望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

日本の不平等をどうするか

この国の未来にとって最も重要なことの一つだろうと思うことについて書く。

端的に言って、それは、同じ国に住んでいながらいろいろな要因が重なってひどい状況で暮らしている人の人数をできるだけ減らし、彼らが尊厳ある生活を取り戻すために何ができるだろうかということに関わる。

大きな方向性としては、グローバル化や少子高齢化といったある種の傾向的な力が働いていようとも、民主的にコントロールされた政府を通じて、理想と現実の乖離を埋める、そのために私たちにできることはまだまだたくさんある、そのことを言う。

巷に溢れる俗流経済学風の物言いが生みだす「できることなど何もない」という感覚に対しては、個々の国の歴史や制度をきちんと見ることでこれに抗うことができる。歴史を知り、論理を突き詰めることで、勇気を得ることができる。できることはある。

ここから述べることは、経済学者 アンソニー・アトキンソン『21世紀の不平等』、社会学者 立岩真也『税を直す』、財政学者 井出英策『日本財政 転換の指針』などを読み、学んだことが基になっている。そのことを述べておく。それぞれが書いていることはときに同じだったり異なったりするが、「歴史を知ることで、未来を変えうる制度案について具体的に考えることが可能になる」そうした考えを共有しているように思えた。

本題に入っていく。

日本に限った話ではないが、やはり日本でも不平等が拡大している。このことについて多くは書かない。問題が起きている、そのことについては様々なデータを用いてすでに多くが語られている。さしあたり、相対的貧困率の推移だけ見ておく。

f:id:hirokim21:20160612194229p:plain

(図:厚生労働省

国際的に見ても、日本はもはや平等な国ではないことは明らかである。日本は不平等の度合いが大きな国である。そのことだけここで確認しておく。

f:id:hirokim21:20160612194451p:plain(図:厚生労働省

こうしたデータの存在に加え、メディアを通じて様々な人びとの身に起こった実際の悲惨が語られ、消費されている。可哀想だと思う気持ちと、自分は決してそうはなってはならないという恐れとが、私たちの社会のなかで共存している。

そして、この問題に対応すべき政府。その政府がそうできる力を失っている、ように見える。その感覚が折り重なって人びとの絶望感がいや増している。弱者を支援するための社会支出を増やすべきではないだろうか、しかし財政赤字に対する心配が強迫観念のように迫ってくる。無い袖は振れない、そんな言葉が頭をよぎる。

結局こういうことなのである。少子高齢化は進み、低成長が続くなかで、現役世代、子ども、老齢世代の別に関らず、社会サービスへのニーズは増えこそすれ減ることなどない。しかし、そのニーズに応えられるだけのお金が政府にない。そう言われている。現実、税収は国家予算の6割弱しかない。下図の右側、租税及び印紙収入という部分である。

f:id:hirokim21:20160612182646p:plain

(図:財務省

それにしてもなぜこんなにもお金がないのだろう。歳出が増えているから、というのが一つの答えだろう。年金や医療費は増える一方だし、今後減ることもないだろう(*年金には社会保険料だけでなく税が一部投入されている)。したがって、論理必然的に、歳出増加に応じて税収も増やすことができなければ歳入が足りずに借金に頼ることになる。それが、今起きていることである。

f:id:hirokim21:20160612183734p:plain

(図:財務省

社会保障政策の専門家である慶大教授の権丈善一はかつてこのように書いている。権丈は野田政権下の三党合意に基づき設置された社会保障制度改革国民会議の委員も務めるなど、政府の会議でも大きな役割を果たしている。

財源の裏付けがない社会保障の会議など、ただのガス抜きの意味しかない。社会保障政策など、さして難しい理屈があるわけではなく、やらなければならないことは、とうの昔に決まっている。足りないのはアイデアではなく財源である。負担増のビジョンを示さない政党や勢力が権力を握れば、社会保障論議は、完全にガス抜きのためだけの意味しかなくなる。そうなれば、すべての公務を止める。時間のムダだ。(『社会保障の政策転換 再分配政策の政治経済学V』p288)

しかし、なぜこんなにも歳入が増えないのか。この間消費税は3%、5%、8%と上がってきたはずではなかったか。税率が上がったのと同時に、経済全体のサイズが縮小したということだろうか。平成に入って以降日本の名目GDPは500兆円前後をウロウロしているので、成長もしていない代わりに、大きく減ったわけでもない。ではなぜ税収が減るのか。

f:id:hirokim21:20160612185608p:plain

(図:内閣府

税目別の推移を見てみる。すると、消費税が増えているのに、全体としての税収が増えていない理由がはっきりする。所得税と法人税が大きく減っているのだ。最大の頃と比較すると所得税と法人税を合わせてざっくり20兆円近く減っている。

f:id:hirokim21:20160612181643p:plain

(図:財務省

割合で見ても明らかだ。消費課税が増えて、法人所得課税と個人所得課税が減っている。ちなみに資産課税も減っていることがわかる。相続税が減っているのだろう。

f:id:hirokim21:20160612182330p:plain

(図:財務省

相続税は1兆円ほど減っていることがわかった。

f:id:hirokim21:20160612190603p:plain

(図:財務省

相続税の減少は相続税率がどんどん減っていることによって起きている。黒から緑、青、赤へとどんどん減っている。茶色が今の税率で、赤より若干上がっていることがわかる。

f:id:hirokim21:20160612190749p:plain

(図:財務省) 

法人税率もどんどん下がっている。この図は左から右へと読んでいく。一番右が今だ。

f:id:hirokim21:20160612191657p:plain

(図:財務省

ちなみに地方税も含めた法人税の実効税率はすでにアメリカやイギリスよりもかなり低い水準まで下がっている。

f:id:hirokim21:20160612195957p:plain

(図:財務省

所得税率も下がっている。最高税率は75%から一時37%まで下がり、近年45%まで戻っているが、依然として50%以下の水準だ。

f:id:hirokim21:20160612191822p:plain

(図:財務省

ここまでを見て、さしあたり次のように言える。確かに日本の経済はしばらく成長していない。この間あらゆる税率が同じでも、税収は増えなかっただろう。しかし、現実には消費税は上がっている。それでもトータルの税収が増えていないのは、消費税以外の税率が下がっているからだ。具体的には、所得税と法人税の減少が大きい。加えて相続税も減っている。

