望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

組織に潰されないための離脱・発言・忠誠

厚労省から過労死白書が発表された。

過労死等防止対策白書 |厚生労働省

長時間労働に耐えられなくて、上司や同僚に会うのがいやで、勤め先のビルを見るのがいやで、そのために精神を壊したり、命を絶ったりする人の数が少しでも減ってほしいと心の底から思う。

信じられないほどの長時間労働、無意味に思える単純作業、権力を誇示するためだけの儀礼的なルール、そういったものも人並みには経験してきた。どんなに不快でもちっぽけな自分にはどうすることもできない、そんな無力感と常にセット売りだった。

アルバート・ハーシュマンという20世紀ドイツの政治経済学者がいる。彼は、組織に所属する個人が直面する問題に対して、個人の側が取れるアクションを大きく3つの型に整理した。1970年のことだ。

  • 離脱(exit)
  • 発言(voice)
  • 忠誠(loyalty)

「離脱」はわかりやすい。組織のメンバーであることをやめること。言葉のポジティブな意味で逃げることだ。

「発言」もわかりやすい。組織のメンバーであり続けながら声を上げて中から変えていくこと。

それに比べて「忠誠」はわかりづらい。忠誠によって組織に潰されそうな状態をどう回避できるというのだろうか。むしろ逆の意味を帯びてしまいそうな雰囲気すらある。

こう考えるとわかりやすい。「忠誠」は来るべき「離脱」と「発言」の潜在的な威力を増すための準備なのである。上に書いたが忠誠の原語はloyaltyである。組織に対する関与度、コミットメントの度合いと言い換えることもできるだろう。

関与度の高いメンバーから面と向かって批判されたら、そして離脱を示唆されたら、組織は大きく動揺する。その力を蓄えるために必要なのが忠誠だ、という構図が浮かび上がってくる。

するとこういうことになる。まずは忠誠から入り、いざとなったら発言で揺さぶり、にっちもさっちも行かなければ離脱する。これが個人と組織の健全な関係を維持するための「離脱・発言・忠誠」というアイディアの根幹にあると思う。

その上で大事にしたいと思うことが3つある。最後に。

  • 忠誠と従属を混同しない。発言と離脱への備えが自立の根幹にある。
  • 発言と離脱はまず自分のために。加えてそれらが自分と同じ境遇にいる他人のためにもなる行為だと知ること。すると、少しだけ余計に勇気が得られる。
  • たまたま自分が元気なとき、組織に対する忠誠を維持できているとき、隣にいる彼や彼女は崖っぷちかもしれない。そのことを想像することをやめない。

昨日と違う社会のあり方を想像できるか。深く悲しい出来事の中から、未来を変える強さを生み出せるか。離脱・発言・忠誠。自分に優しく、そして人間に優しく。

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)

離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応 (MINERVA人文・社会科学叢書)

 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 
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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

「性器の傷跡を見ればどのグループの仕業かわかる」デニ・ムクウェゲ医師がコンゴの紛争資源と組織的性暴力について語ったこと

「性器の傷跡を見ればどのグループの仕業かわかる」

コンゴのデニ・ムクウェゲ医師の講演を聞いて、この言葉が今も頭に残っています。その背景にどういう意味、そして社会的な構造があるか、自分に理解できた範囲で共有できればと思います。

f:id:hirokim21:20161004211736j:imageデニ・ムクウェゲ医師

ムクウェゲ医師はコンゴ民主共和国(DRC ; Democratic Republic of Congo)の医師でノーベル平和賞の本命とも言われています。コンゴの現状を伝えるアドボカシーのために世界を回っており、その途上でいま日本に来ています。10/4に東京大学で行われた講演会を聞きに行ってきました。

