望月優大のブログ

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『人生の全てがゼロになる「クリティカルポイント」で、私は難民支援協会に出会った。』

昨日6月20日は「世界難民の日」でした。普段から応援している難民支援協会(JAR = Japan Association for Refugees ※読み方は「ジャー」)というNPOのスペシャルイベントがあり、会場提供のサポートを行いました。

Refugee Talk-難民を学ぶ夕べ*世界難民の日特別版*|講座・イベント − 認定NPO法人 難民支援協会 / Japan Association for Refugees

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イベントではエチオピアから日本に逃れてきた難民のアブドゥさんという方が実際にいらっしゃり、エチオピアと日本での自らの体験についてお話を聴かせてくださいました。とても多くの学びがあるお話だったのでその内容をぜひ紹介させてください。(完全な書き起こしではなく、内容を損ねない範囲で一部再構成しています。)

登場人物

  • アブドゥさん
    エチオピアから2014年に日本に逃げてきた難民の方。エチオピア最大民族のオロモ民族の男性。37歳。元々は科学の先生だったが、父親が反政府運動を行っていたため家族ごと政府から狙われ国を出ることを決意。日本での2年半の難民申請期間を経て2016年に難民認定。現在は八王子の工場で働きながら上智大学に通っている。エチオピアにまだ6人の家族(母、妻、2人の息子、2人の娘)を残している。イスラム教徒。
  • 野津さん
    JARの広報担当。アブドゥさんのお話の聞き手役。解説役。野津さんとは以前一緒にイベントを企画したこともあります。(参照→ 私たちは私たちの(無)関心とどう付き合うか。ムクウェゲ医師と『女を修理する男』上映会の記録。 - HIROKIM BLOG / 望月優大の日記 )

野津さんからのイントロ。エチオピアについて。

野津さん 昨年のリオ五輪男子マラソン銀メダルのリレサ選手のゴールシーンを覚えているでしょうか。彼はエチオピアのオロモ民族の出身で、オロモ民族に対する迫害を国際社会に訴えるために抗議のポーズでゴールをしました。

今日のゲストのアブドゥさんもオロモ民族の方です。エチオピアでは人口の4割を占める最大民族であるオロモ民族ではなく、数の上では少ないティグレ民族が政治的な力を持ってきたという歴史があります。

とくに、2015年11月に政府が「首都のアディスアベバを拡大する」という方針のもとにオロモ民族の土地の強制的な収容を開始して以降、オロモ民族による抗議運動が活発化しました。一連の動きのなかで、平和的なデモの参加者が400人も殺害され、数万人が逮捕されたとも言われています。

今日のゲストのアブドゥさんはイスラム教徒なのですが、現在はラマダンの期間で、早朝陽がのぼる前に少し食事をされ、日中は水もまったく飲まずに、先ほど少し水を飲まれてからこのイベントに臨まれています(※イベントは19:30からでした)。

それでは、早速アブドゥさんをお迎えしましょう。

エチオピア時代の話。もうエチオピアには戻らないという決意。

アブドゥさん 1992年から父が「オロモ人民民主機構」に参加していました。そのため、家族も政府からターゲットにされていました。結果として、大学に行くために必要な推薦状を地域から得られなかったり、仕事をクビになったりしました。おじもターゲットだったのですが、なんども牢獄に入れられ、そのあと外国に逃げました。

私のエチオピアでの仕事は科学の先生で、JICAのプロジェクトにも関わっていました。科学教育を開発するリサーチプログラムのコーディネートをしていました。しかし、こうした状況だったこともあり、どんな手を使ってもエチオピアから逃げたいと思っていました。JICAのプログラムで日本に行くチャンスを得たときには「もうエチオピアには戻らない」と決意しました。

日本に来てからの話。全てを失って「クリティカルポイント」まで落ちていった。

野津さん アブドゥさんはJICAのプログラムで来日しました。その後ホームレスになり、JARの支援で難民申請のプロセスに入りました。その後JARによる就労支援の結果仕事も見つかりました。難民申請も2年半に及ぶプロセスを経て最終的に通り、いまにいたっています。

アブドゥさん U字型の放物線のグラフを思い浮かべてください。左上から中央下を通って右上に至る放物線です。一番底の点がx軸とy軸の両方がゼロの地点です。

エチオピアにいたころ、私には仕事がありました。家もありました。子どもがいて、家族がいて、友達や同僚もいました。日本に来て、私はそのすべてを失いました。お金がない、家もない、食べ物もなく、友達もいない。そして、自分自身への自信も失っていました。

この全てを失った地点、この地点がターニングポイント、本当にクリティカルなポイントでした。自らへの自信を失い、人生のすべてがゼロに向かって落ちていきました。

そのころ(※ホームレスをしていたころ)、私はわずかなお金を持っていました。本当に一文無しだったわけではありません。しかも、3ヶ月間有効な合法のビザも持っていました。でも、自信を失っていたんです。

駅で駅員を見るといつも、自分を捕まえにきた警官だと思って怯えていました。どの駅でもそうです。JICAが自分を捕まえるために送り込んだ警官だとさえ思っていたのです。それぐらい私は自信を失っていました。ものすごいフラストレーションでした。本当にタフな時期だったと思います。

