望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

『シン・ゴジラ』の気持ちよさについて(追記あり)

シン・ゴジラ』を観てきたので感想を書きたい。『シン・ゴジラ』という作品について何かを書くというよりは、『シン・ゴジラ』というこの作品が大ヒットしており、一部の人々を強烈に熱狂させていることについて書くといったほうが正しいかもしれない。 ちなみに、熱狂している人が多数いるという表層的な事実は知っているものの、そうした人たちが具体的に書いているブログなどに目を通したわけではない。あくまで、映画を観て、この映画が流行っているということについて自分が考えたことを書く。それほど長い文章にはならないはずだ。

まず、何の深みもない言葉で言えば、『シン・ゴジラ』は面白かった。ここで簡単にだけ触れておくと、3.11の大震災が発生したとき私は経済産業省に務めており、こうした緊急時に行政組織がどんな雰囲気を帯びるかとても良く覚えている。その記憶に照らしても、『シン・ゴジラ』は良くできていると思った。ただ、「良くできている」と言って済ますにはもう少し余剰があるだろうとも思った。その余剰がなければ、『シン・ゴジラ』がここまで強い支持を受けることはなかっただろうと思う、そうした余剰である。その余剰について考えることは、『シン・ゴジラ』を観るという体験を通じて人々が気持ちよくなるのはなぜなのか、その理由について考えることだろうと思う。

f:id:hirokim21:20160807232341j:image

さて、この写真にもある通り『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「現実 対 虚構。」であり、この両者にルビをふる形で「ニッポン 対 ゴジラ。」となっている。

話の構造はそれほど難しくはない。流れゆくいつもの日常のなかに突如ゴジラが現れる。ゴジラは人間が長年かけてつくりあげてきた住処たる都市を破壊し、そのことによって日常を停止する(正確に言えば、ゴジラの登場に呼応して人間の政府が日常の停止を宣言し執行する)。

日常とは平和である。少なくとも「ニッポン」にとっての日常は平和である。平和ということの意味は、秩序が生きているという意味である。秩序とは未来への予測可能性への信頼のことである。今日と同じ明日が来るということ、この一点への信頼をもって日常と非日常は区別される。ゴジラの登場は日常を終わらせる特異点であり、明日がどうなるかわからない不安を到来させる。

ここから言えることは「ニッポン 対 ゴジラ」というのが、極めて単純な弁証法的二項対立であるということだ。『シン・ゴジラ』ではこの対立を乗り越える形で「これまでのニッポン」が「新しいニッポン」に生まれ変わる。日常と非日常の対立を乗り越えることで新しい日常がつくられる、そのことが描かれている。 

さて、この文章を通じて説明を試みたい『シン・ゴジラ』の気持ちよさはもちろんこの二項対立とその乗り越えに関わっている。端的に言えば、その気持ちよさは日常の不完全さ、言い換えれば「これまでのニッポン」に対する不満が、ゴジラの出現を通じていつの間にか解消されており、これまで嫌いだったもの、これまで一体感を感じることができなかった対象が何となく好きになることができていることに存している。

その対象とは何か。ニッポンである。

シン・ゴジラ』が描くように、「これまでのニッポン」は多くの欠陥を抱えている。国家レベルではアメリカとの関係、個人レベルでは会社のしがらみ、これらのせいで「自分で決められない」どうしようもない国民、どうしようもない国家が「これまでのニッポン」だと言って、そのことを100%否定する人も多くはないだろう。

ゴジラの登場によってこうしたニッポンにもたらされるのは通常時のルールを停止する例外状態だ。例外状態を通じて、アメリカとの関係は更新され、各組織内のヒエラルキーは忘れ去られ、そして組織間の縦割りも破られる。そして、最も重要なことに、政府と国民の関係が刷新される。

この映画では日本国民それ自体にフォーカスがあたることはほとんどない。彼らがゴジラに蹂躙される姿は、都市の構成要素の一部としてであるにすぎず、彼らが何を考え、今の状況に対してどうしてほしいと思っているかはほとんど語られない。「ほとんど」と書いたが、一ヶ所だけそうしたシーンがあったように思う。それは「国会前デモ」のシーンである。とても抽象度高く表現されているシーンだが、ここで国民は政府に反対しているのではなく「ゴジラを倒せ」と要求している。すなわち、ここでは政府と国民の意思は完全に一つになっている。