デニ・ムクウェゲ医師講演会:コンゴ東部における性暴力と紛争鉱物 | イベント | 東京大学

ムクウェゲ医師及びムクウェゲ医師の日本招聘に尽力された方々によるアドボカシー活動にほんの少しでも貢献できればと思い、このエントリを書いています。

米川正子氏による背景の説明

ムクウェゲ医師による講演の前に、以前UNHCRでコンゴ東部のゴマ所長をされていた立教大米川正子准教授による背景の説明がありました。(米川氏によるこちらの記事も是非合わせてご一読ください。)

f:id:hirokim21:20161004211556j:image米川立教大准教授

  • DRCでは、96年の第一次紛争勃発以来、累計で600万人以上とも言われる第二次大戦以降、一つの地域で最大の犠牲者が発生している。しかし、隣国ルワンダのジェノサイド等に比して、そのことはあまりに知られていないし注目されていない(そもそもコンゴでの紛争はルワンダ紛争の余波でルワンダ軍がコンゴ東部に侵攻したことから発生した)。
  • 国家は国民を保護する役割を負っていると考えるのが普通だが、DRCでは国家自身が加害者となっている現状がある。反政府勢力との境界線も曖昧で、資源の搾取を目的として協力関係を持つことも多い。これは近隣のルワンダやウガンダでも見られる構造。
  • 国際機関の働きにも問題がある。国連PKOは文民や市民を保護するというよりも、戦争犯罪人を保護しながら軍事作戦を行っている。国際刑事裁判所(ICC)は「small fish」ばかりを裁いており、国家元首を含む「大物」を意図的に起訴していないと考えられる。コンゴ東部での戦争犯罪についてはまだ一度も起訴がされておらず、こうした不処罰の背景には紛争鉱物の問題があると考えられる。

「コンゴは扉も窓もない宝石店のようなものだ」

続いてムクウェゲ医師の講演に移ります。ムクウェゲ医師はまずDRCにおける法治国家の不在と、それが紛争資源問題とどう関係するか、そのことから語り始めました。(以下ムクウェゲ医師の発言内容は同時通訳で聞いた内容を部分的に要約したものです)

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中央アフリカの大きな部分を占めるDRC

  • 紛争鉱物と呼ばれ、不法な開発が横行している3T+G(すず、タンタル、タングステン+金) 。特にタンタルはDRCに世界中の埋蔵量の8割が集中しているとされ、またすずやタングステンよりも同じ重量あたりの価格がかなり高いこともあって問題視されてきた。タンタルは熱や腐食に強いことから、PC、携帯・スマホ、最近ではロケットやミサイル、飛行機にも使われている。
  • こうした天然資源、鉱物を採掘、開発していくにあたり、DRCではそれらが法的に管理される状況になっていないということが問題である。最低賃金や労働時間規制などを含む様々な労働規制がそもそも存在せず、女性や子どもの重労働などによる人権侵害も当たり前に行われている。ムクウェゲ医師は「扉も窓もない宝石店のようなもの」と言っていた。
  • 同じことを鉱物を調達する(多国籍)企業側の視点から見ると、国家としての脆弱性はむしろ調達コストの低下と映る可能性がある。すなわち、末端の職人、労働者は奴隷のように扱われ、仮に賃金が支払われたとしても、非常に低いレベルに抑えられてしまう、そのことが調達上のメリットと映ってしまう可能性があるということだ。
  • 武装勢力を含む中間の業者としては、現地住民を酷使することで天然資源を安価に入手し、それらをある程度の高値で国外の様々な企業に売却可能なサプライチェーンが一度構築できさえすれば、その後は安定的に利ざやが確保できる。そうすることで、武器の購入など、鉱山及び周辺コミュニティの支配を目的とした武装勢力の維持・強化のための費用を外部資金調達なしにまかなうことができる。

コミュニティ全体をトラウマ化し支配するための組織的性暴力 

私たちが普段暮らす中で意識することもない法治国家という前提。その前提が不在のうちに、コンゴ東部で長年起きている悲劇。ムクウェゲ医師が医師として被害者、サバイバーに対するケアを粘り強く行っていく中で、目撃し、理解し、世界に訴え続けてきたこと。ムクウェゲ医師の講演が核心部分に迫っていきます。

