望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

私たちの涙への態度。紫原明子さんの『家族無計画』を読んで。

知人の紫原明子さんのデビュー作『家族無計画』を読んだ。シングルワーキングマザーの明子さんが元夫、子ども、ママ友、男友達、キャバ嬢など、社会に生きる様々な他者と向き合いながら、これまでの人生を何とかかんとか暮らしてきた様子が爽やかな文章で生き生きと描かれている。

家族無計画

家族無計画

 

この本を読んだ誰もが思うことだろうけれど、明子さんは短編エッセイ集のような『家族無計画』の様々な場面で泣いている。しくしく、おいおい、明子さんは涙を流し続けているのだ。 

明子さんはよく泣く人なんだなあ。はじめはそう思っていた。

しかし、本を読み進めるうちに、男のくせに自分もずいぶん泣いてきた、悔しかったり、どうにもやるせない気持ちで泣いてきた、それらの一つ一つの出来事が走馬灯のように思い出されてきたのである。

子どものころ、自分は怒ると泣いてしまうタイプの子どもだった。感情が高ぶると涙が溢れ出てしまう。怒っているのに自分が泣いてしまうのだからどうにもならない。怒ったことを後悔して、もう二度と怒るまいと思う。でも元来の怒りっぽい性格がたたって同じことを繰り返してしまう。

中学生のころは、水曜10時にやっているコメディ調のトレンディドラマを見て泣いていた。展開はあらかじめわかりきっているのだが、7話ごろに主人公が一旦恋愛に破れるシーンなどを見ているとしくしく涙がこぼれてきた。母親にはばれていなかっただろうか、きっとばれていただろう。

大人になってだいぶ収まったけれど、今でも涙もろいほうだと思う。涙もろいというか、涙腺が弱いのかもしれない。しかし、ほかの人はいったいどれくらい泣いているのだろうか。自分は人よりよく泣くほうだとも思えるし、もしかしたらほかの人も案外自分と同じくらい泣いているのかもしれない。

明子さんは、自分より泣いているようにも感じるが、自分も同じくらい泣いているようにも思える。ただ、自分は自分の涙の歴史を明子さんほど克明に意識し、記憶してこなかった。自分は自分の涙の多くを忘れていた。いついつどんなときに泣いて、そのときにどんなことを思ったか、その多くを忘れてしまっていたのだ。

人は笑ったり喜んだりするようには泣かない。人前では泣きたくてもぐっとこらえる。でも人生に涙が必要なときはある。泣いてはならない世界のなかで、涙が必要なときはきっと何かが起きている。機械ではない人間のどこかに無理が来ている。それに気づかせるために涙は出るのだと思う。 

涙は赤ちゃんだけのものではない。子ども、学生、お母さん、おじいちゃん、みんながみんな泣いている。でも、泣いてはならない、取り乱してはならない、という暗黙の了解が涙を押さえ込む、涙と涙の記憶をなかったことにしようとする。そういうことが起きていることに、この本を読んで気づかされた。

赤ちゃんが大人になる、その過程で人間は涙をコントロールすることを覚える。社会は泣かない大人たちの集まりだ。感情をコントロールできない人々は狂人、メンヘラ扱いを受ける、そんな社会のなかで、それでも人々はきっと人知れずしくしく泣いている。

だったら、涙の扱いを変えてしまえばいいじゃないか。人間は泣く。大人になっても泣く。こうあるべきというルールにうまく乗れなくて、人生が思い通りにならなくて、好きな人に認めてもらえなくて、悔しくて泣く。いいじゃないか。そのときに優しい眼差しを投げかけられる社会をつくろう。それでいいじゃないか。

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『家族無計画』は家族と社会の境界線を優しく揺さぶって、人間が弱いままでいられる雰囲気が社会の中にあったらいいよねと提案しているように思う。人間はいつだって泣いていいし、弱さをさらけ出していい。泣いていいときと悪いときがあるわけではなく、多くの人がそう思えていることが、人と人とが助け合える社会の前提に必要なんだ。そのことを、明子さんの涙への態度が教えてくれた。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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