このシーンはとても重要で、例外状態における「決められる政治家」への権力集中に対するある種の翼賛になっている。ここから先は、国民からの正統性を得た政府を中心とした総力戦、ゴジラを倒すことで非日常を終わらせる、そのための非日常的な緊急対応が粛々と行われていく。そこに一縷の迷いもない。手段についての迷いはあれど、ゴジラを破壊するという目標それ自体をどんなルールよりも上位に置くことについての迷いはない。民間のそれも含めて日本に存在するあらゆるリソースがゴジラの破壊に集中される。

さて、「ニッポン 対 ゴジラ」というのは元のコピーにふられたルビであった。元のコピーとは何だったか。「現実 対 虚構」である。したがって、『シン・ゴジラ』というフィクション、この映画芸術が行っていることは、虚構の力を借りて現実を変容させるさまを表現すること、そしてそれによってニュー・ノーマルの出現過程に伴うカタルシスを味わわせることだと言える。

このカタルシスはまぎれもなく国民と政府の一体感のうちにある。普段は政治に全く関心のない人々、政府が自分たちを苦しめる元凶だと感じつつ、その政府を正しく理解することも別の形に変えていくための方法を見つけることも面倒だと感じている人々。緊急事態のなかでは、「これまでのニッポン」がはらんでいた紛らわしさや歯の奥にものが挟まった感じは解消されている。そのわかりやすさが強烈な気持ちよさにつながっている。

ゴジラとの戦いを通じた日本政府の成長、このことがゴジラ以外のもう一つの他者であるアメリカによって語られる。立派に大人になった日本政府、政府を心から応援することができるようになった日本国民、これがゴジラ以後の新しいニッポンだ。この一体感が国民国家のカタルシスであり、これまでのニッポンになかったものである。

さて、この気持ちよさと私たちはどう向き合うべきか。『シン・ゴジラ』を観て感じたことについて書いた。

ーーーーー

(8/8 追記)

国会前デモのシーンについて、「ゴジラを守れ」という声も上がっていたというコメントをTwitterなどでいただいたので少しだけ追記を。ご指摘いただいた皆様ありがとうございます。再度考える糧になりました。

ゴジラを守れ」という声があったことを知って、直接的には「ここでは政府と国民の意思は完全に一つになっている」と書いた部分についての更新の必要性について考えたが、変更する必要はないと考えた。例外状態において「政府と国民の意思の一致」は国民一人一人にアンケートを取って数え上げられるものではなく、具体的な統治行為の実行とその事後的な正当化、あるいは正史化によって遂行的に表示されるからだ。

シン・ゴジラ』がそれを鑑賞する者にとって気持ちよい理由を考えることがこの文章の目的だったことに鑑みれば、映画内の演出としての国会前デモについては取り上げる必要自体がなかったかもしれない。しかし、国会前デモのシーンを取り上げた自分の文章にあえてこだわるとして、こういうことを書いておきたい。

国会前でどんなことが言われていようとも、緊急状態の中にある政府と国民の間にコミュニケーションは存在せず(政府内部の者がみな寝ている演出が示していたこと)、「にもかかわらず」ゴジラの破壊の遂行を通じて「政府と国民の一体化」は達成され、観る者にカタルシスを与える。したがって、国会前デモのシーンは言葉の正しい意味で「意味がなく」、だからこそ国家というものの本質を表しているとも言える。政府と国民を一体化させるのは選挙でもデモでもなく、緊急事態とその突破なのだということを示しているシーンではあるからだ。

翼賛には内容がない。翼賛は議論ではない。翼賛とは誰かが意図的行為として実行するものではなく、政府が国民の中に読み込むもの、そこに存在しているだろうものとして前提するものである。私たちは支持されている、私たちは通常のルールを乗り越えてまで自らを支持する国民を守る、そう決断する。それが翼賛の構造である。実際の承認は常に事後的に与えられる。それが正史化の作用だ。

最後にもう一つだけ。日常の停止は平和の停止、秩序の停止だと書いた。それをより直接的に言えば「経済の停止」である。緊急事態の開始は経済の停止を意味し、緊急事態の突破、すなわちゴジラの破壊は経済と政治との対立構造の乗り越えを意味する。総力戦体制とはそういうことだろう。総力戦の気持ちよさの理由がここにある。日常では分断されている政治と経済、国家と国民を、総力戦は一致させるからである。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

自分ではない誰かの人生のために。#ジモコロ熊本復興ツアー に参加して。

自慢の友だちについて書きたいと思います。3人います。本当はもっともっとたくさんいるんですが、まずは3人、この3人を紹介させてください。友だちであることを誇りに思うような、そんな3人です。