f:id:hirokim21:20161004211518j:imageムクウェゲ医師についてのドキュメンタリー作品「女を修理する男」(難民映画祭HP

  • コンゴ東部で大規模かつ組織的に行われ続けている集団レイプは個人個人の性的な欲求に基づくものではない。それは、紛争資源を産出する鉱山近くのコミュニティを恐怖によって支配し、鉱山を独占的に支配するためにある種合理的に選択された手段である。
  • レイプはシステマティックに行われる。一晩のうちに、ある村の200-300人の女性が全員犯される。生後6か月の幼児から80代の老婆まで、無差別に、全員が性的暴力の標的になる。こうした性的暴力は、夫や子どもの眼前で行われる。コミュニティ全体をトラウマ化し、恐怖によって支配するためだ。こうした迅速かつ大規模なレイプは計画的にしか成しえない。それは、性的テロリズムである。
  • 性的暴行を行う際、それぞれの武装勢力は異なる形で、「一生残る特定の傷跡」を残す。例えば、あるグループは木の棒や銃を用いて膣に穴を開ける。したがって被害者、サバイバーの性器に残った傷跡を見ればどのグループによる犯行であるかをムクウェゲ医師は把握することができる。このようにあるグループ内で共有された行いの存在は、そのことを可能にする集団的な研修のようなことが行われていることを想像させる。そして、刹那的な性的欲求とは全く異なる計画性、目的意識の存在を感じさせる。
  • こうして恐怖によって支配された鉱山近くの村では、そのコミュニティ自体から逃亡する者も多い。残った者は、鉱山で奴隷のような条件で労働させられる。

遠くの国の私たちとの関係

コンゴ東部で産出される天然資源は、ムクウェゲ医師がすでに語った通り、PCやスマホなど私たちの身近な製品を生産するのに今や欠かせないものとなっているそうです。こうした事態に対して、企業、あるいは個人としてどんな視点を持ち、どんなことができうるのか。トレーサビリティの確立、資源開発や最終生産物に関わる企業や消費者の倫理、そうしたテーマが講演の終盤で語られました。

f:id:hirokim21:20161004211542j:imageタンタルなどレアメタルを取り扱う企業の方も登壇されていた

  • 2010年に米国でドッド=フランク法という金融改革法が制定された。その1502条において、DRCで産出される4種類の鉱物(3T+G)を利用する企業は、その出所及びトレーサビリティを調査し、報告書を公表する義務が課せられた。これによって、米企業だけでなく、米企業と取引をする海外企業(日本企業含む)にも同様の規制がかかることになった。
  • EUでも同様のガイドラインが近年制定され、トレーサビリティの確立が進んでいる。(しかし、日本ではまだ国内法が整備されていない。)
  • 2014年にムクウェゲ医師が旧ソ連の物理学者アンドレイ・サハロフに由来する「思想の自由のためのサハロフ賞」を受賞した際にスピーチした内容を、ムクウェゲ医師は再度以下のように語り直した。
  • 曰く、私たちは事態の原因そのものを解決するような手段をとるべきである。それぞれの国で必要な法律をつくりきちんと実施することだ。そのとき考慮に入れるべき3つの目的は、①不法な鉱物資源と紛争のつながりを切ること、②武装勢力の資金源を断つこと、③望まない移動、レイプ、強制労働といった人権侵害を阻止すること。
  • 曰く、そうした法律の制定は企業活動の自由を奪うだろうか。否、倫理を樹立するために、人権を守るという責任を果たすために必要なことである。自由を野放しにすることで、自由は死んでしまう。

ムクウェゲ医師からの最後の言葉

講演の最後にムクウェゲ医師が話した言葉をご紹介して、このエントリを閉じたいと思います。(当日の同日通訳の方の言葉づかいに沿った形になっています)

世界人権宣言の理想がありますが、コンゴ東部に住む人たちにとっては、それがいつからどのように現実になるのか、ということが問われると思います。そこにある野蛮、非人道的な状態からどうやって抜け出すことができるのか。いつ平和と人権、そして正義が守られる世界が来るのか。世界人権宣言、人々の人権を考えずに、グローバル経済を作り出すということがどうやってできるのか。

私は言い続けて尽きることがないのですが、企業は決して私たちの敵ではありません。人権に対する敵でもありません。むしろその反対です。私たちのパートナー、それ以上の友人です。平和を実現できる人たちであり、社会的な正義を実現できる、また持続的な発展を促進するためのテコでもあります。

ですので、今やわたしたちは、そして皆さんは、自分の国の政治的なリーダーに対して要求をしていくときがやってきました。紛争地域から来る鉱物資源の規制をするための法律を作ってほしいと要求をするときがきました。そして、自国のメカニズムの中で、自国できちっと証明ができて、そしてデューデリジェンスを果たすことができるようなサプライチェーンの確立というものが、輸入者を含めて、確立していくように要請していくときが来たと思います。