繰り返すが、年金、医療、保育、介護、教育、そうした社会的なサービスに対する需要が減ることはない。これから戦後の日本社会に染み付いてきた性別役割分担を解消していく方向に動いていくならなおさらだ。そして、その方向に動くべきである。専業主婦を含む女性に社会的なサービスを頼る構造や精神性は過去に置いていかなければならない。

であれば、税率を上げるしかないだろう、ということになる。どの税の税率を上げるか。現政権ではさしあたり消費税ということになっており、そしてその消費増税がこのたび延期された。消費税については、これまで散々議論された通り、取りっぱぐれるリスクが少ない代わりに、課税による再分配に関する逆進性がある。

拡大する不平等に対して、支出面だけでなく課税面でも対処をしたいとなれば、所得税や相続税を視野に入れるべきだろう。最高税率の引き上げ、累進度の強化といったことだ。これは、立岩、井出も著書で言っていることであり、日本の文脈ではないがアトキンソンが言っていることでもある(アトキンソンは、世界のほかの国への適用も見越してイギリスを例に語っている)。なお、所得税については、キャピタルゲイン税制も含めて考えるべきだろうと思う。

ちなみに、増税によって資本が逃げる、企業が逃げる、人が逃げる、そうしたリスクが喧伝されるが、どの税のどの税率をどの程度上げたときに、どの程度のことが起きるか、そのことは経験的にも理論的にも自明ではない。一つ例を上げれば、所得税の税率を上げることで、一単位の労働の価値が下がるから余暇を増やそうと考える人もいれば、反対にもっと働いて取り返そうと考える人もいるだろう。いずれにしても、それほど話はシンプルではない。

もちろんどんな税目であれ、税率の調整には短期の経済運営との兼ね合いがあるだろうからタイミングの議論はすべきだ。ただ、中期的な打ち手として、税制に手を入れる必要について誰かが言っておくべきだろうと考える。

タイミングという点に関連して、上記のように税制を変えていくべきだという議論がある一方、足りないお金をある種ゼロから生みだす方法を主張する議論もあるということを知っておいたほうが良い。平たく言えば、中央銀行による財政ファイナンスを推奨する議論である。欧米左派の反緊縮的な経済政策の標準として、立命館大教授の松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』で簡潔に紹介されている。

具体的には、イギリス労働党のコービンが訴える「国民のための金融緩和」や、スペインの新興政党ポデモスが掲げる政策などが紹介される。要点は簡単だ。必要な社会的支出に対して、税収で足りない部分は中央銀行が引き受ける国債でまかなえば良い。基本的にはそれだけである。

しかし、当たり前だが、これは永遠にできる施策ではない。お金をすり続けることになるので、インフレが進行する。だから、インフレ目標を事前に設定しておき、インフレ目標に到達した時点で金融を引き締める必要がある。それまでは、中央銀行が引き受けた国債で社会的支出をまかなうことができる。

その後は先ほど論じていた状況と同じである。中央銀行による財政ファイナンスと所得税の累進度強化といった税制改革は短期と中長期の役割分担といったイメージになる。松尾もそのことを書いている。税制改革によって、安定的に社会サービスに必要な歳入を確保していく。国の体質を少しずつ変えていくような作業がいずれにしても必要となる。

さて、改めてこのチャートを見る。日本は借金まみれだ、そう言うために作られたようなチャートである。ここには希望が全くないだろうか。そんなことはないはずだ、そのことを言おうとして、この文章を書いた。

f:id:hirokim21:20160612211818p:plain

私たちはもっと多くの社会サービスを必要している。例えば、子どものベーシックインカムというアイデアがある。所得制限なし、どんな家に生まれようとも社会が子どもに与える給付というものがあってもいい。子どもの貧困率を下げていくためには考えてよい施策だと思う。

ただ、いまの財政状況のままこの施策を真剣に考えることにどれだけの意味があるだろう。権丈が書いていたように、足りないのはアイデアではなく財源である。立岩真也の言葉で言えば「人の生き死には経済がおおいに関わっている」。どこかに希望があるはずだろう、そう考えているし、その考えは強まっている。

現実的な視点で歴史を学び、論理を使えば、解決策の方向性は見いだせるはずだ。そのことがおぼろげながらわかってきた。しかし、社会全体についての共同的な意思決定に関わる情報や論理であれば、それを広く伝えなければならない。そして、必要な議論があるだろう。説得したり、考えを変えたり、そうしたプロセスがあるだろう。そのプロセスが社会のなかで少しずつ進んでいくことを願う。

最後にアトキンソンの言葉を紹介する(『21世紀の不平等』より)。訳者の山形浩生によれば「不平等研究の大長老」とのことである。帯には「ピケティの師」とある。

重要な点として、私は不平等の増大が仕方ないものだとは認めない。それは私たちにはどうしようもない力だけの産物ではないのだ。政府が、個別でも各国が協力してでもできることはあるし、企業や労働組合や消費者団体ができることもある。そして個人としての私たちにも、現在の不平等水準を減らすためにできることはあるのだ。(p.354)

私の狙いは、政治的なメッセージが根ざしている、ある特定の見方に取り組むことだった。その見方というのは、できることは何もないのだという人々を蝕みやすい見方だ。現在の高い水準の不平等に替わるものはない、という見方だ。私はこの見方を否定する。これまでにも不平等と貧困が大幅に減った時期はあったし、それは戦時中だけではない。21世紀は、特に労働市場の性質や経済のグローバル化という点でこれまでとは違っているが、未来を考えるにあたり歴史から学ぶことはできる。(p.358)