私は何かを食べられる場所として吉野家しか知りませんでした。そこにばかり行っていたのです。しかし、吉野家に行くには交番の脇を通らなければなりませんでした。だから、どんなに空腹でも、吉野家に行くことすらためらっていたのです。

すべてがゼロに向かっていきました。持っていたすべてを失っていました。何かを変えるには誰かの助けが必要でした。誰でもいいから自分の状況を変えてくれる人を探していました。

そして、ある日、エチオピア人のコミュニティと出会うことができました。そして、彼らがJARのことを教えてくれたのです。放物線の底、x軸とy軸がゼロとゼロのときに、私はJARを必要としていました。ゼロからマイナスに落ちてしまう前に、誰かの助けを必要としていたのです。

JARは最初に私に食料や泊まる場所(シェルター)、そしてお金のサポートをしてくれました。それらが私の人生を変えました。ほんとうにJARに感謝したい。そして、今もここにいる人たち、JARを支援する人たちに感謝したいと思います。臨界点で出会ったJARこそが私を救ってくれたのです。

JARに出会ったあとの話。難民申請のプロセスに入る。

アブドゥさん JARは難民申請を含むさまざまなことについてのガイダンスをくれました。どこにどうやって行くかを導いてくれました。

私は入国管理局で難民申請をしました。しかし、入国管理局で申請者の長い長い列を見たとき、絶望的な気持ちになったことを覚えています。私はアムハラ語も英語もできますが日本語は読むことも書くこともできません。自信を失って気持ちも落ち込んでいましたから、申請のプロセスに入っていくということ自体がとても大変だでした。

野津さん 補足します。難民申請の最初に記入が必要なフォームは多言語に対応しています。しかし、自分が「難民」であることを証明する資料、すなわち自国に帰れないということの証拠書類は日本語でないと見てもらえないことが多く、その書類を日本語にするための翻訳作業が非常に高いハードルになっています。(参考記事:日本の難民認定はなぜ少ないか?-制度面の課題から|活動レポート|難民支援協会の活動 − 認定NPO法人 難民支援協会 / Japan Association for Refugees )

アブドゥさん JARから弁護士を紹介してもらって難民申請のプロセスを進めました。証拠書類をアムハラ語からまず英語に翻訳し、その次に日本語に翻訳したのでとても大変でした。また、そもそもの書類をエチオピアから郵送する必要があり、それにもとても時間がかかりました。

難民に関してのレポートを読んで前年の難民認可が6人だと知ったときのことを覚えています。入国管理局でたくさんの人が申請していたのを知っていましたから、まさか自分がそのうちの1人になるだろうとは思えませんでした。ほんとうにわずかな可能性だと思っていたのです。様々な書類の作成も、弁護士の方のサポートがあったからこそできたことです。自分一人ではできませんでした。

野津さん 外資系の弁護士事務所を中心に、JARとして提携している事務所が11程度あります。外資系の事務所にはプロボノ文化があり、業務時間のいくらかをプロボノに使うということが決まっているのです。しかし、法律事務所としても担当できる人数に限りがありますので、すべての申請者に弁護士を紹介できているわけではないという現実もあります。

アブドゥさん 難民申請をしたあと、政府から6ヶ月のビザが交付されました。このビザでは働くことはできません。政府の難民事業本部(RHQ =Refugee Head Quarter)から家賃や生活費のサポートを受けました。

私は葛飾区に住んでいました。保護費の上限の範囲内の家賃で住めるところを紹介してもらいました。腕を伸ばしたら壁にも天井にもぶつかってしまう。それくらい小さなアパートでした。でも、駅で怯えていたときに比べたら全然良かったです。何より安全だったし雨にも降られません。

野津さん アブドゥさんは難民申請前に3ヶ月のビザを持っていましたが、難民申請後に特定活動6ヶ月というビザに切り替わりました。これによって政府から保護費として家賃や生活費のサポートを受け取ることができるようになります。しかし保護の範囲は狭く、家賃は上限4万円、生活費は成人男性で1日1500円です。これで光熱費も含めてすべての費用をやりくりする必要があります。就労はできません。

八王子にある工場で働き始める。キーワードはダイバーシティ。

アブドゥさん 難民申請が受理されるまでのあいだ、6ヶ月ビザが切れるたびにビザを再申請することになるのですが、そのうちに就労許可がおりました。そこで、JARの仲介で八王子にある「栄鋳造所」という会社と出会い働き始めることになりました。私の人生がゼロの臨界点から少しずつ上がってきました。

日本語については、まず市役所でボランティアの方から学びました。そのあと会社でもサポートしてもらいました。働きながら日本語を学びました。

家については、引っ越しに必要な初期費用が手元にありませんでした。鍵の交換などに必要な費用です。最初の1ヶ月は会社が自社のアパートに住まわせてくれました。働き始めて1ヶ月がたち、最初の給料が出てからは家賃を払うことができるようになりました。