また、私たちは消費者として、私たちが買う商品の中にどういうものが使われているのか、それがどこから来ているのか確認するという責務があります。それが、人の人権、女性の破壊という非常に酷い状態を経てつくられたものなのかどうか、得られたものなのかどうか、それを販売する人に尋ねて確認ができるような状態をつくり出すということが必要になります。(中略) 

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ある文明が偉大な文明かどうかを測る時に、それは、物がたくさんある、あるいは快適に生活ができるということで測られるわけではありません。いかに意識が高いか、ということで測られるわけです。人が平等である、そしてまた、お互いを助け合って、お互いが相互依存をしているから、相手と共に豊かになろう、そういう意識が高い文明こそが、優れた文明なのです。

共通の人類に私たちが所属しているならば、立ち上がりましょう、そして戦いましょう、共に。蹂躙されている、尊厳を奪われている女性のために。そして、常に従属を強いられている、不法な戦争とおぞましい性的な暴力の犠牲になっている人々の平和のために、立ち上がって戦いましょう。

プロフィール
望月優大(もちづきひろき) 
f:id:hirokim21:20160904190326j:image
慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

「難民は気持ちの悪い害虫だ」とドイツの政治家は言った。

ニューヨークで難民サミットが行われたという。
冷戦が終わって世界が平和になるかと思えた時期があった。それから25年以上が経ち、内戦や紛争で住む場所を離れる人の数が6500万人まで急増する人道危機の時代を私たちは生きている。

難民受け入れに取り組んできた一つ一つの国は、国内からのバックラッシュに悩まされている。国内での格差が拡大する中、新たな外部を受け入れる必要も余裕もないと、国内の弱者たちが排斥を訴えている。

メルケル首相は「われわれは成し遂げられる」というスローガンを一年で降ろした。「ドイツのための選択肢 Alternative für Deutschland (AfD)」という右派政党が急伸し、もはや内政が持たないと判断したからだろう。

いま、国連に代表される「超国家的な連携」という人類の夢が危機に瀕している。人々が気づかないうちに、その危機は二つの形で静かに進行している。一つは連携の主体であるべき国家それ自体が次々に不安定化、崩壊し、その後を引き継ぐ安定的な政府を作り出せないという形をとって。そして、もう一つは超国家的な連携それ自体に対する各国市民からの不信が日増しに強まっているという形をとって。

この不信には長い歴史がある。今回の難民サミットの開催を呼びかけたアメリカ自身、ブッシュ息子時代に国連を介さない単独行動主義=有志連合でイラク戦争を強行したことを覚えている人はいるだろうか。そしてまさにこのイラク戦争こそが、アラブの春による地域秩序の弛緩を伴って現在のシリア紛争そして、イラクとシリア双方におけるISの台頭の遠因となっている。

国連だけではない。EUに対する各国の不信の高まりも同じ文脈にある。世界がグローバルにつながっていく、自分の生活に対して及ぼされるグローバルな影響が強まっていく、そのことに耐えられないと感じる人々が増えている。なぜEUなどというものが作るルールに従い、金を払わなければいけないのか。なぜ異国から訪れる人々に雇用を奪われ、文化を壊され、生活を脅かされなければならないのか。

フランス国民戦線の党首マリーヌ・ルペンはこう言った。「大規模な移民と多文化主義はEUが生み出したものです。」そして「私たちは自由なフランスを欲しています。自らの法律とマネーの支配者であり、自らの国境の番人であるような」とも。超国家的な連携から脱することが、かつては自らの手中にあった完全無欠の自由を回復する、その感覚が移民や難民の排斥を訴える声のすぐ隣にある。

国連総会に合わせてニューヨークで開かれた難民サミットは、アメリカのリーダーシップのもとに36万人の難民受け入れを確認した。これが、ドイツで、フランスで、その他の様々な国でどのように説明され、どのような反発にあうだろうか。

つい先日のベルリン市議会選で当選したAfDの政治家がFacebookで「難民は気持ちの悪い害虫だ」という書き込みを書いていたことが明らかになった。このKay Nerstheimerという52歳の議員はこの投稿以外にもナチス時代を賛美するような発言を度々行っていたという。