私たちにできることはまだある。歴史から真摯に学ぶ、論理的に考える、人びとを説得して政治的に実現する。そうした希望が広がることが、最終的には未来を変える。 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

ーーーーー

関連書籍

21世紀の不平等

21世紀の不平等

 

 

税を直す

税を直す

 

 

日本財政 転換の指針 (岩波新書)

日本財政 転換の指針 (岩波新書)

 

 

社会保障の政策転換―再分配政策の政治経済学V

社会保障の政策転換―再分配政策の政治経済学V

 

 

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案

 

 

21世紀の資本

21世紀の資本

 

関連エントリ

日本語ラップの最高さを改めて実感できる最近のMVを10本

最近いいなと思ったMVをただただ紹介していきます。とにかく全曲必聴ですよ。

f:id:hirokim21:20160528025858p:plain

①LIBROのニューアルバムついに出たー!

②フリースタイルダンジョンでお茶の間にも衝撃を与えた崇勲。音源もいいぞー!

③ベテランの新曲も相変わらずかっこいいんだわあ。。

④ド名曲。アルバムも良かったです。

⑤リハビリマーシーは外せないぜメーン。

⑥テレビでも塊すぎる才能を披露するこの兄弟。宝。

⑦才能と言えばjjj。C.O.S.A.のラップも熱い。

⑧jjjのセンスアゲイン。トラックもラップも良い。

⑨jjj x KID FRESINOって黄金すぎるやつ。

⑩ラストはSTUTS。客演含めてアルバム全曲ハイクオリティ。

番外編:そんなSTUTSのインタビュー。ヒップホップの素晴らしさが詰まってる。

ほとんど最近のMVばかり。こんな短期間にこんなにも素晴らしい楽曲たちが生まれるこの日本語ラップというカルチャー。。アツい。。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

ーーーーー

関連エントリ

「どんな人でも役に立てる」と「役に立たなくても生きていける」の違い

イギリスで主に障がい者向けの福祉予算が削られているというこの記事を読んで。

英国福祉改革センターのサイモン・ダフィー博士によると、世界金融危機後の2010年に保守党が政権を握って以降の6年間、障害者は健常者と比べて9倍、重度の障害を抱える人々にいたっては19倍も厳しい生活を強いられてきたという。こうした状態に陥ったのは、福祉と住宅手当、社会保障の削減が重なった結果だ。

ある国が生みだす富は有限で、それは現在で言えばGDPと呼ばれている。そして、そのGDPから国や地方自治体が徴収する税ももちろん有限で、その有限な資金をもとに、政府は国民の権利を保障するための歳出を行う。問題は、その歳出が歳入に見合わないほど大きくなったときどうすればよいのか、だ。

選択肢は二つしかない。歳入を増やすか、歳出を減らすか。歳入を増やすには、GDPを増やすか、税率を上げるか、あるいは借金をするという方法がある。歳出を減らすには、権利を保障する対象の範囲を狭めるか、一つ一つの保障の度合いを縮小するといった方法がある。そして、問題は、それらのあいだの選択を、つまるところどんな理念と現実的な戦略をもって行うか、というところにある。

さて、先の記事で取り上げられている障がい者雇用の問題に限らず、「誰でも適切な場や環境を用意すれば活躍することができるはずだ」という一見ポジティブな考え方については、それを誰がどんな文脈で言っているのであれ、一定以上の警戒を払うべきだと私は思っている。

理由。それは「誰でも活躍できるはずだ」が、意図せざる結果として「みんなが活躍できなければならない」を導き出してしまう可能性を常に孕んでいると思うからだ。財政状況が逼迫しているなかで、「誰でも活躍できる、役に立てる」という言葉は一体誰にとってメリットのある言葉なのか、今一度冷静になって考えてみたほうがいいように思う。

近年の経済学には、格差の是正、特に人的資本への投資という意味での教育そのものの充実や、教育一般を支えるファイナンスの整備をすることが、経済成長に対して正の効果をもたらすという考え方もあるそうだ。

一般的な市場経済のイメージと異なり、市場経済を単に放任するだけでなく、それに対して政府が一定程度の介入を行うことによって、結果として経済成長が促進されるのではないかという考え方である。こうした考え方の存在は、財政赤字が膨らみ緊縮財政に走りがちな日本やイギリスのような先進諸国に対して一定の示唆を与えるだろうし、与えるべきだと思う。

しかし、同時に重要なことは、権利の言葉と利益の言葉はそれぞれ全く異なる、そのことを決して忘れないことだとも思う。再分配を権利だけでなく利益の言葉も用いて正当化できる可能性が出てきたということは、経済成長に効くから再分配をしようという考え方への短絡であってはならないはずだ。

権利の言葉は、権利を持つ者が役に立つことやいい人であることを求めてはならない。権利の承認とアドホックな救済は異なる。実現される権利は、その実現の過程が始まる前から常にすでに承認されていなければならない。同時に、そうした権利を有限なリソースでまかなうためには、統治技術の粋を極める必要があることも常に忘れてはならない。

これら二つの要請は常にコインの表裏である。健全な理想主義は、常に健全な現実主義を伴うだろう。その逆もまた然りである。

繰り返す。障がい者でも役に立つ、普通の人とは異なる価値を発揮できる。結構。ただし、それは権利の言葉ではなく、利益の言葉である。権利の言葉を研ぎすまさなければ、財布事情が変わっただけで新たな線引きの犠牲になる人びとがきっと増えてしまうだろう。

考えておくべきは、もし越えてはならない一線があるとして、さて、その線は一体どこにあるだろうか、ということである。障がい者だけの話をしているわけではない。その線は誰か一人だけのものではなく、同じ社会に生きる人びとが共に在るということそのものであるような線であるはずだ。

誰もが弱者であることが、私たちが社会を必要とする最大の理由であって、こちら側とあちら側はいつだって一本の細い線でつながっている。役に立てるとは別の論理を、私たちは常にすでに必要としているのだ。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

富める国の不平等。稲葉振一郎『不平等との闘い』を読んで。

一般の方で稲葉振一郎先生のことを知っている方はあまり多くないかもしれませんが、これを機にぜひ知っていただきたいと思う学者の方です。特筆すべきは、経済学、社会学、政治理論など様々な学問領域を架橋する学際性、加えて専門性を落とすことなく一般の人でも読める文章・ストーリーに転換していく構成力だと思います。

そして、最新刊『不平等との闘い ルソーからピケティまで』もそうした稲葉先生らしさが存分に発揮された快作でした。トマ・ピケティ『21世紀の資本』のベストセラーも記憶に新しいですが、近年経済学の内外で「先進国」における格差や貧困が理論的・実証的に取り組むべきテーマとして浮上しているというのです。

学問的な議論を離れても、長引く不況のなかで子どもの貧困や奨学金の返済問題、保育士・介護士の待遇問題への注目が集まったり、年金不安や生活保護へのバッシングなど、国内の経済格差、不平等に関するテーマへの関心は年々高まっているように感じます。そんななか、経済学者にとって「富める国の不平等」はどのような形で問題化されているのかを知ることには、一般的な議論を進めるうえでの論点整理という意味でも大きな意義がありそうだと本書を読んで強く感じました。

不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)

不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)

 

不平等と最底辺の底上げ

現代の話に入る前に、本書はルソーとアダム・スミスの対決を通じて、格差と経済成長をめぐる古典的かつ基本的な論点を描き出します。 簡単に言えばこういうことです。資本主義=市場経済の発展による経済成長を通じて、同じ国のなかで人びとの暮らしぶりや経済状況に大きな格差が生じてしまった。経済的にもっとも豊かな地主や資本家といった人たちと、最底辺の労働者のあいだでは、衣食住などの生活水準がいまや全く異なる。これは許されるのか否かというのがひとまずの論点になります。

簡単に言えば、『人間不平等起源論』のルソーはこれに対して否と言い、『国富論』のスミスは反対に諾と言った、というのが著者の整理になります。ただし、スミスの主張には少しニュアンスがありそうです。スミスは、国全体の経済が成長すれば、最底辺の人びとがどれだけ貧しくても構わないという立場ではありません。むしろ、経済成長の結果一国内の相対的な不平等が拡大してしまっていたとしても、それでもなお最底辺の貧困が絶対的な意味で改善していればそれはそれで良いのではないか、というのがスミスのスタンスだと言うのです。著者はこのように二人の仮想的な対決を整理し、「水準低下の異議 levelling-down objection」と呼ばれる最近の議論の原型をそこに見いだします。

仮に現行の不平等を緩和できたとして、それが所有権制度や市場経済に対する規制を通じてのものであり、しかしそれが逆に生産力の減退を引き起こしてしまっていたとしたら?とりわけ、それが富者だけではなく貧者の生活水準をも低下させるものだとしたら?「みんなで一緒に貧しくなる」という形での不平等の解消になってしまっていたら?

不平等と経済成長

次の問いに移ります。経済成長を通じて、不平等の拡大と最底辺の底上げが同時に起きるのであれば、不平等の拡大それ自体をことさらに問題視する必要がないのではないかというのが先の議論でした。しかし、近年の経済学において問われているのは、また別のことのようです。すなわち、不平等が大きいことが経済成長自体を阻害してしまうのではないか、ということです。

著者によれば、これまで「生産」と「分配」を分離して捉えてきた新古典派経済学の内部から、このような形で「分配」のあり方が「生産」に影響を与えるという新しい考え方が出てきました。資本や土地といった社会的リソースがどのように分配されていたとしても、市場を通じてそうしたリソースは効率的に活用されることで最大の経済成長が達成される、そうした考え方に対する理論的な修正の試みが生まれてきたということです。ここの理論的な説明についてはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、まだまだ学者間でも結論が出ているというわけではないようです。

現在の実証研究においては「各国の不平等度と経済成長率との間には、負の相関関係がみられる、つまり、国内的不平等が悪化すればするほど、その国の経済成長率は低くなる傾向がある」と指摘されています。その上で、前者が後者を引き起こしているのではないか、という問いが提出されています。(中略)今や「分配から生産・成長への因果関係があるのではないか、だとしたらそれはどのようなメカニズムなのか」という問いかけが活発化し、いくつかの理論モデルも構築されてきているのです。

理論的な経済学の中から、経済全体のパイを最大化するためには、そもそもの分配を平等化したほうが良い可能性がある、という視点が提示されている。これはとても興味深いことです。ともすれば「弱肉強食の資本主義と人びとの経済的平等は両立しない」と考えてしまう人も多いなかで、ここではむしろ一定の平等化が経済成長に資する可能性が経済学そのものから提示されているわけですから。

人的資本の最適な分配

不平等が経済成長を阻害する、前者が後者に負の影響を与える、経済学者たちはこの両者の間に「人的資本 human capital」という概念を挟んでものを考えているようです。より具体的に言うと、「人的資本のスピルオーバー効果(外部経済性)」に着目しているようです。

人的資本という言葉に聞き覚えがある方はあまり多くないかもしれないので補足します。人的資本は、シカゴ大学のゲーリー・ベッカーなどが中心になって唱えた概念で、労働者たる人びとが提供可能な価値の源泉になるような能力のことです。人的資本には、異なる職業ごとの個別技能もあれば、様々な職業に横断的に関るより一般的なスキルもあるでしょう。

大切なのは、スミスやマルクスの時代には、資本をもつ「資本家」と資本をもたない「労働者」という形で人びとが類型化されていたわけですが、労働者であっても「人的資本」という形で「資本」を持つことが可能であるという考え方が20世紀後半になって生まれてきたということです。

さて、上に「人的資本のスピルオーバー効果」と書きましたが、より多くの人びとがより多くの人的資本を持つことは、それらひとりひとりの個人にとっての利益になるだけでなく、経済全体の成長にとっても意味があると考えられます。読み書きそろばんのような非常に基礎的なレベルの人的資本を考えてみるとわかりやすいですが、例えば英語や基礎的なコンピュータのスキルなどもスピルオーバー効果(外部経済性)がありそうです。

さて、こうした外部経済性をもつ人的資本ですが、ほっとけば個人個人が勝手に蓄積してくれるわけではありません。一つには、人的資本を蓄積するにもお金や時間がかかるということです。そのお金を誰もが平等に持っているわけではありません。すると、そのお金を誰かから借りるか、もらうかするしかないわけですが、その問題を言い換えれば (高等) 教育の無償化や奨学金の整備といった問題に直結してきます。

貸与型の奨学金の場合、お金を貸す側の身になってみればわかる通り、家を建てるのとは異なり、担保に取ることができるものはありません(人身を担保にとることはできない)。ですから、この貸与はハイリスクであり、従って高い利率を課すことになります。借りる側から見れば、そうした高い利率を払ってまで人的資本に投資するメリットがあるかを考えるわけですが、結果的に投資したほうが高いリターンが得られたであろう人々が、デメリットのほうを高く見積もって奨学金借り入れを通じた投資を行わない可能性があります。

経済学者から見るとこうしたケースは明確に社会的損失です。そして、ここから教育の無償化によってこうしたケースを防げるメリットと、公教育化という市場介入による経済効率の悪化によるデメリットのどちらが大きいだろうか、という議論が発生する余地が出てきます。外部性がある投資については、市場への介入が功を奏する可能性があるということです。

これは議論の一部だと思いますが、平等化を通じた経済成長の促進ということのイメージを掴むにはとてもわかりやすいテーマだと思います。教育の無償化というと、社会福祉や人権的な文脈で語られることも多いですが、経済成長という観点からも正当化の可能性があるということです。

ピケティと物的資本の平等化

最後に。本書自体がピケティ『21世紀の資本』に着想を得て書かれたものということで、ピケティへの言及があります。そして、それはここまでの説明で抜け落ちていた論点にピケティが取り組んでいるからでもあります。ピケティが論じるのは「人的資本」ではなく「物的資本」の平等化という論点です。ここで物的資本と呼ばれているのは、土地を含む様々な資本のことだと考えていいでしょう。 

有名な「r>g (利子率>成長率) 」が意味するのは、ある国が近代化して一気に高度成長する一時期を除いては、成長に必要な資本の調達コストである利子率rが、それによって達成される成長率gよりも大きいという経験的事実です(重要なことに、これはピケティが過去の様々なデータを分析した経験的な法則であり、何らかのモデルにもとづいた理論ではありません)。

ピケティはかつて、人的資本に着目して、その平等化によって経済成長が促進される理論を構築していました。しかし、最近はむしろ物的資本の不平等な分配とそれが時を追うごとにどんどんと拡大していくことについて、理論というよりはまず経験的な実証のほうに重きを置いて仕事をしているそうです。その一つの集大成が『21世紀の資本』であるというわけです。

そして、ピケティは人的資本の重要性を見限ったわけではないものの、物的資本の再分配、より具体的には富裕層に対する資産課税の強化を通じた再分配を唱える立場を近年は取っています。それは、定常状態としてのr>gに再び突入した先進諸国における格差の問題を根本的に解決する方法として、物的資本の再分配を捉えているということなのでしょう。

経済理論と民主政治の交差点

ここで改めて思い起こされるのは、最初に論じたルソー対スミスの議論、すなわち格差が広がっても最底辺が底上げされていれば良いのではないか、という議論です。実践的な意味で、経済成長が鈍化したあとのほうが、一部の富裕層への富の集中と最底辺の底上げは両立しづらくなっていくように思います。

著者も指摘している通り、そこで上位1%の超富裕層を念頭に置くか、それとも上位10%の富裕層を念頭に置くかで話はだいぶ変わってきます。しかし一般的に言って、経済成長が鈍化したあとのほうが、最底辺の生活水準を底上げしていくにあたって市場での資源配分ではなく、政府を通じた再分配の必要性が強まるでしょうし、政治的な要求も強まっていくだろうという気がします。しかし、実際には企業所得への課税(法人税)や資産課税への下方圧力は強まるばかりです。

これは、理論的な問題というよりは、政治的な問題なのだろうと思います。すなわち、経済的な再分配を経済理論的に正当化するだけではなく、民主政治を通じて政治的に実現していくにはどうすればいいだろうかという問題があるだろうということです。この問題に対して、本書では経済学内部からの一つの応答としてアレシナとロドリックによる「中位投票者定理 median voter theorem」が取り上げられています。

その定理に従えば、理論的に考えて、平均所得より中位所得が低ければ低いほど、すなわち不平等の程度が大きければ大きいほど、民主的な選挙を通じて選択される再分配の程度は大きくなります。そして、平均所得より中位所得が低いということは経験的に非常に一般的な状況であるわけですから、理論的に考えれば、不平等は民主政治を通じて自然と解消される方向に向かうだろうと考えられます(ただしそれが経済的な効率性と両立しているかはまた別の話)。

しかし、ご存知のように現実は必ずしもそうなっていません。そこには、経済学が想定する通りに動かない人間社会側の理由があるだろうと思います。私が思うのは、経済学が想定するモデルにしたがって人間が動くだろうと考えることに一定の留保が常に必要なのと同じくらい、経済学が想定する通りに人間が動かない(動けない?)ことによって私たちがどの程度のデメリットを被っているのだろうかということを考える必要があるのかもしれないということです。

言い換えれば、なぜ私たちは民主政治を手にしながら、自らが当然に要求するであろうことを要求せず、現状を追認するような行動を取ってしまうのでしょうか。私自身この問いに対するシンプルな答えを持ち合わせているわけではもちろんありません。しかし「富める国の不平等」という視角によって問題化される状況をより良い方向に変革していくためにも、経済理論と民主政治の両方への理解が必要だということを改めて考えさせられました。ぜひ『不平等との闘い』読んでみてください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

ーーーーー

関連本〜膨れ続ける本棚から〜

稲葉先生の著作は数多いですが、その中から三冊を紹介。

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

 
リベラリズムの存在証明

リベラリズムの存在証明

 
「公共性」論

「公共性」論

 

関連過去エントリ

名門大学の卒業生に向けてオバマが語ったこと。

オバマ大統領が名門ラトガース大学の卒業生に贈ったスピーチが素晴らしかったので紹介します。既出の報道ではトランプ批判的な文脈が強調されていましたが、それを差し置いてもとても良い内容でした。40分超のスピーチを全文取り上げるのは難しいので、後半部分から3つのパートだけ紹介します。※文脈とりづらい箇所は文意を変えない範囲で削っています。(全文はこちら

f:id:hirokim21:20160518084656p:plain

White Houseより)

統治者の資質と市民の資質。知性について。

トランプ現象に暗に言及しているパートの一つです。ただ、統治者や政治家だけでなく、一般の市民について語っているところがオバマ大統領らしいと思いました。

事実、エビデンス、理性、論理、科学の理解。これらは良いものです。これらは政策をつくる人々に私たちが求める資質です。そして、これらの資質は、市民としての私たち自身のなかで、ずっと耕し続けたい資質でもあります。それは明らかだと思います。

私たちは伝統的にそうしたことに価値を見いだしてきました。しかし、最近の政治的議論に耳を傾けるなら、この反知性主義のうねりがどこから来たものか、あなたは首をかしげるかもしれません。2016年の卒業生のみなさん、これはクリアにしておきたい。政治においても人生においても、無知は美徳ではありません。自分が何を話しているかわかっていないのはクールではない。それはリアルじゃないし、ポリティカルコレクトネスに挑戦しているわけでもない。それはただ自分が何を話しているかわかっていないだけです。私たちはこれらを混同してしまいました。

私たちの建国の父たち、フランクリン、マディソン、ハミルトン、ジェファソン、彼らは啓蒙の申し子たちです。彼らは迷信から、セクト主義から、部族主義から、そして何もないことから抜け出そうとしました。彼らは理性的思考と実験を信じ、知識をもった市民が自らの運命を支配する力を信じました。その信念が私たちの憲法のデザインに埋め込まれています。その同じスピリットがエジソン、ライト兄弟、ジョージ・ワシントン・カーヴァー、グレース・ホッパー、ノーマン・ボーローグ、そしてスティーブ・ジョブズといった私たちの発明家、そして探検家に力を与えてきたのです。

今日、あなたたちのポケットに入っているすべてのスマホを通じて、私たちは人類史上もっとも多くの情報へのアクセスを持っています。しかし、皮肉なことに、情報の洪水は私たちが真実を見分けられるようにはしてくれませんでした。いくつかの点で、それは私たち自身の無知について、私たちにより強く思い知らせるだけでした。私たちは、ウェブ上にあるものであれば何でも真実に違いないと思ってしまいます。そして、私たちは自らの考えを強化するだけのサイトを検索してしまいます。意見は事実の仮面を被り、最も野蛮な陰謀論が福音かのように捉えられてしまいます。

(中略)

興味深いことがあります。もし病気になったら、私たちは医者が実際に医学部を出ていて、彼らが自分が何を話しているかわかっていることを望みます。飛行機に乗ったら、パイロットが飛行機を操縦できることを切実に望みます。しかし、私たちの公的な暮らしにおいては、私たちは確かに「以前にやったことがある人物は、誰であれいやだ」そう思ってしまうのです。これは興味深いことです。事実の拒否、理性と科学の拒否、それこそが没落への道です。カール・セーガンの言葉が思い出されます。「私たちは、自らの問いの勇気と、自らの答えの深さによって、自らの進歩を測ることができる。それは、自分が心地よく感じることよりも、真実であることを大切にしようとする意思のことである。」

なぜ変化は起きないのか。民主主義について。

最低賃金を上げる、幼児教育を充実させる、大学の学費を安くする、税の抜け道をふさぐ。人々が求めるこうした変化はなぜなかなか実現しないのか。

大多数の人びとが認めているのにこうしたことがいまだ実現しない理由、それは本当にシンプルです。私がそれらを提案していないからではありません。それらがやってもうまくいかないという事実やエビデンスがあるからでもない。アメリカ人の、特に若い人びとが、選挙に行かないからです。

2014年の投票者数は、第二次大戦以降で最少でした。若い世代の5人に1人も投票に行かなかったのです。そして、投票に行った1人と全く同じくらい、行かなかった残りの4人もこの国の方向性を決めているのです。なぜなら無関心は何らかの結果を伴うから。それは、私たちの議会が誰で、彼らがどんな政策を優先するかを決めてしまいます。

もちろん政治におけるビッグマネーの存在はとても大きな問題で、その影響を減らしていかなければならないのは確かです。特定の利益集団やロビイストが権力に対して不相応に大きなアクセスを持っているのも事実です。しかし、ときに左右両陣営から聞こえてくることとは反対に、あなたが考えるほど不正にシステムが操作されているわけではないし、あなたが考えるほど希望がないわけではない。政治家たちは選挙で選ばれるかどうかを、特にもう一度選ばれるかどうかを気にかけています。もしあなたが投票して、あなたの考えが多数派になれば、あなたの望むものが手に入る可能性がある。しかし、もし参加すらしないのであれば、あるいは気にかけることすらやめてしまうのであれば、決してそうなることはありません。とてもシンプルです。そこまで複雑ではありません。

人々が投票に行かない理由の一つは、彼らが欲する変化がそこにあると思っていないからです。確かに、歴史上の大きなうねりの一つとして、あっという間に実現したものなどありません。サーグッド・マーシャルとNAACP(全米黒人地位向上協会)によってブラウン対教育委員会裁判の勝訴がもたらされるにいたるまで、何十年という長い時間がかかりました。その後、公民権法と投票権法にいたるまでにはさらに時間がかかかりました。さらに、それらが実際に機能し始めるまでにはもっと時間がかかったのです。ニュージャージー州でアリス・ポールやその他の婦人参政権論者によって女性の投票権が最終的に勝ち取られるにいたるまで、そこには何年にもわたる行進やハンガーストライキ、異議申し立ての組織化、何百もの法案の起草、手紙やスピーチ、そして議会のリーダーたちとの協力があったのです。

(中略)

参加が投票を、そして妥協、組織化、アドボカシーを意味するのと同時に、それは自分に同意しない人たちの声に耳を傾けることをも意味します。数年前、ここでコンドリーザ・ライスが卒業式のスピーチをすることについて何人かが動転して騒ぎ立てていたことを知っています。これは秘密でも何でもないですが、私は彼女や彼女が所属していた政権の外向政策の多くに反対です。しかし、以前の国務長官の言葉を聞かないほうが、あるいは彼女が言うべきことを締め出すほうが、このコミュニティ、そしてこの国にとってより良い結果につながると考える、それは見当違いというものです。

もし誰かに反対するなら、彼らを招き入れ、タフな問いを投げかけましょう。説得しましょう。彼らに自身の立場を論じさせましょう。もし誰かが悪い、あるいは攻撃的な考えを持っていたら、その誤りを示しましょう。関わって、議論しましょう。自分が信じるもののために立ち上がりましょう。誰かを関わらせることを恐れてはいけません。自分が壊れやすく、誰かが自分の感受性を攻撃するかもしれないからといって、耳を塞いではいけない。彼らが言っていることが意味不明だったら、彼らのもとに出向いて、論理と理性、言葉を使いましょう。自身の立場を強化し、自らの議論を研ぎすましましょう。そうすることで、反対者が何を信じているかだけではなく、自分が何を信じているかについてもきっと、あなたのなかで新しい理解が生まれるかもしれません。どちらにしても、あなたの勝ちです。もっと大切なことに、それは民主主義の勝利です。

長距離モードでいこう。最後に進歩について。

スピーチの最後にオバマが語った言葉を最後に紹介します。

最後にもう一つだけ。長距離モードでいきましょう (gear yourself for the long haul) 。ビジネス、非営利、政府、教育、ヘルスケア、アート、どんな道を選ぶのであれ、いつか必ず壁にぶつかります。愚かな人と出会うでしょう。イライラすることも、偉大ではない上司を持つこともあるでしょう。ほしいものを全て得られることはないでしょう。少なくともあなたが望むほど早いスピードでは。だから粘り強くやらなければ、食らいついていかなければなりません。そして、例えどんなに小さくても、不完全でもいいから、成功をつかみ取ってください。成功は成功です。娘たちにいつも言っています。マシなのは良いことだと(better is good)。完璧でも偉大でなくても、それは良いことです。そのようにして、これまでも私たちは進歩してきました。様々な社会のなかで、そして私たち自身の人生のなかで。

だから、ときどき障害にぶつかっても希望を失わないでください。否定ばかり言う人と会っても希望を失わないでください。そして、抵抗を受けたからと言ってシニカルにならないでください。シニシズムに陥るのは簡単です。そして、皮肉屋が多くを達成することはありません。ブルース・スプリングスティーンはかつて歌いました。「彼らは決して訪れない瞬間を待って日々を過ごしている」。そうはならないでください。待っているだけで時間を無駄に費やしてはならないのです。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

イランは危険で、飯がまずくて、カルチャーも歴史もないただのでかい砂漠だ。だからDON'T GO TO IRAN。

DON'T GO TO IRAN。直訳すると「イランに行くな」ってタイトルの動画なのですが、Twitterで流れてきて観た瞬間、「うおおイラン行きたい!」ってなりました。学生のころ北西部に数日行ったきりなのでまた行きたい。

f:id:hirokim21:20160516054030p:plain

イランってこんなところにあって、アフガニスタンとイラクに挟まれている・・・そしてイラクの先にはシリア。実は北西部がトルコと国境を接していて、このあたりはイラクやシリア、トルコにまたがってクルド人がたくさん居住しているエリアです(ここの陸路国境越えはつらかった・・) 。

f:id:hirokim21:20160516053526p:plain
(Google Mapsより)

ほかにも東にパキスタンやトルクメニスタン、西にアゼルバイジャンなんかとも国境を接しているんですね。ペルシャ湾を挟んでサウジアラビアやUAEなどのアラブ諸国ともかなり近い。数ヶ月前にサウジと断交!ってかなり緊張が高まってましたがあれどうなったのだろう。ちなみにイランはアラブではなくペルシャです。言葉も文化もかなり違います。

それでは早速動画をご覧ください。イランは危険で、飯がまずくて、カルチャーも歴史もないただのでかい砂漠だ。だからDON'T GO TO IRAN。

※一つだけ注意を。今年に入ってからイランへの渡航歴との関係でアメリカ入国の要件が厳しくなっています(理由はIS支持者の入国阻止とのこと・・・)。ESTAだけではアメリカに入国できず、ビザの申請が必要とのことなので、イランとアメリカ両方行かれる方は注意してください。最新情報はアメリカ大使館のサイトで。外務省の海外安全情報も必ず確認を。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

山と人間。ペルーのアンデス山脈で考えたこと。

旅行でペルーに来ています。目的の一つがアンデス山脈を眺め、歩くこと。北部のワスカラン国立公園にはペルー最高峰の山々があり、1985年に世界遺産にも指定されています。世界で最も高いところにある国立公園です。

f:id:hirokim21:20160503202708j:image

下のパノラマ写真を見てください。4700mのワンガヌコ谷峠という場所からの景色です。左に見えるのがペルー最高峰のワスカラン南峰(6768m)と北峰(6655m)、少し右に離れて4つのピークがあるワンドイ(最高峰6395m)、その右にピスコ(5752m)、一番右がチャクララフ(6112m)です。もう少し右側に回り込むとワスカランの左にチョピカルキ(6354m)も見えます。

f:id:hirokim21:20160503203004j:image

ガイドは地元のワラスという街出身のギオさん。彼に連れられて、チャクララフを眺めながらトレッキングしました。後ろに見える2つピークのある山がチャクララフです。

f:id:hirokim21:20160503204844j:image

ギオさん:チャクララフは登るのがとても難しい山なんだ。自分もチャクララフは登ったことがないよ。クレイジーなやつだけが挑戦する。

スペインがワールドカップで優勝したときがあっただろ。2006年かな。その優勝の翌日に2人のスペイン人が東峰(6001m)の登頂に成功したんだ。彼らはその次の日に西峰(6112m)にも挑戦して、そして2人とも死んでしまったんだ。 

地震で消えた街

ワスカラン国立公園に向かう途中に、ユンガイという街があります。実はこのユンガイは新しく作り直された街で、かつてはこことは違う別の場所に、ユンガイはあったそうです。

f:id:hirokim21:20160503205530j:image

それがここです。今は何もありません。遠くにワスカランが見えます。先ほどの写真とは向きが逆で、左が北峰(6655m)、右が南峰(6768m)です。

f:id:hirokim21:20160503202949j:image

ギオさん:ここは昔ユンガイがあった場所だよ。1970年の大地震のときに、雪崩で街が全滅してしまったんだ。ワスカランの北峰(左側)の影になっている部分があるだろう。あそこの部分が地震でそのまま転げ落ちて、街を物凄いスピードで襲ったんだ。ほぼ全員死んでしまった。この場所はHoly Fieldだから、ユンガイは新しい場所に作り直したんだよ。

調べてみると、地震のあとに政府が旧ユンガイを国有化し、国立墓地に指定したことがわかりました。この場所全体が墓地となっていて、雪崩で亡くなった18000人もの人の多くがこの地に眠っています。ユンガイ - Wikipedia

1970年5月30日に発生したアンカシュ地震(マグニチュード7.9)により、ワスカランの北峰が氷河と共に大崩落を起こす。約15,000,000m³の土砂と氷塊が3000mの標高差から流れ落ち、時速300kmでユンガイの集落を襲った。当時のユンガイの人口は約18,000人であったが、そのほとんどが死亡した。
ペルー政府は、ユンガイの地を国有化し、国立墓地に指定して掘り返すことを禁止した。また旧市街から南に約2kmの場所に新しいユンガイの町を建設した。

日本で起きていること

今の時代、どこの国のどんなホステルでもWiFiが飛んでいたりするもので、Twitterを眺めていると日本の穂高が大変なことになっていることを知りました。このブログ記事によると、5/2の一日で「死亡2名、17名救助、1名未収容」という事態になっているようです。

著者の方はプロの視点から、(冬)山の危険性とそれを想像できない登山者について論じています。

昨日は富山県の立山や劔でも遭難がありましたし、一昨日はやはり長野県北部や埼玉県でも遭難があったせいで報道的には「春山登山で遭難相次ぐ」とされています。
しかし、穂高でのこの数の多さはちょっと異常でしょう。それはなぜなのか…… 端的に言うと「春の穂高に登るべきでない(登る技量のない)人が、大勢登ってしまっているから」ということです。

誰も遭難をおこそうとして山に登る人はいません。
でも、お願いですから、その山に登る前に、そのルートに取り付く前に、その斜面に踏み込む前に、「それを行ったらどうなるのか?」ということにもっと想像力を働かせてほしい。
雪の急斜面を登ったならば、必ず次はそこを下って戻らねばなりません。ルートで時間がかかれば、結果として厳しいビバークを強いられることになります。奥穂への雪壁で墜ちれば、たいていの場合死に至ります。

有限性、身体、自由 

山を歩いていると、自分の体に何ができて、何ができないかということがとてもよくわかります。高地を歩いているとすぐに息が切れて心臓がバクバクする。登り始めて最初の一時間は体がうまく動かなくてとても辛いけれど、そのあとに少しずつ脚が動くようになってきます。おにぎりでもチョコレートでも、何かを少しずつ食べることで、また脚が動くようになる。下りで調子に乗ると脚をくじくし、膝が痛くなることもあります。

f:id:hirokim21:20160503203840j:image

人間は身体を持っています。あるいは身体そのものが人間であると言ってもいいかもしれません。山や自然の大きさに比べたとき、その身体はとても脆く、いつでも壊れかねないものです。したいこととできることの間には大きな乖離があり、その乖離を作るものが身体という名の有限性だろうと思います。

f:id:hirokim21:20160504185221j:image

人間には空を飛ぶことができません。酸素がなければ呼吸をすることもできないし、時速300キロの雪崩から逃げることもできない。様々に広がっていく人間の欲求に対して、生まれ成長し老いていく一つの身体が限界を画します。

大切なのは、その限界を越えることは決してできないということです。人間の自由は身体という限界を越えることにあるのではなく、無限の欲求と有限の身体との間を具体的にどのような形で調停するか、そのなかにしかないのだと思います。そこを勘違いすると、自由だと思っていた先にとんでもない落とし穴が待っています。

f:id:hirokim21:20160504185035j:image

母が若い頃に穂高の山荘で働いていたということもあり、穂高にはいつか登ってみたいと思っています。自分はただのアマチュアですから、長い時間をかけた入念な準備が必要です。人生は長い。登りたい山を焦る必要はないし、自分の身体ができることを少しずつ増やしていけばいいだけです。

生きている間に全ての山を登ることはできない。でも、いくつかのきれいな風景を見ることはきっとできるはずです。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

f:id:hirokim21:20160416231841j:plain

慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki