私は植松のように考えない。他人を不幸にしたからと言って殺されて良い人間などいない。
今日、7月26日で相模原障害者施設殺傷事件から丸1年になる。
障害者「幸せ奪う存在」=トランプ氏演説契機に-手紙で植松被告・相模原施設襲撃:時事ドットコム
最近になって植松聖被告からマスコミ各社あてに手紙が届いたようだ。事件から1年というタイミングを意識したのだろう。上記記事よりそれぞれ引用する。
時事
植松被告は手紙の冒頭、「不幸がまん延している世界を変えることができればと考えました」と記した。重度・重複障害者を「人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在」だと主張し、「面倒な世話に追われる人はたくさんいる」「命を無条件で救うことが人の幸せを増やすとは考えられない」と訴えた。
安楽死の対象の判断基準として、「意思疎通が取れる」ことを挙げた。植松被告は襲撃時、居合わせた職員を連れ回して「この入所者は話せるのか」と聞きだそうとしていたことが分かっており、障害の程度を確認し、殺害するかどうかを決めていた可能性がある。
日テレ
■「私は意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております」「重度・重複障害者を養うと莫大なお金と時間が奪われます」
■「人の心を失っている人間を私は心失者と呼びます」「最低限度の自立ができない人間を支援することは自然の法則に反する行為です」
■「私は支援をする中で嫌な思いをしたことはありますが、それが仕事でしたので大した負担ではございません。しかし、3年間勤務することで、彼らが不幸の元である確信を持つことができました」
■「責任能力の無い人間は、罪を償うことはできません。しかし、それは罪が軽くなる理由になるはずもなく、心の無い者は即死刑にすべきだと考えております。」
人の考えは簡単には変わらない。
「意思疎通がとれない人間」は「不幸の元」であり、そうであることは彼らが生得的に犯した「罪」であり、加えて彼らは「責任能力」をもたないがゆえにその罪を「償う」ことができず、それゆえ彼らは「即死刑にすべき」だ、植松はいまもそう考えている。
そして、植松はその死刑を「安楽死の法制化」という形で公的に承認することを求め、その法制化がなされる前に私刑という形をとって彼が罪人だとみなす人々を殺害した。彼は自らの振る舞い、自らの行いをそう理解している。
必要だと思うのであえて確認しておくが、植松は当時もいまも確信犯だ。
「社会的に殺されて然るべき人とそうでない人」の境界線を揺るがしたい。「意思疎通」の有無で線を引き、あちら側に認定された人の命が奪われることを公的に承認したい、そう彼は欲望しているのだ。
彼に対して、そして彼が抱いた欲望に対して、私が言っておくべきだと考えることはそれほど多くはない。
私は植松のように考えない。
他人を不幸にしたからと言って殺されて良い人間などいない。人の生き死は他人に対する貢献や迷惑の多寡によって決められてよいものでは断じてない。
誤解のないように書いておくが、私は障害をもった人間が他人を幸せにするか不幸にするか、そんな答えも意味もない論点に入り込むつもりはまったくない。
どんな人間でも、障害をもっていてもいなくても、人を不幸にする、人に迷惑をかける、生きていくために金がかかる、他人の時間を奪う、そんな理由でその生存の停止を、その生命の殺害を公的に認められることなどあって良いはずがない。
私が言いたいのは単にその程度のことである。
そして、もしこの社会に私のように考える人が数多くいるとすれば、それは私たちが、私たち自身が、そうであることを選んできたからだ。集合的に、一人一人が、その選択をつないできたのである。だからこそ、今の社会が、今の社会のように、あるのだ。
このことこそがもっとも大切なことである。守りたいルール、モラルがあるのであれば、私たちはそのルールやモラルと一体であることを自ら選び続けなければならない。植松のように考えないのであれば、そのことを、私たち自身が不断に選び続けなければいけないのである。
事件直後、ネット上でさまざまな反応を目にしたときのザラザラとした感覚を私はいまも鮮明に覚えている。人の考えは簡単には変わらない。だから、短くてもはっきりと、自分の考えをここに書いておきたかった。
プロフィール
望月優大(もちづきひろき)
慶應義塾大学法学部政治学科、
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