人は生き延びてはじめて未来について考えることができるようになります。私は何をするべきかチェックリストにしていきました。そして、車の免許をとること、そして大学に行くことを考えるようになりました。上智大学の地球環境法学科を志望し、最終的に学費の半分を奨学金としていただく形で合格することができました(※詳細後述)。

会社では、鋳造、仕上げ、検査、営業といった仕事があるのですが、私は最初仕上げから始めました。冷却板を作る会社でいま2年目です。いまは営業に移っています。こう聴くと簡単な変化に聞こえるかもしれませんが、その間にとてもとても多くの挑戦がありました。私は元々科学の教師だったのです。そこから工場で働くことへの適応には技術、そして言語といった様々な面で大きな壁がありました。

野津さん アブドゥさんが勤める栄鋳造所は、JARとしての就労支援活動における最初のパートナー企業です。鈴木社長は自社の生き残りのためには海外展開が必須と考えました。しかし、元々の社員には英語や外国人へのアレルギーがありました。

そこで、社員のマインドを変えていくためにまずは社内で多様性をつくろうと考え、難民バックグラウンドをもつ方を何人も採用されて、実際に活躍されています。経産省による「ダイバーシティ経営企業100選」にも選ばれているんです。

(※鈴木社長の記事をいくつか見つけました。ぜひ一度お話伺ってみたいです。)

アブドゥさん 韓国、イラン、カメルーン、エジプト、エチオピア、そして日本。違う文化の人たちが集まって、同じ目標に向かって仕事をする。これはとても大変なことです。

一つ例を挙げます。いま私の目の前にリモコンがありますね。これと同じことが工場であったとします。このリモコンを使うのに黙って使ってもよいのか、それとも誰かに聴いてからでなくてはいけないのか。これが文化によって全然違います。文化の違いです。こういったことがたくさんあります。お互いを理解する必要があります。

2年半かかって難民認定を受ける。その後。

アブドゥさん 難民認定を受けるまでに全部で2年半かかりました。上智大学には願書を出して一度退けられていたのですが、6ヶ月しかビザがないのにプログラムが2年あったということが理由だったのかもしれません。

「失敗は成功のもと」ということわざもあります。あきらめなくなかったので、もう一度トライしました。難民認定を受けたからもしれないし、それ以外が理由かもしれませんが、今度は合格することができました。

また、難民認定を受けたことで、難民事業本部が23区内でやっている日本語教育のクラスに出ることができるようになりました。

野津さん 認定を受けた人のみ受講可能な日本語の授業で、半年間平日に毎日開催されます。

アブドゥさん 学校は23区内にあり、会社は八王子にありました。どちらをとるかの選択を迫られたのです。鈴木社長に相談したところ、「その期間の給料は全額払うから勉強してきていい」と言ってくれました。本当に感謝しています。鈴木社長、日本語の先生、RHQ、JARに感謝しています。

最後に。難民の存在はその国の症状だと思ってほしい。そして、根本原因の解決を。

アブドゥさん 最後にメッセージがあります。頭痛はさまざまな病気の症状(symptom)の一つです。その原因は風邪かもしれないしほかの病気かもしれません。そして、痛み止めを飲むことによっていっときの解放を得ることができます。

いま、世界中で難民の数が増えている、そして日本でも難民申請者の数が増えている、そのことを「様々な国で起きている問題の症状」だと考えてみてください。その国の政治や民主主義に問題がある、その国に良い統治(good governance)がない、そうした問題の症状だと考えてみてください。

私は日本に来て多くの方に支えられ、それによって痛み止めをもらったと思っています。しかしまだ根源的な痛みが残っているのです。家族はまだエチオピアにいます。根本原因(root cause)について考えましょう。根本原因を解決しなければいけないのです。

野津さん 補足です。アブドゥさんの6人の家族はまだエチオピアにいます。アブドゥさんは1人で逃れています。今の日本の制度だと、難民認定を受けるにいたるまで、自分の家族を呼び寄せるというプロセス自体を開始することができません。

根本原因と症状。私たちにできることは。

ここからは望月の簡単な感想です。アブドゥさんの言う通り、難民問題は根本原因(root cause)の解決と実際に発生している難民の方の支援(症状への対応)の両面で取り組む必要があります。

何度かこのブログで取り上げてきたコンゴの性暴力と難民発生の問題も同じ構造です。

難民問題には両方の側面が存在することを理解し、自分たちにできることを模索していければと思います。一つの方法はJARのように日本国内で難民支援を行っている団体を応援するということです。彼らは現場の緊急支援から政策提言まで幅広く行っています。私自身、そうした思いからイベントへの協力などを通じて支援を行ってきました。

現在JARはより多くの難民の方が安心して過ごすことのできる規模の事務所への移転プロジェクトを進めており、寄付を募っています。私も現在の事務所に何度かお邪魔したことがあるのですが、かなり手狭になっており、パンク状態というのもよくわかります。一人でも多くの方がクリティカルポイントから抜け出すためにとても大切なプロジェクトだと思います。こちらに寄付するのも良いと思います。

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私も少額寄付をさせていただきました。これからも自分にできることを模索していければと思っていますし、情報のインプットと様々な形での発信を続けていきたいと考えています。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味は旅、カレー、ヒップホップ。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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