望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

情報発信主体としてのNPOのポテンシャル

細々とですがNPO支援のようなことをやっている身として、いつも思っていることを書いてみます。

NPOの方は現場での活動だけでなく、対外的な広報活動についても力を入れて行っていることが多いと思います。そのために、自分たちが関わる社会問題、その問題に対する自分たちの活動について、どんな方法で、どんな伝え方をすればよいか。支援者を集めるために、どのような切り口でどのようにお願いをすれば良いか。そういったことを日々考えているかと思います。

こうした文脈において、NPO側の視点から見た広報活動は「現場」の活動に対する後方支援という意味合いが強くなります。支援者のために活動する現場に対して、お金や人をしっかり送り込む。そのために現場の活動をしっかりと社会にアピールする。それは言い方を変えれば「自分のため」に行う情報発信とも言えると思います。でも、その同じ情報発信が別の意味で社会をとても豊かにする、私はそう考えているんですね。

私は、NPOによる情報発信が、彼らが日々戦っている現場の支援だけでなく、様々な意見やメッセージが飛び交う「公共圏」自体を豊かにしていくという大きな力を持っていると思っています。もちろんNPOのスタッフの方は職業ライターではないので、ものを書くプロフェッショナルではありません。しかし、それぞれが関わる社会問題についての知識や経験に関して言えば、大きな新聞の記者さんや国家官僚だって全然しのぐこともありえると思います。毎日その問題に関わり、現場で人の顔を見ているから当たり前といえば当たり前なのですが、そのことが世の中ではまだまだ知られていないかもしれません。

私はいまインターネットやメディアに近いところで働かせていただいているので、NPOの皆さんの情報発信をお手伝いすることで、こうした点に微力ながら貢献していけたらいいなと考えています。NPOが既存メディアから取材されるのを待っているのではなく、良質な情報をみずからどんどん出していく。そんな社会になったらいいなと思っています。

以下、いくつか最近自分が関わったり、会ってお話伺ったことで上の内容に関わるかなと思ったことを書いてみます。

ハウジングファーストイベント(つくろい東京ファンド/世界の医療団)

ホームレス支援の新しい形である「ハウジングファースト」に取り組むつくろい東京ファンドの稲葉剛さんと世界の医療団の森川すいめいさんとイベントをしました。

少年院スタディツアー(育て上げネット)

若年無業の問題に取り組む育て上げネットの工藤代表がコーディネイトしてくださった、茨城農芸学院という少年院のスタディツアーに参加させていただきました。ツアーという形で発信力や社会的影響力がある人たちを現場に連れていく試みとして素晴らしいと感じました。こちらに個人的な感想を書いています。

スゴいい保育(フローレンス)

フローレンスのオウンドメディア「スゴいい保育」の運営について聞かせていただく機会がありました。病児保育や小規模保育、障害児保育、養子縁組に取り組むフローレンスさんは駒崎代表個人の情報発信力がすごすぎることも去ることながら、団体としてもオウンドメディア運営までやっていてほんとにすごいです。

駒崎さんが登壇されたイベントにモデレーターという形で参加させていただく機会も最近ありました。

社内ランチも一つの情報発信の場

少し毛色が違うのですが、いま勤めている会社で学生インターンをしてくれている松岡くんがReBitというNPOのメンバーでもあるので、社員みんなでランチを食べるタイミングでLGBTをテーマにした発表をお願いしました。社員も数十人いるので、社内ランチでの発表も一つの立派なイベントになります。とてもわかりやすくて勉強になりました。

それ以外にも、関わりをもたせていただいているNPOの方たちが様々なオンラインメディアで積極的に発信しているのを陰ながら応援しています。駒崎弘樹さん工藤啓さん大西連さんなど、NPOを運営されながら情報発信主体としても凄まじい活動をされている方がたくさんいますし、ジャーナリストや学者の方たちに加えて、NPOの方たちがどんどん情報発信していくことで、良質な情報がどんどん増えていくことを願っています。私自身も、情報発信主体としてのNPOのポテンシャルが開花していく未来のために自分なりにできる支援を継続していきたいと思いますし、みなさんもぜひそういった目線でNPOやソーシャルセクターのプレイヤーの活動に注目してみてください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

天皇と国民とメディア

天皇については、日本国憲法の第1条にこう書かれている。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

この内容に関連して、今上天皇が昨日のビデオ映像で以下のように語られていた。

天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

憲法には、天皇が日本国の象徴、そして日本国民統合の象徴「である」ことが書かれている。しかし、この言葉で語られていることは、今上天皇が、天皇として、憲法に書かれている通りの日本国及び日本国民統合の象徴「になる」ために、これまでの約28年間心血を注いでこられたということだろうと思う。そして、今上天皇が、天皇として、「になる」の契機が常にすでに必要だと考えられているとすれば、その理由、それは天皇が日本国及び日本国民統合の象徴「である」こと自体が、「主権の存する日本国民の総意に基く」ため、常にすでに日本国民の総意を更新し続ける必要があると考えられているからではないだろうか。

では、そもそも天皇自体の必要性、皇室自体の必要性を私たちはどのように理解してきたのだろうか。日本国憲法の成立とともに民主主義国家として新たなスタートを切った日本、政教分離を掲げたその戦後日本の中心に、「国民のために祈る存在」としての天皇が国家及び国民統合の象徴として存在するということ。よく言われる通り、天皇という制度には人権という観点から見た場合に大きな問題があり、今回の今上天皇からのメッセージもまさにそのことを問題として考えざるを得ない状況について改めて直視を迫るものであった。こうした「象徴天皇制と民主主義の合成」というある種の矛盾を孕んだ構成を戦後日本が選択した理由は、敗戦後の日本人が安定した秩序を構築するために、国民統合のために必要だったからということに尽きるだろう。国民のために、国民統合のために、天皇制を象徴という形で存続させることを私たちは選択したのである。

そして、そのことを、今上天皇は実際に28年間やってこられたのだと思う。先の言葉に先立つ部分で、今上天皇は以下のように述べられている。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

日本の戦争を集結させ、戦後日本の準備を告げた言葉が8/15の玉音放送であったように、天皇が国民統合の象徴として振る舞う際には、常にメディアの存在があった。そして、天皇が国民統合の象徴たる所以、それは、メディアを通じて天皇と国民一人一人が結びつくということにあるだけでなく、天皇を媒介とすることで、国民一人一人が会ったこともない他者、場合によっては遠く離れた場所に住んでいる他者のことを想像し、異なる小さな共同体の一員同士であったとしてもなお自分たちが「同じ日本国民」である、そのことを実感することにあったのだと思う。

こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

その意味で天皇天皇であるためには常にメディアという機能が必要であったし、天皇天皇であるということは天皇自身の存在そのものがメディアであるということと切り離せないだろうと思う。私にとって昨日のビデオ映像はそのことを改めて再確認させるものだったが、だからこそ昨日のビデオ映像をどれだけの人が見たのだろうかということがとても気になっている。NHKやその他民放などテレビで見た人もいるだろうし、YouTubeで見た人もいるだろう。書き起こしのオンライン記事を読んだ人もいるだろうし、Facebook LiveやAbema TVで見た人もいるだろう。

マスメディアに情報が集中していた時代からネット上の大小さまざまのメディアが林立する時代に変わったなかで、天皇にまつわる一つの映像、一つのコンテンツがここまで多くのメディアで同時に放映され、そしてその映像や書き起こしが瞬く間に拡散されたということは驚くべきことではある。語弊を恐れずに言えば、戦後70年以上がたち、天皇の存在が国民統合のために果たし得る力は少しずつ弱まってきていると考える見方もありえるように思う。そのなかで、特に若い世代において戦前、戦中、そして戦後初期のような形で天皇という存在を身近に感じることはないだろうし、昨日「初めて天皇という存在について考えた」という声を実際に耳にすることもあった。

そうした意味において、昨日あのような形で今上天皇のビデオメッセージが多種多様なメディアを通じて拡散されたことは、日本全国への一つ一つの旅を蓄積するだけでは決して到達できないほど多くの数、多様な人々に対して、天皇の言葉を到達させることに寄与したとは言えるように思う。皇室が国民統合の象徴としてあり続けることの必要性を語る、そのメディア的行為を通じて、国民統合の象徴たる天皇という存在自体が現代の日本で更新されるような、そんな行為だったように思うのだ。「国民の理解を得られることを、切に願っています」という締めくくりの言葉も、そのことを表しているように思えた。(ただしその「理解」の規模、その深度がどの程度であったか、どの程度でありうるかはいまだに推し量ることが難しいとは思っている。)

最後に。国民統合とは何か。「国民」とは、近代が生み出した「他者に対する共感の基盤」となる概念である。血縁・地縁関係のない他者に対して、自らと同じ者であると実感する/させるということ、北海道と沖縄に住む人々が、たとえ一度もお互いに交流し合った事がなかったとしても同じ国民であると実感するということ、それが国民を生み出し刷新し続けるということの意味である。英語ではnation-buildingと言う。

国民統合は税を中心とした国民的再分配のために必要不可欠なものである。一人一人の努力によって勝ち得たと感じている財の一部を国民の名の下に一時共同で保有し、社会のなかに存在する様々な問題に対応するために活用する。そのことを通じて、今上天皇が「地域」そして「共同体」と呼ばれたような、各地に伝統的に存在してきた規模の小さな集団では成し遂げにくい繁栄を手に入れる。国民国家と強く結びついた近代とはそういう時代であったように思うし、繰り返しになるが、日本という国はその国民統合の象徴として天皇を置く、そのことを日本国憲法の第1条に書いている国だということを改めて考えさせられた。

現代社会に起きる様々な問題を見渡せば、それぞれの問題が、この「国民統合」というもの自体が様々な方向性からの危機に晒されている、そのことと強く結びついていることがわかる。イギリスのEU離脱、中東・アフリカ諸国の不安定化とそこから発生する大量の難民、トランプや欧州諸国での極右政党の伸長、そしてパナマ文書が象徴する先進国内での経済格差の拡大。これらの最後尾に先日の相模原の事件を付け加えることもできるだろうか。

誰と誰が同じで、誰と誰が異なるのか。誰に対して共感を感じ、誰を排除したいと考えるのか。「国民」の間の共感はどのように維持可能なのか、そして「国民」それ自体が内を守ると同時に外を排除する力学から自由でないとしたら、それとは異なる別の共感の形はどのように構築することができるのか。

個人だけが並び立つ殺伐とした世界を望まないのであれば、新しい時代の要請に沿った新しい共感の形をつくっていく必要がある。そのときメディア的な作用の必要性、そしてメディアそのもののあり方の変化について同時に考えずに済ますわけにはいかない。新しい共感の基盤、そしてできるだけ開かれた共感の基盤を可能にするメディアのあり方を想像することができるだろうか。今上天皇が語った「国民統合」という言葉を通じて、そのことを考えた。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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『シン・ゴジラ』の気持ちよさについて(追記あり)

シン・ゴジラ』を観てきたので感想を書きたい。『シン・ゴジラ』という作品について何かを書くというよりは、『シン・ゴジラ』というこの作品が大ヒットしており、一部の人々を強烈に熱狂させていることについて書くといったほうが正しいかもしれない。 ちなみに、熱狂している人が多数いるという表層的な事実は知っているものの、そうした人たちが具体的に書いているブログなどに目を通したわけではない。あくまで、映画を観て、この映画が流行っているということについて自分が考えたことを書く。それほど長い文章にはならないはずだ。

まず、何の深みもない言葉で言えば、『シン・ゴジラ』は面白かった。ここで簡単にだけ触れておくと、3.11の大震災が発生したとき私は経済産業省に務めており、こうした緊急時に行政組織がどんな雰囲気を帯びるかとても良く覚えている。その記憶に照らしても、『シン・ゴジラ』は良くできていると思った。ただ、「良くできている」と言って済ますにはもう少し余剰があるだろうとも思った。その余剰がなければ、『シン・ゴジラ』がここまで強い支持を受けることはなかっただろうと思う、そうした余剰である。その余剰について考えることは、『シン・ゴジラ』を観るという体験を通じて人々が気持ちよくなるのはなぜなのか、その理由について考えることだろうと思う。

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さて、この写真にもある通り『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「現実 対 虚構。」であり、この両者にルビをふる形で「ニッポン 対 ゴジラ。」となっている。

話の構造はそれほど難しくはない。流れゆくいつもの日常のなかに突如ゴジラが現れる。ゴジラは人間が長年かけてつくりあげてきた住処たる都市を破壊し、そのことによって日常を停止する(正確に言えば、ゴジラの登場に呼応して人間の政府が日常の停止を宣言し執行する)。

日常とは平和である。少なくとも「ニッポン」にとっての日常は平和である。平和ということの意味は、秩序が生きているという意味である。秩序とは未来への予測可能性への信頼のことである。今日と同じ明日が来るということ、この一点への信頼をもって日常と非日常は区別される。ゴジラの登場は日常を終わらせる特異点であり、明日がどうなるかわからない不安を到来させる。

ここから言えることは「ニッポン 対 ゴジラ」というのが、極めて単純な弁証法的二項対立であるということだ。『シン・ゴジラ』ではこの対立を乗り越える形で「これまでのニッポン」が「新しいニッポン」に生まれ変わる。日常と非日常の対立を乗り越えることで新しい日常がつくられる、そのことが描かれている。 

さて、この文章を通じて説明を試みたい『シン・ゴジラ』の気持ちよさはもちろんこの二項対立とその乗り越えに関わっている。端的に言えば、その気持ちよさは日常の不完全さ、言い換えれば「これまでのニッポン」に対する不満が、ゴジラの出現を通じていつの間にか解消されており、これまで嫌いだったもの、これまで一体感を感じることができなかった対象が何となく好きになることができていることに存している。

その対象とは何か。ニッポンである。

シン・ゴジラ』が描くように、「これまでのニッポン」は多くの欠陥を抱えている。国家レベルではアメリカとの関係、個人レベルでは会社のしがらみ、これらのせいで「自分で決められない」どうしようもない国民、どうしようもない国家が「これまでのニッポン」だと言って、そのことを100%否定する人も多くはないだろう。

ゴジラの登場によってこうしたニッポンにもたらされるのは通常時のルールを停止する例外状態だ。例外状態を通じて、アメリカとの関係は更新され、各組織内のヒエラルキーは忘れ去られ、そして組織間の縦割りも破られる。そして、最も重要なことに、政府と国民の関係が刷新される。

この映画では日本国民それ自体にフォーカスがあたることはほとんどない。彼らがゴジラに蹂躙される姿は、都市の構成要素の一部としてであるにすぎず、彼らが何を考え、今の状況に対してどうしてほしいと思っているかはほとんど語られない。「ほとんど」と書いたが、一ヶ所だけそうしたシーンがあったように思う。それは「国会前デモ」のシーンである。とても抽象度高く表現されているシーンだが、ここで国民は政府に反対しているのではなく「ゴジラを倒せ」と要求している。すなわち、ここでは政府と国民の意思は完全に一つになっている。

このシーンはとても重要で、例外状態における「決められる政治家」への権力集中に対するある種の翼賛になっている。ここから先は、国民からの正統性を得た政府を中心とした総力戦、ゴジラを倒すことで非日常を終わらせる、そのための非日常的な緊急対応が粛々と行われていく。そこに一縷の迷いもない。手段についての迷いはあれど、ゴジラを破壊するという目標それ自体をどんなルールよりも上位に置くことについての迷いはない。民間のそれも含めて日本に存在するあらゆるリソースがゴジラの破壊に集中される。

さて、「ニッポン 対 ゴジラ」というのは元のコピーにふられたルビであった。元のコピーとは何だったか。「現実 対 虚構」である。したがって、『シン・ゴジラ』というフィクション、この映画芸術が行っていることは、虚構の力を借りて現実を変容させるさまを表現すること、そしてそれによってニュー・ノーマルの出現過程に伴うカタルシスを味わわせることだと言える。

このカタルシスはまぎれもなく国民と政府の一体感のうちにある。普段は政治に全く関心のない人々、政府が自分たちを苦しめる元凶だと感じつつ、その政府を正しく理解することも別の形に変えていくための方法を見つけることも面倒だと感じている人々。緊急事態のなかでは、「これまでのニッポン」がはらんでいた紛らわしさや歯の奥にものが挟まった感じは解消されている。そのわかりやすさが強烈な気持ちよさにつながっている。

ゴジラとの戦いを通じた日本政府の成長、このことがゴジラ以外のもう一つの他者であるアメリカによって語られる。立派に大人になった日本政府、政府を心から応援することができるようになった日本国民、これがゴジラ以後の新しいニッポンだ。この一体感が国民国家のカタルシスであり、これまでのニッポンになかったものである。

さて、この気持ちよさと私たちはどう向き合うべきか。『シン・ゴジラ』を観て感じたことについて書いた。

ーーーーー

(8/8 追記)

国会前デモのシーンについて、「ゴジラを守れ」という声も上がっていたというコメントをTwitterなどでいただいたので少しだけ追記を。ご指摘いただいた皆様ありがとうございます。再度考える糧になりました。

ゴジラを守れ」という声があったことを知って、直接的には「ここでは政府と国民の意思は完全に一つになっている」と書いた部分についての更新の必要性について考えたが、変更する必要はないと考えた。例外状態において「政府と国民の意思の一致」は国民一人一人にアンケートを取って数え上げられるものではなく、具体的な統治行為の実行とその事後的な正当化、あるいは正史化によって遂行的に表示されるからだ。

シン・ゴジラ』がそれを鑑賞する者にとって気持ちよい理由を考えることがこの文章の目的だったことに鑑みれば、映画内の演出としての国会前デモについては取り上げる必要自体がなかったかもしれない。しかし、国会前デモのシーンを取り上げた自分の文章にあえてこだわるとして、こういうことを書いておきたい。

国会前でどんなことが言われていようとも、緊急状態の中にある政府と国民の間にコミュニケーションは存在せず(政府内部の者がみな寝ている演出が示していたこと)、「にもかかわらず」ゴジラの破壊の遂行を通じて「政府と国民の一体化」は達成され、観る者にカタルシスを与える。したがって、国会前デモのシーンは言葉の正しい意味で「意味がなく」、だからこそ国家というものの本質を表しているとも言える。政府と国民を一体化させるのは選挙でもデモでもなく、緊急事態とその突破なのだということを示しているシーンではあるからだ。

翼賛には内容がない。翼賛は議論ではない。翼賛とは誰かが意図的行為として実行するものではなく、政府が国民の中に読み込むもの、そこに存在しているだろうものとして前提するものである。私たちは支持されている、私たちは通常のルールを乗り越えてまで自らを支持する国民を守る、そう決断する。それが翼賛の構造である。実際の承認は常に事後的に与えられる。それが正史化の作用だ。

最後にもう一つだけ。日常の停止は平和の停止、秩序の停止だと書いた。それをより直接的に言えば「経済の停止」である。緊急事態の開始は経済の停止を意味し、緊急事態の突破、すなわちゴジラの破壊は経済と政治との対立構造の乗り越えを意味する。総力戦体制とはそういうことだろう。総力戦の気持ちよさの理由がここにある。日常では分断されている政治と経済、国家と国民を、総力戦は一致させるからである。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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自分ではない誰かの人生のために。#ジモコロ熊本復興ツアー に参加して。

自慢の友だちについて書きたいと思います。3人います。本当はもっともっとたくさんいるんですが、まずは3人、この3人を紹介させてください。友だちであることを誇りに思うような、そんな3人です。

田村祥宏くんEXIT FILM

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徳谷柿次郎くんジモコロ

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野間寛貴くんLetters

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この3人です。いい男たちですね。3人とも30代前半です。エネルギーが漲っています。

この3人に誘われて、先月熊本に行ってきました。南小国町にある黒川温泉というところです。世界的にも有名で、普段は予約を取るのも難しい温泉郷。でも、4月の震災以降予約がぱたりと止まってしまい、一気に経営が苦しくなってしまったそうです。

実は黒川温泉は早いタイミングで営業を再開していました。しかし、まだ余震が続いていて危険ではないかというイメージ、そして熊本に旅行に行くこと自体が「不謹慎」ではないかという空気のなかで、客足が止まってしまっていたそうです。

そんな黒川温泉を応援しよう、自分の影響力を使ってできる限りの応援をしよう、そんな気持ちで企画されたのが、ぼくも参加した #ジモコロ熊本復興ツアー だったというわけです。(ツアーの趣旨やそもそものきっかけについては多くを書きません。とにかくこの記事を読んでみてください。)

彼らが黒川温泉の皆さんと一緒になってものすごいがんばって準備してくれたツアー、とてもとても楽しかったし、真心がこもっていました。町長さんから、温泉旅館の皆さん、地元の皆さんのおもてなしが温かかった。ご飯がおいしかった。阿蘇の景色がきれいだった。温泉がきもちよかった。旅行先としてこれ以上何が必要でしょうか。最高です。

でも、これはツアー自体の趣旨には反してしまうかもしれないけれど、そしてとんでもなく大きな語弊があるかもしれないけれど、ぼくは自慢の友だちの影響が熊本や黒川を越えて広がってほしい、そう思いました。いきなり何を言い出すのか。待ってください。こういうことを言いたいんです。もう少しだけ聞いてください。

以前こういうブログを書きました。

人は誰しも一人で生きているわけではないから、他人がつくったものや他人の行為のおかげで生きていくことができる。食べるもの、住んでる家、歩いてる道、乗ってる電車、読んでる本、何でもいい、自分じゃない誰かがつくったものに囲まれて人生は進んでいく。

何かを買うということは取引である。親切にするということは贈与である。そして、取引は贈与ではない。だから、定義上、親切は買えない。そして、当たり前だが、親切は売れない。だから、これも当然なのだが、ほっておくと社会のなかで売り物はどんどん増えていくが、親切は勝手には増えず、むしろ減っていく。親切には対価がないからだ。(いい人が稀少生物のように見られる理由がここにある。対価がないのに親切を繰り出す人は普通ではないからだ。)

エジプトでおなかを壊し、地下鉄で思いっきり吐いてしまったとき、周りのエジプト人みんなが助けてくれた。みんなが自然と集まって声をかけてくれたり、ティッシュを渡してくれたりした。誰に命令されたのでもなく、大勢がそうしてくれたのである。こうした経験から、親切さというのは、とある一人のいい人の個人的な素質ではなく、社会的に共有されたカルチャーのようなものなのではないかと思っている。そして、最近、そのカルチャーを「ポジティブバイブス」と呼んでいる。一人で。

このツアーに参加した人でこういうことを思った人はいるでしょうか。「自分は黒川温泉だけを応援していていいんだろうか」。出ました、不謹慎の悪魔です。黒川温泉を苦しめた元凶の一つが不謹慎の悪魔でした。この悪魔はすーっと現れます。いつ出てくるかわからない。温泉につかっているとき、楽しくお酒を飲んでいるとき、マウンテンバイクで阿蘇の山を駆け抜けているとき。

いつだって、いつの間にか、この悪魔は自分の耳元に現れる。そして「黒川温泉"だけ"でいいのか」そう問いかけるのです。この問いは苦しい。ちっぽけな自分は一体何をしているのか。大した影響力もないのに、「社会に貢献している自分」に酔っているんじゃないか。この自分は一体何だ。

これは本当に本当に怖い問いです。人々を萎縮させ、もっと最悪なことに、無関心にする力があります。無関心は悩みをシャットダウンすることができるから。悩むことはつらい、暗い気持ちでいることはつらいことだからです。

ぼくが言いたいこと、それは「黒川温泉だけでいい」ということです。自分一人にできることは限られている。自分の力を注ぐ対象がなぜあの人ではなくこの人なのか、そのことを考えすぎる必要はありません。陳腐な言葉を使います。それは「縁」です。縁としかいえない。自分に助けられる人は限られている。そして、あの人ではなくこの人を助ける。それは縁としか言いようがないことです。そして、それでいい。

そして、だからこそ、3人の「黒川温泉を助けたい」この想いが、いやこのバイブスが別の人を勇気づけてほしい、そうして勇気づけられた人たちがまた別の温泉を、また別の街を、また別の人たちを勇気づけてほしい。それがぼくが願ったことでした。3人とは違った縁を持った人たちを、3人のバイブスが勇気づけてほしい。だから、この3人を多くの人に知ってほしい。そう思ってこのブログを書いています。

何と言ってもそんなバイブスに満ち溢れた男たちなんです。この3人は。だからぼくは彼らを誇りに思っている。こういう人の存在が社会にはもっともっと必要で、こういうバイブスの存在がもっともっと必要だ。そうじゃないですか。黒川も熊本もそれ以外も、全部全部助けるにはみんなで手分けするしかない。同じバイブスに貫かれた人たちが、それぞれの人生のなかで偶然出会った人たちをそれぞれ助けるしかないんです。そして、助けた人はきっと自分を助けてくれます。そんな関係性を社会のなかでいくつもいくつもつくっていかないといけない。

これが、ぼくが言いたかったことです。あとは、この映像を観てください。そして、できればシェアしてください。黒川を熊本を応援してください。そして、自分ではない誰かの人生のために、ポジティブバイブスを振りまきながら、小さくてもいいから、自分にできることを考えてみてください。情報よりもバイブスです。バイブスを振りまいてください。かっこいい大人とはそういうものじゃないですか。そうぼくは思っています。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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少年院訪問記

先日、茨城農芸学院という第1種少年院のスタディツアーに参加させていただいた。風化してしまう前に思考のメモ書きを残しておきたかった。

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貴重な機会をつくってくださった育て上げネットの工藤代表、茨城農芸学院の小山院長ほか職員の皆様、そしてその他ツアーにご一緒させていただいたすべての方に心から感謝します。(文中の図表写真は当日説明いただいたときのものです。ありがとうございます。)

ーーーーー

一つの問いから始めたい。少年院は刑事施設なのか、それとも教育施設なのか、はたまた社会福祉施設なのか。

少年院は,家庭裁判所から保護処分として送致された少年に対し,その健全な育成を図ることを目的として矯正教育,社会復帰支援等を行う法務省所管の施設です。(法務省より) 

あるいはこう言い換えてもいい。少年院は少年を罰しているのか、教育しているのか、それとも保護し助けているのか。

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初めて少年院の門をくぐり、衣食住、そして教育、訓練の模様を少しばかり見させていただくうちに、この問いが頭から離れなくなる。私たち日本国民は、こういった場所に人々を収容して、一体何をしようとし、実際に何をしているのか。

なぜ、なんのために私たちの社会に少年院という施設が存在するのだろう。刑務所でも、学校でも、精神病院でもなく、少年院という施設を私たちが必要とする理由は何なのか。そしてその必要性は誰のどんな視点に立ったときに正当化される類いの必要性なのだろうか。

企業の方、NPOの方、大学の方、ツアーには様々な職業の方が参加されていた。彼らはどんな動機でこのツアーに参加されていたのだろう。同じくツアーに参加されていた西田亮介先生はこう書かれていた。現地でも同じ質問をされていたと記憶している。

少年犯罪について、話を聞けば聞くほど、なぜ彼らは犯罪を犯し、「わたしたち」は一般的な生活を送ることができているのか、よくわからなくなってくる。少年犯罪と社会復帰の「誤解」と「常識」をこえてーー茨城農芸学院再訪(西田亮介) - 個人 - Yahoo!ニュース

これは、感覚上の違和であると同時に論理的な違和でもあると思う。少なくとも私にとってはそうである。

少年たちは,少年院での教育を通して,自らの問題を見つめ,改善して社会に戻っていきます。二度と犯罪・非行を犯さないという決意を実現するためには,本人の努力のほかに,社会の人々の温かい心と 援助が不可欠です。立ち直りつつある少年たちへの御理解と御支援をお願いします。(法務省より)

結局、私は次の問いを避けて通ることができない。

なぜ私たちは罰せられるのか。もちろん、違法であるとされる特定の「行為」をしたことによって。

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ではなぜ私たちはその「行為」をしてしまうのだろうか?「悪」であることによって?それとも「異常」であることによって?あるいは「不運」であることによって?考えうる「要因」を並べ立てたあとになって、それらだけでは人間の行為の理由など説明しきれないことを私たちは理解する。IQが低いから?家庭環境が悪かったから?交友関係に問題があったから?それらはあくまで「確率」的な説明しかもたらしてくれない。

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カフカが『審判』で描いた世界、自分が「なぜ有罪であり、なぜ裁かれているのか」、その理由を主人公のヨーゼフKが最後まで理解できずに死んでいく世界、その世界と私たちが生きている世界にどれほどの隔たりがあるのだろうか。その問いが頭をもたげて戦慄する。

カントはかつて「啓蒙とは何か」という有名な文章のなかでこう言った。

未成年とは、他人の指導がなければ自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは、彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。

だからこそ、カントが言う啓蒙の標語はこれである。「あえて賢こかれ!」「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」

自ら未成年状態を脱し、自分自身の悟性を適切に使用することのできる大人の市民たち。その世界では、罪と罰の関係はシンプルである。罪の背後には悪があるからだ。

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しかし、私たちは少年のうちに悪を見出すだけで事足りるだろうか。この問いは哀れみのような感情よりも「物事を科学的に理解したい」という欲求により強く根ざしているのかもしれない。

そして、私たちが知っている通り、これまで「悪」という底なし沼以外の「理由」を同定する、そのために様々な学問が生み出され、その学問と並行、あるいは矛盾しながら、現実世界のうちに様々な施設や実践が発達してきた。「あえて賢こかれ」を見えない背後から支える論理が、積み重なる統治実践のうちに少しずつ凝固してきたとも言える。

最初の問いに戻る。少年院は刑事施設なのか、それとも教育施設なのか、はたまた社会福祉施設なのか。結局、それらの歴史的アマルガムのようなものとして存在しているという歯切れの悪い言葉しか私は口にすることができない。

その施設を出入りする少年たちを前にして、外部の私たちはいったいどんなふうに振る舞い、どんなふうに接するべきか、その逡巡から逃げないでいることができるだろうか。そもそもなぜ彼らが少年院に入らなければならなかったのか、その逡巡からも目を背けずにいられるだろうか。

「なぜ私たちではなく彼らが?」

同じ社会の内部で、私たちは何らかの理由で何らかの線を引き、そしてその線の向こう側で行う特定の実践によって、この社会の法と秩序を両立させようとしている。大切なことは、そこにある理由、そして実践が何らかの普遍的真理に基づいていると考えるのは間違っているということだ。歴史が教えるのはいつだって揺らぎのほうである。

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この駄文を終えるにあたり、誰に対してなのかすらよくわからない申し訳なさを感じている。よそ者なりに少しでも何か「役に立つ」ことを書きたかったが、自分に書けることと言えばこんなことしかなかった。しかし、「より良い」ということの方向性すら見失うような経験だったからこそ、原理的な思考に立ち返りたかった。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

憲法を宙吊りにするのは誰か。シーラッハ『テロ』を読んで。

ドイツでイスラム系テロリストに飛行機がハイジャックされる。ハイジャック機は7万の観客で埋め尽くされたサッカースタジアムに向かっている。飛行機には164名の乗客が乗っており、そのそばを空対空撃墜能力を持った空軍機が飛行している。防衛大臣は最近の最高裁判決を汲んでパイロットに対して撃墜許可を出さない。空軍機のパイロット、ラース・コッホ少佐は7万と164名の命を天秤にかけ、防衛大臣の許可なくハイジャック機をミサイルで撃墜する。

テロ

テロ

 

著名な刑事事件弁護士でありながら、作家としても2009年の『犯罪』で一躍世界中に名を馳せたシーラッハによる最新作のタイトルは『テロ Terror』。コッホ少佐の有罪無罪が一般市民によって構成される参審員たちによって決定される、その過程を描いた短めの法廷劇だ。

参審制について、本書の編集部による説明書きがあったので紹介しておく。

ドイツの裁判では参審制が採用されている。参審制とは、一般市民から選ばれた参審員が職業裁判官とともに裁判を行う制度であり、犯罪事実の認定や量刑の決定の他、法律問題の判断も行う。参審員は事件ごとに選出されるのではなく、任期制となっている。また、法律用語や訴訟手続きなども日本と異なる場合がある。

一般市民から構成される参審員たちの眼前で、裁判官、被告、弁護人、検察、被害者家族、被告同僚といった様々な人間が、この出来事をそれぞれの視点で語る。劇を読む読者は一人の参審員としての立場に立たされ、自分なりに有罪、無罪の結論を出すことを迫られる。「参審員」はその定義上「一般市民」であるわけだから、『テロ』の読者であるあなたにも判断はできるだろう、いやしなければならない、そうシーラッハは迫ってくるかのようだ。

一見すると、「7万人と146人の命を天秤にかけ、7万人を救うために146人を殺害することは許されるか」という倫理的な問いがドラマの中心に据えられているようだが、そことは少しずれたところで、物語の核心に迫る論点が展開されている。論理的対決の中心を掴むには、物語に折り込まれたノンフィクション、すなわち2005年に実際に制定された航空安全法と、翌2006年にその一部が違憲であるとされた実際の経緯をある程度理解しておく必要がある。

アメリカでの9.11テロ以降、ドイツでもテロ対策という名目で様々な法的措置が検討、実施され、その一環として航空安全法が制定された。航空安全法はその一部で、ハイジャック機が武器として利用される恐れがある場合、政府が軍にハイジャック機の撃墜を命じることを認めていた。しかし、航空安全法の当該部分に対して、翌2006年に連邦憲法裁判所で違憲判決が下されており、現在では停止状態にある(より詳しくは、こちらこちらの論文を参照)。

そして、「7万人と146人の命を天秤にかけ、7万人を救うために146人を殺害することは許されるか」、この問いかけについては、フィクションたるシーラッハ『テロ』の世界においても、この現実世界の違憲判決をそのまま受けて「違憲である」、すなわち国家の最高法規たる憲法に照らして「許されない」という判決がすでに出ている、そういう設定になっているのだ。

したがって、参審員たる私たちが目撃しているこの裁判、そこでは、憲法解釈の番人たる最高裁が否を突きつけた判断に対して、「一般市民の常識感覚」が従うのか、それとも否を突きつけ返すのか、そのことが問われているのである。個人的なモラルの問題ではなく、法の支配を国家としてどこまで尊重するか、その「どこまで」が問いに付されている。

法の支配がないがしろにされるのは、"いまが「平時」ではない"と人々によって感知されるときであろう。そして、現代社会にとってテロの存在が脅威となっている理由は、メディア上の派手な見た目とは異なり、テロ行為が持つ殺人能力や破壊の規模の大きさによってではない。そうではなく、言葉の正しい意味で、テロ行為が人々の間に「恐怖」を蔓延させ、それによって人々がもつ「平時」と「戦時」の感覚を崩壊させるからだ。

平時と戦時の感覚の崩壊は、法の支配を覆す緊急事態、すなわち「例外状態」を容易に呼び出し、許容してしまう。普段は許されない「ある命とある命を天秤にかける」行為も、この緊急事態の最中に行えば英雄的な行いとなる。法を宙吊りにし、英雄をつくりあげるのは常に一般の市民たる私たちだ。国民を政府から守るための憲法、その憲法を一時的にでも宙吊りにするための正統性は私たち国民の中からしか得ることができない。

だからこそ、私たちはいま法廷でコッホ少佐の裁判を目撃しているのである。私たちのみが、お墨付きを与えることができるから、だからこそいまこの場所に召喚されているのである。物語の結末、すなわち判決文を言い渡すその場面までたどり着いたとき、私たちは自らが選ぶことができる選択の重さに震撼するだろう。私たちというのは、皮肉なことに、グローバルにつながったすべての私たちのことである。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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犯罪 (創元推理文庫)

犯罪 (創元推理文庫)

 

 

罪悪 (創元推理文庫)

罪悪 (創元推理文庫)

 

 

カールの降誕祭

カールの降誕祭

 

 

禁忌

禁忌

 

 

お金で買えないもの

他人によるものの多くはお金を払えば買うことができる。ただ、買えないものもある。何か。親切である。

人は誰しも一人で生きているわけではないから、他人がつくったものや他人の行為のおかげで生きていくことができる。食べるもの、住んでる家、歩いてる道、乗ってる電車、読んでる本、何でもいい、自分じゃない誰かがつくったものに囲まれて人生は進んでいく。

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何かを買うということは取引である。親切にするということは贈与である。そして、取引は贈与ではない。だから、定義上、親切は買えない。そして、当たり前だが、親切は売れない。だから、これも当然なのだが、ほっておくと社会のなかで売り物はどんどん増えていくが、親切は勝手には増えず、むしろ減っていく。親切には対価がないからだ。(いい人が稀少生物のように見られる理由がここにある。対価がないのに親切を繰り出す人は普通ではないからだ。)

エジプトでおなかを壊し、地下鉄で思いっきり吐いてしまったとき、周りのエジプト人みんなが助けてくれた。みんなが自然と集まって声をかけてくれたり、ティッシュを渡してくれたりした。誰に命令されたのでもなく、大勢がそうしてくれたのである。こうした経験から、親切さというのは、とある一人のいい人の個人的な素質ではなく、社会的に共有されたカルチャーのようなものなのではないかと思っている。そして、最近、そのカルチャーを「ポジティブバイブス」と呼んでいる。一人で。

さて、憲法で保障された自由には様々なものがあるが、その中でも表現の自由には他の自由(営業の自由とか居住移転の自由とか)に比べて優越的地位が与えられていると木村草太さんという若い憲法学者の方が言っていた。表現することには対価がないことがほとんどだから、表現には社会への贈与という側面があるというのがその理由だと彼は解釈していて、とても面白い考え方だと思った。いろいろな人が対価もないのに、考えたことを表現する。それを受け取った誰かのなかに新しい視点や考えが生まれ、新しい表現につながっていく。これもまた、ポジティブバイブスだろうと思う。

ポジティブなバイブスを広めていきたいぜ。

(ちなみに、(良い)政府が必要な理由も同じところから出てくるのだけれど、それについてはまた別の機会に書くことにしよう。)

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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(「ポジティブバイブス」は、この動画シリーズの最後のシーンで出てくる言葉。初めて観たとき深く感動し、それ以来、一人で脳内で使っている。)