私はドイツ語が読めないが、以下の英語記事に今は消去されたという今年1月のFacebook投稿のスクリーンショットが掲載されており、そこでは難民について「ドイツの人々が生み出した果実を食べる寄生虫 (the parasites that feed on the juices of the German people) 」と書かれているという。

私たちが生きているのはこうした時代である。人々の代わりに「本音を言う」政治家が暗い支持を集め、かつては理想主義を掲げた指導者がその勢いに慄き「われわれは成し遂げられる」というスローガンを降ろす。人道危機のコントロール、その危機によって生み出された難民の受け入れ。その両面において国民国家間の超国家的な連携が無力を示す中、その超国家的連携への嫌悪の感情が国家の器をどんどん小さくしていく。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか。本音を言ってさえいれば、私たちは幸せになれるのか。自信に満ちて本音を言う人たちが、私は怖い。

プロフィール
望月優大(もちづきひろき) 
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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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関連エントリ

世界報道写真展2016が素晴らしかった

世界報道写真展2016に行きました。恵比寿の東京都写真美術館で10/23までやっています。

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「世界報道写真展」は1955年にオランダのアムステルダムで、世界報道写真財団が発足したことにより、翌年から始まったドキュメンタリー、報道写真の展覧会です。毎年、1月から2月にかけて主に前年に撮影された写真を対象にした「世界報道写真コンテスト」が開かれ、国際審査員団によって入賞作品が選ばれます。十数人から成る審査員団は毎年メンバーを替えて、審査の中立性を保つ努力がなされています。今年の「第59回 世界報道写真コンテスト」には、128の国と地域、5,775人のプロの写真家から、合計8万2,951点の作品が応募されました。1年を通じて、世界の45カ国約100会場で開かれる本展は、約350万人以上が会場に足を運ぶ世界最大規模の写真展です。(HPより)

世界中のいたるところに様々な問題があること自体を知らなかったら、その一つ一つに対して関心を持つことも、背景や歴史を学ぶことも、自分なりの考えや意見を持つこともできません。すべての始まりに「知る」ということがあります。

しかし、どこでどう知るのが良いのか。それこそ外国語のものも含めて毎日大量の記事や写真、動画が生み出されているなかで、自分の限られた時間を使ってどこに情報を取りに行くのが良いのか。FacebookやTwitterで流れてくるものを見ているだけでは、当然偏りが生じます。ソーシャルグラフによる偏りは以前から指摘されていますが、より問題だと感じるのは「現在への偏り」です。問題の深刻性よりも新規性の高いものがニュースとなり、ソーシャルメディアを埋め尽くしてしまいます。

その意味で、世界報道写真展2016は進行中の様々な問題についての、かなり質の高いショーケースになっています。シリアやアフリカ諸国からヨーロッパに押し寄せる難民、米軍内での女性兵に対する性的暴行、中国での大気汚染や化学工場の爆発、セネガルにある全寮制イスラム学校における子どもたちに対する奴隷のような扱い、ネパール大地震、リオのファヴェーラでの警官による暴力とそれを記録しようとするアングラの人々。

昨日今日の出来事ではありません。この世界で長い時間をかけて起きていることについて、2015年のある一時点で撮影された写真が厳選されて展示されています。同じ2時間を費やすなら、ソーシャルメディアから拾ってきた記事をなんとなく読むよりも、ぜひ世界報道写真展2016に行ってみてください。目を覆いたくなる写真、こんな境遇を生きている人がいるのか、これが21世紀に起きているのか、そう感じさせる写真がたくさんあります。楽しくはないかもしれませんが、得難い体験になることを保証します。

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民主主義の達成における公的な立論の役割(A・セン『インドから考える』より)

アマルティア・センの新刊を読んでいて、自分の様々な行為に骨組みを与えてくれるような文章があったので、簡単に触れたいと思います。

インドから考える 子どもたちが微笑む世界へ

インドから考える 子どもたちが微笑む世界へ

 

 「個人的なものと社会的なもの」と題されたはじめの文章の中で、センはインドにおける飢饉という問題に触れながらこう語っています。

民主主義の達成における公的な立論の役割は、もっと明確に理解される必要がある。飢饉に影響されたり脅かされたりする人口の比率は、どこでも小さいーー10パーセント以上であることはほとんどなく、5パーセント以下が通例だ。だから問題は、多数決により機能する民主主義が、ごくわずかな少数派にしか影響しない飢饉の排除に、どうしてそこまで熱心であり、有能でもあるのか、というものとなる。民主主義下で、飢饉をなくそうという政治的な強制力は、飢饉の被害者ではない人々が、飢饉を根絶する必要性を自分たち自身のコミットメントとして引き受けるための公的な立論の力に決定的に依存しているのだ。(中略)