田村祥宏くんEXIT FILM

f:id:hirokim21:20160801201401j:plain

徳谷柿次郎くんジモコロ

f:id:hirokim21:20160801201437j:plain

野間寛貴くんLetters

f:id:hirokim21:20160801201448j:plain

この3人です。いい男たちですね。3人とも30代前半です。エネルギーが漲っています。

この3人に誘われて、先月熊本に行ってきました。南小国町にある黒川温泉というところです。世界的にも有名で、普段は予約を取るのも難しい温泉郷。でも、4月の震災以降予約がぱたりと止まってしまい、一気に経営が苦しくなってしまったそうです。

実は黒川温泉は早いタイミングで営業を再開していました。しかし、まだ余震が続いていて危険ではないかというイメージ、そして熊本に旅行に行くこと自体が「不謹慎」ではないかという空気のなかで、客足が止まってしまっていたそうです。

そんな黒川温泉を応援しよう、自分の影響力を使ってできる限りの応援をしよう、そんな気持ちで企画されたのが、ぼくも参加した #ジモコロ熊本復興ツアー だったというわけです。(ツアーの趣旨やそもそものきっかけについては多くを書きません。とにかくこの記事を読んでみてください。)

彼らが黒川温泉の皆さんと一緒になってものすごいがんばって準備してくれたツアー、とてもとても楽しかったし、真心がこもっていました。町長さんから、温泉旅館の皆さん、地元の皆さんのおもてなしが温かかった。ご飯がおいしかった。阿蘇の景色がきれいだった。温泉がきもちよかった。旅行先としてこれ以上何が必要でしょうか。最高です。

でも、これはツアー自体の趣旨には反してしまうかもしれないけれど、そしてとんでもなく大きな語弊があるかもしれないけれど、ぼくは自慢の友だちの影響が熊本や黒川を越えて広がってほしい、そう思いました。いきなり何を言い出すのか。待ってください。こういうことを言いたいんです。もう少しだけ聞いてください。

以前こういうブログを書きました。

人は誰しも一人で生きているわけではないから、他人がつくったものや他人の行為のおかげで生きていくことができる。食べるもの、住んでる家、歩いてる道、乗ってる電車、読んでる本、何でもいい、自分じゃない誰かがつくったものに囲まれて人生は進んでいく。

何かを買うということは取引である。親切にするということは贈与である。そして、取引は贈与ではない。だから、定義上、親切は買えない。そして、当たり前だが、親切は売れない。だから、これも当然なのだが、ほっておくと社会のなかで売り物はどんどん増えていくが、親切は勝手には増えず、むしろ減っていく。親切には対価がないからだ。(いい人が稀少生物のように見られる理由がここにある。対価がないのに親切を繰り出す人は普通ではないからだ。)

エジプトでおなかを壊し、地下鉄で思いっきり吐いてしまったとき、周りのエジプト人みんなが助けてくれた。みんなが自然と集まって声をかけてくれたり、ティッシュを渡してくれたりした。誰に命令されたのでもなく、大勢がそうしてくれたのである。こうした経験から、親切さというのは、とある一人のいい人の個人的な素質ではなく、社会的に共有されたカルチャーのようなものなのではないかと思っている。そして、最近、そのカルチャーを「ポジティブバイブス」と呼んでいる。一人で。

このツアーに参加した人でこういうことを思った人はいるでしょうか。「自分は黒川温泉だけを応援していていいんだろうか」。出ました、不謹慎の悪魔です。黒川温泉を苦しめた元凶の一つが不謹慎の悪魔でした。この悪魔はすーっと現れます。いつ出てくるかわからない。温泉につかっているとき、楽しくお酒を飲んでいるとき、マウンテンバイクで阿蘇の山を駆け抜けているとき。

いつだって、いつの間にか、この悪魔は自分の耳元に現れる。そして「黒川温泉"だけ"でいいのか」そう問いかけるのです。この問いは苦しい。ちっぽけな自分は一体何をしているのか。大した影響力もないのに、「社会に貢献している自分」に酔っているんじゃないか。この自分は一体何だ。

これは本当に本当に怖い問いです。人々を萎縮させ、もっと最悪なことに、無関心にする力があります。無関心は悩みをシャットダウンすることができるから。悩むことはつらい、暗い気持ちでいることはつらいことだからです。

