことはできない。

こういう考えを持って、以下のような行為を少しずつ積み上げていきたいと考えています。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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