ここでメディアが果たすべき役割は巨大となる。もしこうした巨大な欠乏について、印刷メディアや放送メディアが無視する傾向があるなら、インドの民主主義は、強力な制度的基盤があっても、まともに機能していないと言えるだろう。インドにおける根深い社会的不正の蔓延についての大規模な変化の見通しは、その報道が凄まじく拡大し、公的な立論の力が大きく広がるかどうかに決定的に左右されるのだ。

この文章をインドに固有のものとして読む必要はもちろんなく、私個人としては、日本にも等しく適用可能な見方として捉えています。貧困問題、難民問題、その他さまざまな社会問題について、社会に生きる比較的少数の人々を民主主義の中で守っていくには、そうすべきであるという「公的な立論」の力が絶対的に必要です。メディアのフォーマットが多様化していく中で、既存メディアだけでなく様々なプレイヤーがこうした役割を果たしうるということは、私たちにとって大きな僥倖であるとともに、同時に大きな試練でもあると考えています。だからこそ、やらなければならない。

独立した民主国は、自分で自分の問題を解決できるはずだ。でも何がまずかったのかーー社会的に、経済的に、政治的に、そしてこれらに負けず劣らず重要な、文化的な面での失敗ーーについてのはっきりした分析なしには、たいしたことはできない。

こういう考えを持って、以下のような行為を少しずつ積み上げていきたいと考えています。

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望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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情報発信主体としてのNPOのポテンシャル

細々とですがNPO支援のようなことをやっている身として、いつも思っていることを書いてみます。

NPOの方は現場での活動だけでなく、対外的な広報活動についても力を入れて行っていることが多いと思います。そのために、自分たちが関わる社会問題、その問題に対する自分たちの活動について、どんな方法で、どんな伝え方をすればよいか。支援者を集めるために、どのような切り口でどのようにお願いをすれば良いか。そういったことを日々考えているかと思います。

こうした文脈において、NPO側の視点から見た広報活動は「現場」の活動に対する後方支援という意味合いが強くなります。支援者のために活動する現場に対して、お金や人をしっかり送り込む。そのために現場の活動をしっかりと社会にアピールする。それは言い方を変えれば「自分のため」に行う情報発信とも言えると思います。でも、その同じ情報発信が別の意味で社会をとても豊かにする、私はそう考えているんですね。

私は、NPOによる情報発信が、彼らが日々戦っている現場の支援だけでなく、様々な意見やメッセージが飛び交う「公共圏」自体を豊かにしていくという大きな力を持っていると思っています。もちろんNPOのスタッフの方は職業ライターではないので、ものを書くプロフェッショナルではありません。しかし、それぞれが関わる社会問題についての知識や経験に関して言えば、大きな新聞の記者さんや国家官僚だって全然しのぐこともありえると思います。毎日その問題に関わり、現場で人の顔を見ているから当たり前といえば当たり前なのですが、そのことが世の中ではまだまだ知られていないかもしれません。

私はいまインターネットやメディアに近いところで働かせていただいているので、NPOの皆さんの情報発信をお手伝いすることで、こうした点に微力ながら貢献していけたらいいなと考えています。NPOが既存メディアから取材されるのを待っているのではなく、良質な情報をみずからどんどん出していく。そんな社会になったらいいなと思っています。

以下、いくつか最近自分が関わったり、会ってお話伺ったことで上の内容に関わるかなと思ったことを書いてみます。

ハウジングファーストイベント(つくろい東京ファンド/世界の医療団)

ホームレス支援の新しい形である「ハウジングファースト」に取り組むつくろい東京ファンドの稲葉剛さんと世界の医療団の森川すいめいさんとイベントをしました。

少年院スタディツアー(育て上げネット)

若年無業の問題に取り組む育て上げネットの工藤代表がコーディネイトしてくださった、茨城農芸学院という少年院のスタディツアーに参加させていただきました。ツアーという形で発信力や社会的影響力がある人たちを現場に連れていく試みとして素晴らしいと感じました。こちらに個人的な感想を書いています。

スゴいい保育(フローレンス)

フローレンスのオウンドメディア「スゴいい保育」の運営について聞かせていただく機会がありました。病児保育や小規模保育、障害児保育、養子縁組に取り組むフローレンスさんは駒崎代表個人の情報発信力がすごすぎることも去ることながら、団体としてもオウンドメディア運営までやっていてほんとにすごいです。

駒崎さんが登壇されたイベントにモデレーターという形で参加させていただく機会も最近ありました。

社内ランチも一つの情報発信の場

少し毛色が違うのですが、いま勤めている会社で学生インターンをしてくれている松岡くんがReBitというNPOのメンバーでもあるので、社員みんなでランチを食べるタイミングでLGBTをテーマにした発表をお願いしました。社員も数十人いるので、社内ランチでの発表も一つの立派なイベントになります。とてもわかりやすくて勉強になりました。

それ以外にも、関わりをもたせていただいているNPOの方たちが様々なオンラインメディアで積極的に発信しているのを陰ながら応援しています。駒崎弘樹さん工藤啓さん大西連さんなど、NPOを運営されながら情報発信主体としても凄まじい活動をされている方がたくさんいますし、ジャーナリストや学者の方たちに加えて、NPOの方たちがどんどん情報発信していくことで、良質な情報がどんどん増えていくことを願っています。私自身も、情報発信主体としてのNPOのポテンシャルが開花していく未来のために自分なりにできる支援を継続していきたいと思いますし、みなさんもぜひそういった目線でNPOやソーシャルセクターのプレイヤーの活動に注目してみてください。

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望月優大(もちづきひろき)

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天皇と国民とメディア

天皇については、日本国憲法の第1条にこう書かれている。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

この内容に関連して、今上天皇が昨日のビデオ映像で以下のように語られていた。

天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

憲法には、天皇が日本国の象徴、そして日本国民統合の象徴「である」ことが書かれている。しかし、この言葉で語られていることは、今上天皇が、天皇として、憲法に書かれている通りの日本国及び日本国民統合の象徴「になる」ために、これまでの約28年間心血を注いでこられたということだろうと思う。そして、今上天皇が、天皇として、「になる」の契機が常にすでに必要だと考えられているとすれば、その理由、それは天皇が日本国及び日本国民統合の象徴「である」こと自体が、「主権の存する日本国民の総意に基く」ため、常にすでに日本国民の総意を更新し続ける必要があると考えられているからではないだろうか。

では、そもそも天皇自体の必要性、皇室自体の必要性を私たちはどのように理解してきたのだろうか。日本国憲法の成立とともに民主主義国家として新たなスタートを切った日本、政教分離を掲げたその戦後日本の中心に、「国民のために祈る存在」としての天皇が国家及び国民統合の象徴として存在するということ。よく言われる通り、天皇という制度には人権という観点から見た場合に大きな問題があり、今回の今上天皇からのメッセージもまさにそのことを問題として考えざるを得ない状況について改めて直視を迫るものであった。こうした「象徴天皇制と民主主義の合成」というある種の矛盾を孕んだ構成を戦後日本が選択した理由は、敗戦後の日本人が安定した秩序を構築するために、国民統合のために必要だったからということに尽きるだろう。国民のために、国民統合のために、天皇制を象徴という形で存続させることを私たちは選択したのである。

そして、そのことを、今上天皇は実際に28年間やってこられたのだと思う。先の言葉に先立つ部分で、今上天皇は以下のように述べられている。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

日本の戦争を集結させ、戦後日本の準備を告げた言葉が8/15の玉音放送であったように、天皇が国民統合の象徴として振る舞う際には、常にメディアの存在があった。そして、天皇が国民統合の象徴たる所以、それは、メディアを通じて天皇と国民一人一人が結びつくということにあるだけでなく、天皇を媒介とすることで、国民一人一人が会ったこともない他者、場合によっては遠く離れた場所に住んでいる他者のことを想像し、異なる小さな共同体の一員同士であったとしてもなお自分たちが「同じ日本国民」である、そのことを実感することにあったのだと思う。

こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

その意味で天皇天皇であるためには常にメディアという機能が必要であったし、天皇天皇であるということは天皇自身の存在そのものがメディアであるということと切り離せないだろうと思う。私にとって昨日のビデオ映像はそのことを改めて再確認させるものだったが、だからこそ昨日のビデオ映像をどれだけの人が見たのだろうかということがとても気になっている。NHKやその他民放などテレビで見た人もいるだろうし、YouTubeで見た人もいるだろう。書き起こしのオンライン記事を読んだ人もいるだろうし、Facebook LiveやAbema TVで見た人もいるだろう。

マスメディアに情報が集中していた時代からネット上の大小さまざまのメディアが林立する時代に変わったなかで、天皇にまつわる一つの映像、一つのコンテンツがここまで多くのメディアで同時に放映され、そしてその映像や書き起こしが瞬く間に拡散されたということは驚くべきことではある。語弊を恐れずに言えば、戦後70年以上がたち、天皇の存在が国民統合のために果たし得る力は少しずつ弱まってきていると考える見方もありえるように思う。そのなかで、特に若い世代において戦前、戦中、そして戦後初期のような形で天皇という存在を身近に感じることはないだろうし、昨日「初めて天皇という存在について考えた」という声を実際に耳にすることもあった。

そうした意味において、昨日あのような形で今上天皇のビデオメッセージが多種多様なメディアを通じて拡散されたことは、日本全国への一つ一つの旅を蓄積するだけでは決して到達できないほど多くの数、多様な人々に対して、天皇の言葉を到達させることに寄与したとは言えるように思う。皇室が国民統合の象徴としてあり続けることの必要性を語る、そのメディア的行為を通じて、国民統合の象徴たる天皇という存在自体が現代の日本で更新されるような、そんな行為だったように思うのだ。「国民の理解を得られることを、切に願っています」という締めくくりの言葉も、そのことを表しているように思えた。(ただしその「理解」の規模、その深度がどの程度であったか、どの程度でありうるかはいまだに推し量ることが難しいとは思っている。)

最後に。国民統合とは何か。「国民」とは、近代が生み出した「他者に対する共感の基盤」となる概念である。血縁・地縁関係のない他者に対して、自らと同じ者であると実感する/させるということ、北海道と沖縄に住む人々が、たとえ一度もお互いに交流し合った事がなかったとしても同じ国民であると実感するということ、それが国民を生み出し刷新し続けるということの意味である。英語ではnation-buildingと言う。

国民統合は税を中心とした国民的再分配のために必要不可欠なものである。一人一人の努力によって勝ち得たと感じている財の一部を国民の名の下に一時共同で保有し、社会のなかに存在する様々な問題に対応するために活用する。そのことを通じて、今上天皇が「地域」そして「共同体」と呼ばれたような、各地に伝統的に存在してきた規模の小さな集団では成し遂げにくい繁栄を手に入れる。国民国家と強く結びついた近代とはそういう時代であったように思うし、繰り返しになるが、日本という国はその国民統合の象徴として天皇を置く、そのことを日本国憲法の第1条に書いている国だということを改めて考えさせられた。

現代社会に起きる様々な問題を見渡せば、それぞれの問題が、この「国民統合」というもの自体が様々な方向性からの危機に晒されている、そのことと強く結びついていることがわかる。イギリスのEU離脱、中東・アフリカ諸国の不安定化とそこから発生する大量の難民、トランプや欧州諸国での極右政党の伸長、そしてパナマ文書が象徴する先進国内での経済格差の拡大。これらの最後尾に先日の相模原の事件を付け加えることもできるだろうか。

誰と誰が同じで、誰と誰が異なるのか。誰に対して共感を感じ、誰を排除したいと考えるのか。「国民」の間の共感はどのように維持可能なのか、そして「国民」それ自体が内を守ると同時に外を排除する力学から自由でないとしたら、それとは異なる別の共感の形はどのように構築することができるのか。

個人だけが並び立つ殺伐とした世界を望まないのであれば、新しい時代の要請に沿った新しい共感の形をつくっていく必要がある。そのときメディア的な作用の必要性、そしてメディアそのもののあり方の変化について同時に考えずに済ますわけにはいかない。新しい共感の基盤、そしてできるだけ開かれた共感の基盤を可能にするメディアのあり方を想像することができるだろうか。今上天皇が語った「国民統合」という言葉を通じて、そのことを考えた。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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