望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

デモから政党へ、当事者から代弁者へ。「保育園落ちたの私だ」に寄せて。

昨日国会前でデモがあった。はてな匿名ダイアリーの「保育園落ちた日本死ね!!!」という匿名の投稿に対して、国会で首相を中心に「それ誰が書いたの」といった趣旨の発言があった。それに対して多くの「当事者」たちが「それは私だ!」と国会前に集まったという話である。保育を含めた社会保障全般に関心があるので、思ったことを書いてみる。

認可保育園などから子供の入所を断られた当事者らが5日、国会前で政府に対する抗議集会を開いた。きっかけは、保育園の入所選考に落ちた母親が2月中旬、「保育園落ちた日本死ね!!!」と題して怒りをつづったブログ。これに対し、安倍晋三首相が「匿名である以上、本当であるかどうかを確かめようがない」などと発言したため、怒りを爆発させた当事者たちが「保育園落ちたの私だ」と書かれたプラカードを手に集まった。

この件の発端となった投稿。みんな知ってると思うけど念のため。

何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。

つまるところ国のお金の使い方の問題。

保育園が足りないということはこれまでも様々な形で問題化されてきた。2013年の杉並区待機児童デモも記憶に新しい。

経済成長の勢いが止まって景気が悪化するなか、かつてあった性別役割分担は崩壊し、女性も働きに出なければ生計が立たない家庭が増加した。そうしたネガティブな文脈のなかで女性の労働参加率の増加が起きたわけだけれど、共働き家庭の増加に伴う保育サービスのニーズ増加にこの社会は上手に対応してくることができなかった。

明らかにニーズがあるのに、サービスが供給されないままできてしまったのは、保育サービスの主たる供給元である政府の動きが遅かったからだ。結局保育園の箱が足りないし、サービスの直接の担い手としての保育士が足りない。保育士が足りないのは給料が低いからだ。

つまるところはお金の問題、公的なお金の使い方についての意思決定の問題である。日本の民主主義は保育園の箱をつくるために、保育士の待遇を上げるために、国のお金をより多く使うという意思決定をすることができずにきてしまった。デモでもブログでも選挙でもなんでもいい、この意思決定に効かなければ実質的には何の意味もない。

当事者は忙しく持続性に欠ける。だから代弁者が必要。

民主主義国家の日本で政府が民意を裏切っているという状況が起きている。自分はかつてそれがある程度は投票率の問題なのではないかと考えていた。若い世代で投票率が非常に低いという割と有名な話である。そのために、I WILL VOTEというキャンペーンに取り組んだこともあった。 若い世代が投票に行けば政治が変わるのではないかと。

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しかし、いったいぜんたい「誰に」投票すればいいんだろうという気持ちもよくわかるのである。自分の一票に何の価値があるのか、そういう話ではない。そうではなく、自民も民主も維新も果ては共産党まで、この国ではみんな寄ってたかって緊縮派。財政再建、将来世代につけを回さない、不要な政治家や公務員は削減、行政の効率化、民間の活力に任せる、こんな主張の政党ばっかりだ。

保育士・介護士の待遇改善、返還不要の奨学金の拡充、賃上げや雇用の正規化など、反緊縮的な政策をしっかり担いでくれる政党が全然思いつかない。「しっかり担いでくれる」ということの意味は、理想を実現するために、財源の手当まで含めて責任をもって実行してくれるという意味だ。「財源の手当」というと分かりづらいが、結局再分配をするのだから、相対的にお金を持っている個人や企業に大なり小なり納得して負担してもらう必要がある。彼らを説得しなければならない。

デモに意味がないとか、デモには怪しいやつばかりだとか、そういうことを言うつもりはない。デモには意味がある。デモは英語でdemonstrationとかmanifestationとか言われる通り、自分たちの思っていること、抱えている問題を「見せる」「表出する」効果がある。その意味では、国会前という象徴的な場所に行かなくても、ネット上での訴えが大きくバイラルすることも一つのデモみたいなものである。でも、問題のありかを見せるだけでは、複雑でややこしい政治的意思決定を動かすには足りない。

持続的に、議会の中で、「当事者」の代わりにじっくり議論をしてくれる「代弁者」が必要だ。当事者は日々の生計を立てるために忙しく働いている。毎日朝から晩まで政治のことを考えて、デモに行ったりブログを書いたりできるわけもない。だから、当事者が必要とする社会の変化を引き起こすためには、政治だけで飯を食うことのできる信頼可能な代弁者を持てるかどうかが重要になってくる。

保育園不足にしても何にしても、公的なお金の使い方を大きく変えることで社会のあり方を変える、こうしたことが実現できていないことの背景には、こういう問題があるんじゃないかと思う。どれだけブログを書いても、デモをしても、若者の投票率を上げても、ここを解決しないと前に進まない。負担を高めて、サービスも増やす。民主党政権はサービスを増やそうとしたが、そのための財源を既存の支出を少しずつカットすることで集めようとした。そして失敗し、所得税や法人税や相続税ではなく、消費増税に転じてしまった。

代弁者としての政治家、そして政党。

当事者/代弁者という語りは、政治思想や哲学のなかで何度も問い直されてきたテーマだ。英語で言えば「re-presentation」の問題である。いまここにある現場(present)で起きている問題を、現場の外で「代弁 re-present」する。

そこに常につきまとうのが「代弁者は本当に当事者を代弁できるのか/してくれるのか」という問いである。今回の件も、民意を代弁した政治がされていないという憤りが、国会前の直接行動に結びついている。「直接」行動という言葉は、選挙に代表される「間接的な」意思表明との対比で使っている。

衆議院のことを英語で「House of Representatives」という。アメリカの下院も同じだ。人々の思いや意思を「代弁 = represent」する存在としての政治家 = 代議士。意思決定の場所、すなわち「決める場所」たる議会において当事者たる人々を「re-present」する。それが、政治家の仕事であるというわけだ。

繰り返しになるが、このエントリで言いたいことは、足りないのは実はこの代弁者のほうではないかということである。当事者の声はデモなり、役所やメディア、大学の先生が行っている調査である程度明らかになっている。その声の通りになっていないのはそうした声を正当に、そして継続的に代弁し続ける代弁者の不在が原因だと思うのである。現代の議会制度では、それは一人一人の政治家というよりは、政治家の集まりとしての政党が担うことになる。

ブレイディみかこさんの記事に、結党からわずか2年のうちにスペインの第3党まで上り詰めたポデモス党首のパブロ・イグレシアスの言葉があったので紹介したい。失業率が何十%にも上るスペインに現れたポデモスの主張はとにかく反緊縮、これに尽きる。イグレシアスは言う。

「朝6時に起きて仕事に行く人々に、そして朝6時に起きても行く仕事がない人々に微笑みましょう。一日15時間働いている母親たちに、そして年金で生活しながら苦労している老人たちに微笑みましょう。微笑みましょう。なぜなら、それは可能だからです」

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スペインだけでなく、ジェレミー・コービンを担ぐ英労働党やギリシャのシリザなど、ヨーロッパ各国で国民福祉のための反緊縮的な政策を訴える政党、すなわち国民のためにお金を使おう、そのために再分配を強化しようと訴える政党が支持を伸ばしている。このことはぜひ日本でもっと知られてほしいと思う。デモの先に、政党を見据える。当事者としての訴えの先に、信頼できる代弁者の必要性を見据える。

現場のリアルを変えるために、遠くの代弁者に託す。

最後に。昨日この本を読んでいたことがこのエントリを書くきっかけになったので、少しだけ紹介したい。(ちなみにこの本はすんごい面白い)

ヒップホップ・ドリーム

ヒップホップ・ドリーム

 

新宿を拠点とするMSCのラッパー、MC漢は本の最後にこう語っている。

よく「ラッパーは代弁者」と言われる。だが俺はそう思わない。(中略)俺は自分の目で見て経験してきた「リアル」を歌にしている。そういうラップの力で新宿のフッドで生き残ってきた。俺は代弁者じゃなくて、当事者だ。いま再び確信を持って言えるーー新宿スタイルはリアルな歌しか歌わねえ。

一つ一つの現場にリアルがある。一人一人が人生の様々な時期・場所で経験する苦しみや痛みがある。その苦しみや痛みを少しでも減らしたいとどんな当事者も思うだろう。彼ら自身にしか語れないこと、第三者には決して共有不可能な感情があるだろう。そうしたさまざまな当事者の集まり、群れとして僕らの社会は成り立っている。問題は保育園だけではない。介護も奨学金もブラック企業もすべて大問題だ。何かの当事者ではない人など誰もいない。

しかし、同時に良くも悪くも現場のリアルだけでは政治はできない。分散した様々なリアルを、一つの方向性にまとめあげていく力が絶対に必要だ。政治には、良い方にも悪いほうにも、リアルを変えてしまう力がある。だからこそ、いま必要なのはできるだけ多様な現場をできるだけ良い方向に変えていける代弁者だ。いま本当に足りないのは、忙しすぎる当事者ではなく、僕たちが真に信頼できる代弁者だ。

 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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