日本の貧困は「降格する貧困」に近づいている。セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態』講演から。
「はしごの下にいるんだよ。それ以外におれたちが誰なのかをはっきりさせる言葉があるのか。おれたちははしごの下にいて、食うや食わず、それだけさ。おれたちのための言葉なんてない。はしごの下には工員がいて……やがて上に上がっていく。でも、おれたちは?失業者じゃない、工員じゃない、何でもない、存在しないんだよ!社会の乞食だ。それがすべてさ。何者でもないんだ!」(工場勤務歴20年以上の41歳RMI受給者の語り)
セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態』終章の冒頭に掲げられたエピグラフ
10/22に現代フランスを代表する社会学者であり、貧困の社会学で有名なセルジュ・ポーガム教授の講演に行きました。講演のタイトルは「貧困の基本形態 日本的特殊性の有無について」となっており、今年日本語訳された『貧困の基本形態』のタイトルをそのまま掲げつつ、さらに日本の貧困についても語ることが期待されました。
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非常に素晴らしい講演でしたし、ポーガム教授の考え方がもっと多くの人に知られてほしいと思ったので、講演内容をこちらの記事で共有できればと思います。自分自身の感想や考えについても、記事の最後に少しだけ述べています。
ポーガム教授を招聘され、こうした会を開いてくださった日仏会館及び関係者の皆さまに感謝します。
ポーガム教授と『貧困の基本形態』
ポーガム教授の講演は以下の順序で進められました。
- 研究対象としての貧困の定義
- 社会的降格という概念
- 比較的アプローチ
- 貧困の基本形態という分析枠組でヨーロッパを見る
- 日本的特殊性は存在するか?
講演の目次
1. 研究対象としての貧困の定義
ポーガム教授は、まず「貧困とは何か」という定義についての考えから講演をスタートしました。
測定にまつわる諸問題
- 「貧困」について考えるとき、「貧者は何人いるのか?」という数の話になりがちだが、貧困という現象を理解するということの目的は、必ずしも数を数えることだけではない
- 貧困を数える、貧困線をどこかに定義するということは常に恣意的な作業である
- 例えば、2005年のフランスのデータでは、貧困線を平均所得の50%以下と定義するか、それとも60%以下と定義するかによって、貧困であるとカウントされる人数が大きく異なった。50%でカウントすると360万人(人口の6%)、60%でカウントすると720万人(人口の12%)と、数にして2倍も異なったのである。しかし、50%の場合の平均所得は600ユーロ、60%の場合の平均所得は700ユーロとそれほど変わらない。こういった事例はどこかに線を引くことに伴う恣意性の存在を強く示している
社会的地位としての貧困
- では、「この人は貧しい、あの人は貧しくない」ということは一体何によって定義づけられると考えるべきなのか
- 社会学者のジンメルが1908年に「貧者」というカテゴリの定義について語ったことが参考になる
- ジンメルはこう言った。「社会の周りの人から援助を受けているものが"貧者"である」と
- これは、特定の人々を社会がどのように扱うのか、という点に着目した貧困の定義である。すなわち、ある社会がどのような援助のシステムを用いて、特定の人々とどのような関係を取り結ぶか、ということに注目しているわけである
社会ごとに貧困が持つ意味合いは異なる
- ここから言えることは、異なる社会ごとに貧困のカテゴリ化のあり方は異なるということだ。以下の3つのタイプがあると考えることができる
- 1)貧者はある程度自然に発生してくるものと考える(Naturalisation)
- 2)貧者は本人が悪いのだと考える(Culpabilisation)
- 3)貧者はシステムの被害者だと考える(Vicitimisation)
- このように貧者という存在が社会においてどう知覚されるかが異なるだけでなく、貧者自身の体験のあり方も社会によって異なることが重要である
2. 社会的降格という概念
ポーガム教授は続いて自身の博士論文のタイトルでもある「社会的降格」という概念と、その概念が生み出された背景について論じました。
フランスにおける初期の研究
- 1980年代のフランスでは「新しい貧困」が問題になっていた
- 以前より多くの人々が社会的援助を求めるようになっていた。失業し、失業保険も使い切って、さらにその先の援助を使う人々が増えていた
- 私が社会調査を始めた頃は、毎年50%ずつ貧困支援に関わる予算が増額していた。先に述べたジンメルによる貧者の定義に従えば、それと同等のペースでフランス社会における貧者が増えていったと言うこともできる
- 貧者に対する調査をしてわかったことは、彼らが他者から自分に対するネガティブな視線を、自分で自分自身に対して持っているということだった。 そうした調査を通じて「社会的降格」というアイデアが出てきた
- 援助を受ける人たちは社会の外ではなく中にいる存在である。社会の中にいながらある特定の地位、他より価値が低い地位を与えられている。言うなれば社会における一番下の層、その層の存在について異常であり何とかしなくてはと社会全体が考えている層にいる存在である
- 大事なことは、こうした社会的降格がプロセスとして起こるということである。そのプロセスは以下3つの連なりとして整理することができる
- 1)脆弱になる
- 2)依存する
- 3)社会的な絆が断絶する
- こうしたプロセスを通じて少しずつハンディキャップが蓄積していく
- しかし、彼らは決して受け身なだけの存在ではなく、自己の境遇を何とかしようとする存在でもある
- こうした考え方を用いてヨーロッパや世界の他の国々について分析してみてはどうだろうと考えるようになった
『貧困の基本形態』訳者であり、当日のモデレータを務められた川野英二大阪市立大准教授
3. 比較的アプローチ
ポーガム教授は次に自身が長年にわたって取り組んできた、貧困に関する多国間の比較分析について論じました。
方法論
- ヨーロッパはその内側に非常に多様な国々を抱えており、比較分析におけるラボとしての役割を果たしている
- 例えばドイツとギリシャには生活水準に大きな差があり、また北欧と南欧の間にも文化の差がある
- 比較研究のために、EUのすべての国で、同じ条件下でインタビュー形式の調査を行った
- このアプローチを活用することで、ヨーロッパだけでなく、南米やインド、日本など、世界の様々な国を比較の対象とすることができる
- トクヴィルもかつて社会によって貧困のあり方、捉え方が違うと書いていた。富める国の貧困と貧しい国の貧困は違うということを書いていた
ポーガム教授
4. 貧困の基本形態という分析枠組でヨーロッパを見る
ここからポーガム教授は「貧困の基本形態」という彼独自の分析枠組についての説明に移りました。
社会が貧困と持つ関係の基礎
- ジンメルの定義を思い出すと、貧者とそれ以外の相互関係が鍵になっていた
- それは社会による表象と貧者本人の体験の双方に関わるものである
- そうした観点から貧困の基本形態を以下の3つに整理することができる
3つの貧困の基本形態
- 1)統合された貧困
- 2)マージナルな貧困
- 3)降格する貧困
- この3つが貧困の基本形態である
統合された貧困
ポーガム教授は3つの基本形態について「社会的表象」と「生きられた経験」という2つの側面から説明を加えていきます
- まず統合された貧困について。この社会では、貧困は自然現象として捉えられる。社会の中で、多くの割合の人々が貧困状態にあるような社会である
- そこでは貧困をどうにかしようという議論ではなく、むしろ経済開発を進めていこうという議論が支配的である
- 貧者は自分たちが貧しいとは思っていない。貧者であるという負の烙印もあまりない。みんなが貧しいからむしろ社会に統合されていると感じている
- 1835年にトクヴィルがポルトガルをそうした社会として描いている
- 現在の南欧諸国もこうした社会であると考えられる
マージナルな貧困
- 次にマージナルな貧困について。こうした社会では、貧困は社会がなんとか戦って改善すべき対象として考えられている。貧困は自然な存在ではなく、排除していくべき対象である
- 貧者は社会の中のほんの一部に過ぎず、社会の周辺部分にのみ存在する。マイノリティという地位、余剰的な地位を与えられている。いわば社会の残余物、社会的な問題として知覚されている
降格する貧困
- 最後に降格する貧困について。経済的危機や不況の蔓延がこうした貧困の背景にある。「新しい貧困」や「社会的排除」という言葉で表現されるような状況
- 一部の人が残余的な形で貧困状態にあるのではなく、貧困層がどんどん拡大していく社会。そこでは社会全体が不安を抱えており、自分も明日そうなるかもしれないという感覚が広がっている
統合された貧困の説明要因
次にポーガム教授は3つの基本形態について、経済/開発、社会の絆、社会的保護の仕組みという3種類の説明要因を用いて説明を加えていきます
- まず統合された貧困について
- 経済はあまり発展していない状態にあることが多く、
- 家族的なつながりや連帯が保護の役割を果たしており、
- 公的な社会保障、最低賃金といった仕組みは発達していない
マージナルな貧困の説明要因
- 次にマージナルな貧困について
- 経済は発展しており完全雇用に近い状態が達成されている
- 皆が雇用されているので、家族に助けてもらう必要が薄れている
- 公的な社会保障システムが確立しており、貧困をなくし予防していくことが目指されている
降格する貧困の説明要因
- 最後に降格する貧困について
- 失業率が上昇し、なかなか仕事に就けない人が増えてくる。また一度仕事に就いても不安定な状況に置かれる人が増えてくる
- 家族や近しい人が助けてくれるという社会的な絆は弱まっている
- 公的な社会保護に支援を求める人の数が増大する
統合された貧困に近い国々
続いてポーガム教授はこれら3つの貧困の基本形態のそれぞれに当てはまるヨーロッパの国々を述べていきます。
- 統合された貧困に近い状態にあるのは地中海諸国である
マージナルな貧困に近い国々
- マージナルな貧困に近いのはスカンジナビア諸国である
- 東西統一前の西ドイツもこれに近い。西ドイツでは「貧者がいない」と考えられていた。統一後、東側の人口と一緒になって初めて自国内の貧者の存在が知覚されるようになった
降格する貧困に近い国々
- 降格する貧困に近いのはイギリス、フランス、そして東西統一後のドイツである
5. 日本的特殊性は存在するか?
講演の最後に、ポーガム教授は自身の分析枠組を日本に適用し、日本における貧困の形態について論じました。
2つの期間
- 日本の戦後を2つの期間に分けることが、貧困の基本形態という観点から適当だと考える
- 高度成長期はマージナルな貧困の時代、1990~2010年代は降格する貧困の時代とそれぞれ言うことができるのではないか
戦後における貧困:マージナルな貧困
- 高度成長期の貧困はマージナルな貧困であった
- 高い経済成長率と完全雇用に近い状態。社会的保護のシステムも整備が進み、ジニ係数は非常に低い状態であった。スウェーデンよりも低い時もあるほど不平等の少ない社会だった
- 自分の仮説では、この時代、集合的意識の中で「貧者はいない」と皆が思っていたのではないか
- そこでは非常に特別なケースだけが貧者であると知覚されていたのではないか
1990~2010年代の貧困:降格する貧困
- 1990年代以降は状況が変化し、降格する貧困の時代になっているのではないか
- 賃金労働社会が危機に陥り、失業率が増加している。不安定雇用の割合が増え、労働市場がよりフレキシブルな形に変化している
- 他の国々と同様、日本でもネオリベラルな政策が採用され、「再市場化」という考え方が支配的になっている
- 貧困の存在が目に見えるようになり、ホームレスなどについても多く語られるようになる。貧困が国民の意識に入り込み、日常の一部となっている
- 多くの日本の人たちが自分もその貧困層になってしまうのではないかと考えている
貧困を自己責任と見るか、被害者と見るか
- 貧困を自己責任と見るか被害者と見るか。議論の余地のあるテーマだが、ヨーロッパ人の私から見ると、日本では「働くことは良いことだ」という「働く倫理」が強いように思われる。「貧しい人は怠け者である」という烙印を押す傾向が強いのではないか
- 他方、ヨーロッパの国々と同様、日本にも連帯する意識もあるのではないか。従って、ある程度抑制された形ではあるが、被害者として見る意識もあるのではないか
結論
講演全体を振り返り、ポーガム教授は講演の要旨を2つの点にまとめました。
結論
- 1)貧困の基本形態という分析枠組は様々な社会における貧困との関係を比較するのに役立つのではないか
- 2)日本は今のフランスやドイツに近いと言える。マージナルな貧困から降格する貧困への変化の途上にあるのではないか
ポーガム教授と同時通訳の方(先日のムクウェゲ医師の講演のときと同じ方でとても素晴らしい通訳でした)
個人的な振り返り
講演の内容は以上です。一見素朴でわかったような気になってしまう「貧困」という現象をどう捉えるか、ポーガム教授が提唱する方法は貧困そのものを見るよりも、「貧者を含む社会全体が貧者との間に取り結ぶ関係のあり方を見る」というものでした。その方法論こそがポーガム教授の研究のエッセンスだと思うので、ぜひそのことがこの記事から伝わればと思います。
モデレータの川野准教授がおっしゃっていましたが、日本の貧困研究は他国に比べて進んでいるとは言えない状況のようです。講演冒頭でポーガム教授が問題提起した数的な貧困線の調査についても、日本では民主党政権時にようやく始められたばかりです。それから相対的貧困率、子どもの貧困率といったものについて具体的に議論することが可能になり、また少しずつ議論が広がり始めた段階と言えるかもしれません。
しかし、ポーガム教授のフレームワークは貧困についてさらにその一歩先を見据えるものです。日本社会は自らの内なる貧者との間にどのような関係を取り結んでいるでしょうか。生活保護や失業保険、年金といった制度的な関係だけでなく、貧者をどんな視線で見つめるか、貧者がどんな経験をしているか、深く考えたことがあるでしょうか。
世界の中で同じ時代に存在し、似たような苦境に直面していても、国や社会のあり方によって貧困のあり方は異なります。そこには必然や抗いがたい流れがあるだけではなく、今の社会のあり方を意識的に理解することを通じて変えていける部分もあるはずです。
講演後のQ&Aでポーガム教授もおっしゃっていましたが、降格する貧困への移行に伴って、中間層から脱落した人々がむしろ強い権力を求め、労働者のための政党であるはずの社会民主主義的な政権下でむしろネオリベラルな政策が推進されていく、ここ20~30年ほどの間に起きているそうした世界的な潮流の存在は明らかだと思います。
ここ日本においても時に「活躍」というポジティブな言葉の装いを伴いながら、できるだけ多くの人を労働による自立へと移行させつつ、同時にその労働のあり方自体はどんどんと不安定化していくという流れが眼前で進行しています。働き方の柔軟化、多様な働き方の推進はとても重要ですが、それが生活基盤となるはずの労働の不安定化と表裏一体だとすれば手放しで喜ぶことはできません。
いずれにせよ、ポーガム教授の診断の通り、貧者の存在はここ日本でも社会のごく一部を占める周辺的な現象、マージナルな存在であることをやめ、ホームレス、ネットカフェ難民、ワーキングプアなど様々な形をとって社会に偏在するようになっています。いま一度私たちの社会のあり方を問うきっかけとして、このタイミングでポーガム教授の言葉が聞けたことに改めて感謝したいと思います。
プロフィール
望月優大(もちづきひろき)
慶應義塾大学法学部政治学科、
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki
(追記)その後、「降格する貧困」というテーマで11/3にTOKYO FMに出演させていただきました。その時にお話したことの一部を以下の記事にまとめていますので合わせてお読みくだされば幸いです。