ぼくが言いたいこと、それは「黒川温泉だけでいい」ということです。自分一人にできることは限られている。自分の力を注ぐ対象がなぜあの人ではなくこの人なのか、そのことを考えすぎる必要はありません。陳腐な言葉を使います。それは「縁」です。縁としかいえない。自分に助けられる人は限られている。そして、あの人ではなくこの人を助ける。それは縁としか言いようがないことです。そして、それでいい。

そして、だからこそ、3人の「黒川温泉を助けたい」この想いが、いやこのバイブスが別の人を勇気づけてほしい、そうして勇気づけられた人たちがまた別の温泉を、また別の街を、また別の人たちを勇気づけてほしい。それがぼくが願ったことでした。3人とは違った縁を持った人たちを、3人のバイブスが勇気づけてほしい。だから、この3人を多くの人に知ってほしい。そう思ってこのブログを書いています。

何と言ってもそんなバイブスに満ち溢れた男たちなんです。この3人は。だからぼくは彼らを誇りに思っている。こういう人の存在が社会にはもっともっと必要で、こういうバイブスの存在がもっともっと必要だ。そうじゃないですか。黒川も熊本もそれ以外も、全部全部助けるにはみんなで手分けするしかない。同じバイブスに貫かれた人たちが、それぞれの人生のなかで偶然出会った人たちをそれぞれ助けるしかないんです。そして、助けた人はきっと自分を助けてくれます。そんな関係性を社会のなかでいくつもいくつもつくっていかないといけない。

これが、ぼくが言いたかったことです。あとは、この映像を観てください。そして、できればシェアしてください。黒川を熊本を応援してください。そして、自分ではない誰かの人生のために、ポジティブバイブスを振りまきながら、小さくてもいいから、自分にできることを考えてみてください。情報よりもバイブスです。バイブスを振りまいてください。かっこいい大人とはそういうものじゃないですか。そうぼくは思っています。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

少年院訪問記

先日、茨城農芸学院という第1種少年院のスタディツアーに参加させていただいた。風化してしまう前に思考のメモ書きを残しておきたかった。

f:id:hirokim21:20160722205425j:image

貴重な機会をつくってくださった育て上げネットの工藤代表、茨城農芸学院の小山院長ほか職員の皆様、そしてその他ツアーにご一緒させていただいたすべての方に心から感謝します。(文中の図表写真は当日説明いただいたときのものです。ありがとうございます。)

ーーーーー

一つの問いから始めたい。少年院は刑事施設なのか、それとも教育施設なのか、はたまた社会福祉施設なのか。

少年院は,家庭裁判所から保護処分として送致された少年に対し,その健全な育成を図ることを目的として矯正教育,社会復帰支援等を行う法務省所管の施設です。(法務省より) 

あるいはこう言い換えてもいい。少年院は少年を罰しているのか、教育しているのか、それとも保護し助けているのか。

f:id:hirokim21:20160722205247j:image

初めて少年院の門をくぐり、衣食住、そして教育、訓練の模様を少しばかり見させていただくうちに、この問いが頭から離れなくなる。私たち日本国民は、こういった場所に人々を収容して、一体何をしようとし、実際に何をしているのか。

なぜ、なんのために私たちの社会に少年院という施設が存在するのだろう。刑務所でも、学校でも、精神病院でもなく、少年院という施設を私たちが必要とする理由は何なのか。そしてその必要性は誰のどんな視点に立ったときに正当化される類いの必要性なのだろうか。

企業の方、NPOの方、大学の方、ツアーには様々な職業の方が参加されていた。彼らはどんな動機でこのツアーに参加されていたのだろう。同じくツアーに参加されていた西田亮介先生はこう書かれていた。現地でも同じ質問をされていたと記憶している。

少年犯罪について、話を聞けば聞くほど、なぜ彼らは犯罪を犯し、「わたしたち」は一般的な生活を送ることができているのか、よくわからなくなってくる。少年犯罪と社会復帰の「誤解」と「常識」をこえてーー茨城農芸学院再訪(西田亮介) - 個人 - Yahoo!ニュース

これは、感覚上の違和であると同時に論理的な違和でもあると思う。少なくとも私にとってはそうである。

少年たちは,少年院での教育を通して,自らの問題を見つめ,改善して社会に戻っていきます。二度と犯罪・非行を犯さないという決意を実現するためには,本人の努力のほかに,社会の人々の温かい心と 援助が不可欠です。立ち直りつつある少年たちへの御理解と御支援をお願いします。(法務省より)

結局、私は次の問いを避けて通ることができない。

なぜ私たちは罰せられるのか。もちろん、違法であるとされる特定の「行為」をしたことによって。

f:id:hirokim21:20160722231238j:image

ではなぜ私たちはその「行為」をしてしまうのだろうか?「悪」であることによって?それとも「異常」であることによって?あるいは「不運」であることによって?考えうる「要因」を並べ立てたあとになって、それらだけでは人間の行為の理由など説明しきれないことを私たちは理解する。IQが低いから?家庭環境が悪かったから?交友関係に問題があったから?それらはあくまで「確率」的な説明しかもたらしてくれない。

f:id:hirokim21:20160722205519j:image

カフカが『審判』で描いた世界、自分が「なぜ有罪であり、なぜ裁かれているのか」、その理由を主人公のヨーゼフKが最後まで理解できずに死んでいく世界、その世界と私たちが生きている世界にどれほどの隔たりがあるのだろうか。その問いが頭をもたげて戦慄する。

カントはかつて「啓蒙とは何か」という有名な文章のなかでこう言った。

未成年とは、他人の指導がなければ自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは、彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。

だからこそ、カントが言う啓蒙の標語はこれである。「あえて賢こかれ!」「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」

自ら未成年状態を脱し、自分自身の悟性を適切に使用することのできる大人の市民たち。その世界では、罪と罰の関係はシンプルである。罪の背後には悪があるからだ。

f:id:hirokim21:20160722224233j:image

しかし、私たちは少年のうちに悪を見出すだけで事足りるだろうか。この問いは哀れみのような感情よりも「物事を科学的に理解したい」という欲求により強く根ざしているのかもしれない。

そして、私たちが知っている通り、これまで「悪」という底なし沼以外の「理由」を同定する、そのために様々な学問が生み出され、その学問と並行、あるいは矛盾しながら、現実世界のうちに様々な施設や実践が発達してきた。「あえて賢こかれ」を見えない背後から支える論理が、積み重なる統治実践のうちに少しずつ凝固してきたとも言える。

最初の問いに戻る。少年院は刑事施設なのか、それとも教育施設なのか、はたまた社会福祉施設なのか。結局、それらの歴史的アマルガムのようなものとして存在しているという歯切れの悪い言葉しか私は口にすることができない。

その施設を出入りする少年たちを前にして、外部の私たちはいったいどんなふうに振る舞い、どんなふうに接するべきか、その逡巡から逃げないでいることができるだろうか。そもそもなぜ彼らが少年院に入らなければならなかったのか、その逡巡からも目を背けずにいられるだろうか。

「なぜ私たちではなく彼らが?」

同じ社会の内部で、私たちは何らかの理由で何らかの線を引き、そしてその線の向こう側で行う特定の実践によって、この社会の法と秩序を両立させようとしている。大切なことは、そこにある理由、そして実践が何らかの普遍的真理に基づいていると考えるのは間違っているということだ。歴史が教えるのはいつだって揺らぎのほうである。

f:id:hirokim21:20160722201248j:image

この駄文を終えるにあたり、誰に対してなのかすらよくわからない申し訳なさを感じている。よそ者なりに少しでも何か「役に立つ」ことを書きたかったが、自分に書けることと言えばこんなことしかなかった。しかし、「より良い」ということの方向性すら見失うような経験だったからこそ、原理的な思考に立ち返りたかった。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

憲法を宙吊りにするのは誰か。シーラッハ『テロ』を読んで。

ドイツでイスラム系テロリストに飛行機がハイジャックされる。ハイジャック機は7万の観客で埋め尽くされたサッカースタジアムに向かっている。飛行機には164名の乗客が乗っており、そのそばを空対空撃墜能力を持った空軍機が飛行している。防衛大臣は最近の最高裁判決を汲んでパイロットに対して撃墜許可を出さない。空軍機のパイロット、ラース・コッホ少佐は7万と164名の命を天秤にかけ、防衛大臣の許可なくハイジャック機をミサイルで撃墜する。

テロ

テロ

 

著名な刑事事件弁護士でありながら、作家としても2009年の『犯罪』で一躍世界中に名を馳せたシーラッハによる最新作のタイトルは『テロ Terror』。コッホ少佐の有罪無罪が一般市民によって構成される参審員たちによって決定される、その過程を描いた短めの法廷劇だ。

参審制について、本書の編集部による説明書きがあったので紹介しておく。

ドイツの裁判では参審制が採用されている。参審制とは、一般市民から選ばれた参審員が職業裁判官とともに裁判を行う制度であり、犯罪事実の認定や量刑の決定の他、法律問題の判断も行う。参審員は事件ごとに選出されるのではなく、任期制となっている。また、法律用語や訴訟手続きなども日本と異なる場合がある。

一般市民から構成される参審員たちの眼前で、裁判官、被告、弁護人、検察、被害者家族、被告同僚といった様々な人間が、この出来事をそれぞれの視点で語る。劇を読む読者は一人の参審員としての立場に立たされ、自分なりに有罪、無罪の結論を出すことを迫られる。「参審員」はその定義上「一般市民」であるわけだから、『テロ』の読者であるあなたにも判断はできるだろう、いやしなければならない、そうシーラッハは迫ってくるかのようだ。

一見すると、「7万人と146人の命を天秤にかけ、7万人を救うために146人を殺害することは許されるか」という倫理的な問いがドラマの中心に据えられているようだが、そことは少しずれたところで、物語の核心に迫る論点が展開されている。論理的対決の中心を掴むには、物語に折り込まれたノンフィクション、すなわち2005年に実際に制定された航空安全法と、翌2006年にその一部が違憲であるとされた実際の経緯をある程度理解しておく必要がある。

アメリカでの9.11テロ以降、ドイツでもテロ対策という名目で様々な法的措置が検討、実施され、その一環として航空安全法が制定された。航空安全法はその一部で、ハイジャック機が武器として利用される恐れがある場合、政府が軍にハイジャック機の撃墜を命じることを認めていた。しかし、航空安全法の当該部分に対して、翌2006年に連邦憲法裁判所で違憲判決が下されており、現在では停止状態にある(より詳しくは、こちらこちらの論文を参照)。

そして、「7万人と146人の命を天秤にかけ、7万人を救うために146人を殺害することは許されるか」、この問いかけについては、フィクションたるシーラッハ『テロ』の世界においても、この現実世界の違憲判決をそのまま受けて「違憲である」、すなわち国家の最高法規たる憲法に照らして「許されない」という判決がすでに出ている、そういう設定になっているのだ。

したがって、参審員たる私たちが目撃しているこの裁判、そこでは、憲法解釈の番人たる最高裁が否を突きつけた判断に対して、「一般市民の常識感覚」が従うのか、それとも否を突きつけ返すのか、そのことが問われているのである。個人的なモラルの問題ではなく、法の支配を国家としてどこまで尊重するか、その「どこまで」が問いに付されている。

法の支配がないがしろにされるのは、"いまが「平時」ではない"と人々によって感知されるときであろう。そして、現代社会にとってテロの存在が脅威となっている理由は、メディア上の派手な見た目とは異なり、テロ行為が持つ殺人能力や破壊の規模の大きさによってではない。そうではなく、言葉の正しい意味で、テロ行為が人々の間に「恐怖」を蔓延させ、それによって人々がもつ「平時」と「戦時」の感覚を崩壊させるからだ。

平時と戦時の感覚の崩壊は、法の支配を覆す緊急事態、すなわち「例外状態」を容易に呼び出し、許容してしまう。普段は許されない「ある命とある命を天秤にかける」行為も、この緊急事態の最中に行えば英雄的な行いとなる。法を宙吊りにし、英雄をつくりあげるのは常に一般の市民たる私たちだ。国民を政府から守るための憲法、その憲法を一時的にでも宙吊りにするための正統性は私たち国民の中からしか得ることができない。

だからこそ、私たちはいま法廷でコッホ少佐の裁判を目撃しているのである。私たちのみが、お墨付きを与えることができるから、だからこそいまこの場所に召喚されているのである。物語の結末、すなわち判決文を言い渡すその場面までたどり着いたとき、私たちは自らが選ぶことができる選択の重さに震撼するだろう。私たちというのは、皮肉なことに、グローバルにつながったすべての私たちのことである。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

ーーーーー

犯罪 (創元推理文庫)

犯罪 (創元推理文庫)

 

 

罪悪 (創元推理文庫)

罪悪 (創元推理文庫)

 

 

カールの降誕祭

カールの降誕祭

 

 

禁忌

禁忌

 

 

お金で買えないもの

他人によるものの多くはお金を払えば買うことができる。ただ、買えないものもある。何か。親切である。

人は誰しも一人で生きているわけではないから、他人がつくったものや他人の行為のおかげで生きていくことができる。食べるもの、住んでる家、歩いてる道、乗ってる電車、読んでる本、何でもいい、自分じゃない誰かがつくったものに囲まれて人生は進んでいく。

f:id:hirokim21:20160629230745j:image

何かを買うということは取引である。親切にするということは贈与である。そして、取引は贈与ではない。だから、定義上、親切は買えない。そして、当たり前だが、親切は売れない。だから、これも当然なのだが、ほっておくと社会のなかで売り物はどんどん増えていくが、親切は勝手には増えず、むしろ減っていく。親切には対価がないからだ。(いい人が稀少生物のように見られる理由がここにある。対価がないのに親切を繰り出す人は普通ではないからだ。)

エジプトでおなかを壊し、地下鉄で思いっきり吐いてしまったとき、周りのエジプト人みんなが助けてくれた。みんなが自然と集まって声をかけてくれたり、ティッシュを渡してくれたりした。誰に命令されたのでもなく、大勢がそうしてくれたのである。こうした経験から、親切さというのは、とある一人のいい人の個人的な素質ではなく、社会的に共有されたカルチャーのようなものなのではないかと思っている。そして、最近、そのカルチャーを「ポジティブバイブス」と呼んでいる。一人で。

さて、憲法で保障された自由には様々なものがあるが、その中でも表現の自由には他の自由(営業の自由とか居住移転の自由とか)に比べて優越的地位が与えられていると木村草太さんという若い憲法学者の方が言っていた。表現することには対価がないことがほとんどだから、表現には社会への贈与という側面があるというのがその理由だと彼は解釈していて、とても面白い考え方だと思った。いろいろな人が対価もないのに、考えたことを表現する。それを受け取った誰かのなかに新しい視点や考えが生まれ、新しい表現につながっていく。これもまた、ポジティブバイブスだろうと思う。

ポジティブなバイブスを広めていきたいぜ。

(ちなみに、(良い)政府が必要な理由も同じところから出てくるのだけれど、それについてはまた別の機会に書くことにしよう。)

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

ーーーーー

(「ポジティブバイブス」は、この動画シリーズの最後のシーンで出てくる言葉。初めて観たとき深く感動し、それ以来、一人で脳内で使っている。)

冷静さについて。民主主義と絶望と熱狂。

イギリスのEU離脱を決めた国民投票が世界中で話題になる一方、日本の参院選は盛り上がりを欠いているように見える。「一国の民主的意思決定がここまでの世界的インパクトを与えることができる」と民主主義の可能性が一種の恐れとともに語られると同時に、「結局誰に投票しても結果は変わらない」と民主主義の無力がある種の絶望とともに語られる。この振れ幅は一体何だろうか。

国家であれ、企業であれ、それ以外の形であれ、どんな人間や組織も何らかの歴史的条件を剥ぎ取られた裸の状態で存在しているわけではない。あらゆる個人や組織は具体的な歴史的状況のなかに、具体的な実体として存在している。そして、その未来については、様々な選択肢があるとはいえ、何もかもがすぐに実現可能なわけではない。未来は決定されていないが、条件づけられている。

個人のキャリアが様々な社会的状況や過去に条件づけられているように、国家の道行きも過去の政策や国際的な情勢に条件づけられている。この条件づけられているということを「不自由」であるとだけ捉えると、その不自由に対して絶望するか、その不自由を一気に乗り越えられるように見える常識外の解決策に熱狂するか、この2つしかなくなってしまう。

絶望と熱狂に引き裂かれた思考は、未来が持っている本当の可能性を妨げる。今がつらい、そこから抜け出したい、そんなとき「こうすれば抜け出せますよ」という中身のない言葉を鵜呑みにすべきではない。高齢化とともに増え続ける国家債務、中東危機が生み出す大量の難民、グローバル化によって得られる経済的なメリット、こうした条件の上にどんな未来を描くか。何か一つの政策で瞬時に状況を変えられるわけではない。個人だろうが企業だろうが国家だろうが、未来を一気に変えるウルトラCはないのだ。

何かを盲目的に守ること、何かを盲目的に変えること、その一点に注意を集中させ、恐怖や夢の力で動員する。与党だろうが野党だろうが、国会外の勢力であろうが、やっていることが互いに恐ろしいほど似ていると感じることはいくらでもある。政治への文化の利用については、その背後に冷静さがあるときにのみ支持しうると言いたい。動員力を持った人間は、自らがもつ力の使い方に自覚的であるべきだし、考える人を増やしたいのか、それとも考えない人を増やしたいのか、自分が一体どちらの立場に身を置くのか、常に問い続けるべきだ。

冷静さとは、今と未来を制約している条件に向き合う態度のことである。この条件を見つめなければ、理想と現実の間にどのような道を通していけばいいか、思考することもままならない。そして、冷静さがすぐにハッピーな未来を約束するわけではなかったとしても、「だからどうした」と堂々と言い切る強さ、その強さだけが「大衆」を恐れ、そして利用しようとする人々からの感情的動員を吹き飛ばすだろう。

未来は条件づけられているが、決定されていない。そこに、希望がある。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

ーーーーー

関連エントリ

私たちの涙への態度。紫原明子さんの『家族無計画』を読んで。

知人の紫原明子さんのデビュー作『家族無計画』を読んだ。シングルワーキングマザーの明子さんが元夫、子ども、ママ友、男友達、キャバ嬢など、社会に生きる様々な他者と向き合いながら、これまでの人生を何とかかんとか暮らしてきた様子が爽やかな文章で生き生きと描かれている。

家族無計画

家族無計画

 

この本を読んだ誰もが思うことだろうけれど、明子さんは短編エッセイ集のような『家族無計画』の様々な場面で泣いている。しくしく、おいおい、明子さんは涙を流し続けているのだ。 

明子さんはよく泣く人なんだなあ。はじめはそう思っていた。

しかし、本を読み進めるうちに、男のくせに自分もずいぶん泣いてきた、悔しかったり、どうにもやるせない気持ちで泣いてきた、それらの一つ一つの出来事が走馬灯のように思い出されてきたのである。

子どものころ、自分は怒ると泣いてしまうタイプの子どもだった。感情が高ぶると涙が溢れ出てしまう。怒っているのに自分が泣いてしまうのだからどうにもならない。怒ったことを後悔して、もう二度と怒るまいと思う。でも元来の怒りっぽい性格がたたって同じことを繰り返してしまう。

中学生のころは、水曜10時にやっているコメディ調のトレンディドラマを見て泣いていた。展開はあらかじめわかりきっているのだが、7話ごろに主人公が一旦恋愛に破れるシーンなどを見ているとしくしく涙がこぼれてきた。母親にはばれていなかっただろうか、きっとばれていただろう。

大人になってだいぶ収まったけれど、今でも涙もろいほうだと思う。涙もろいというか、涙腺が弱いのかもしれない。しかし、ほかの人はいったいどれくらい泣いているのだろうか。自分は人よりよく泣くほうだとも思えるし、もしかしたらほかの人も案外自分と同じくらい泣いているのかもしれない。

明子さんは、自分より泣いているようにも感じるが、自分も同じくらい泣いているようにも思える。ただ、自分は自分の涙の歴史を明子さんほど克明に意識し、記憶してこなかった。自分は自分の涙の多くを忘れていた。いついつどんなときに泣いて、そのときにどんなことを思ったか、その多くを忘れてしまっていたのだ。

人は笑ったり喜んだりするようには泣かない。人前では泣きたくてもぐっとこらえる。でも人生に涙が必要なときはある。泣いてはならない世界のなかで、涙が必要なときはきっと何かが起きている。機械ではない人間のどこかに無理が来ている。それに気づかせるために涙は出るのだと思う。 

涙は赤ちゃんだけのものではない。子ども、学生、お母さん、おじいちゃん、みんながみんな泣いている。でも、泣いてはならない、取り乱してはならない、という暗黙の了解が涙を押さえ込む、涙と涙の記憶をなかったことにしようとする。そういうことが起きていることに、この本を読んで気づかされた。

赤ちゃんが大人になる、その過程で人間は涙をコントロールすることを覚える。社会は泣かない大人たちの集まりだ。感情をコントロールできない人々は狂人、メンヘラ扱いを受ける、そんな社会のなかで、それでも人々はきっと人知れずしくしく泣いている。

だったら、涙の扱いを変えてしまえばいいじゃないか。人間は泣く。大人になっても泣く。こうあるべきというルールにうまく乗れなくて、人生が思い通りにならなくて、好きな人に認めてもらえなくて、悔しくて泣く。いいじゃないか。そのときに優しい眼差しを投げかけられる社会をつくろう。それでいいじゃないか。

ーーーーー

『家族無計画』は家族と社会の境界線を優しく揺さぶって、人間が弱いままでいられる雰囲気が社会の中にあったらいいよねと提案しているように思う。人間はいつだって泣いていいし、弱さをさらけ出していい。泣いていいときと悪いときがあるわけではなく、多くの人がそう思えていることが、人と人とが助け合える社会の前提に必要なんだ。そのことを、明子さんの涙への態度が教えてくれた。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki