望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

ドナルド・トランプの勝利と「新しい世界」について

先日のアメリカ大統領選でドナルド・トランプが勝利したという出来事について、アメリカにおける人種・エスニシティの問題、そして移民問題という視点から振り返ってみたいと思います。

そうするのは、それらの問題がこの選挙において最も根本的であると私が考えているからであり、ジェンダーや所得、居住地域など、他にもありうる幾つかの視点の一つという位置付けではありません。最も根本的な意味で、この選挙において重要だったのは人種・エスニシティであり、移民の問題であったと私は考えています。

この記事では以下の順序で話を進めていければと思います。

  1. 誰がトランプに投票したのか?
  2. 白人の民主党離れとクリントンが勝てなかった理由
  3. ドナルド・トランプの勝利と「新しい世界」について

少し長くなりますが、お付き合いいただけたら嬉しく思います。

1. 誰がトランプに投票したのか?

トランプ勝利のニュースの後、色々な人たちがトランプ勝利の考えられる要因について色々なことを述べているのを見ました。典型的には「田舎に住む低学歴で貧乏な白人男性労働者の怒りがトランプを生んだ」という診断があったように思います。

しかし、これは何となくわかったようでよくわからない話です。何しろ、田舎(居住地域)、低学歴(学歴)、貧乏(所得階層)、白人(人種・エスニシティ)、男性(ジェンダー)、労働者(職業)といった要素がすべて含まれていて、複雑な掛け算になっているからです。

結局どんな人たちがトランプとクリントンのそれぞれに投票をしたのでしょうか。ちなみに、それらの人々を「ヒルビリー」といった言葉で一まとまりの実体として見るような視点も提案されましたが、彼らが一体何人いて、どこに住んでいるのかはよくわかりません。

日本でもしばらく前に「マイルドヤンキー」という言葉が主に企業のマーケティング的な観点でもてはやされたことがありましたが、それと位置付けとしては似た言葉のようにも思えます。診断として正しいかどうかという問題以前に、人によって言葉の定義がバラバラで、起きていることを正確に理解するのには邪魔になってしまう可能性があります。わかりやすくするための言葉が本質を見えづらくしてしまうことはよくあることです。

私の考えを先に言ってしまえば、最も重要なのは「人種・エスニシティ」でした。それは、例えばCNNの出口調査の結果を見てみると一目瞭然になります。CNNの調査については、アンケート方式であるため誤りや嘘の可能性があること、サンプル調査であるため全数調査よりは誤りが含まれる可能性があることなど、いくつか留保が必要ですが、24537サンプルという数の多さなどから一定程度信頼して良い調査かと思っています。

まずは人種についての調査結果を示したこのグラフを見てください。

<人種>

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まずグラフの見方ですが、「70% white」というのは、回答者の70%を占める白人という意味です。そして、その白人回答者のうち、青=クリントンに投票したと答えた人が37%、赤=トランプに投票したと答えた人が58%ということが示されています。ここからいくつかのことを見て取ることができます。

まず、投票者のうち30%が非白人ととても多くの割合を占めているということ。これはアメリカがいかに多様な人々によって構成された国家であるかということを示しています。次に非白人の多くはクリントンに投票し、反対にトランプへの投票者のほとんどは白人であるということがわかります。

これはトランプとクリントンの特殊性というよりは、近年の共和党と民主党のそれぞれの大統領候補に共通する特徴です。現代のアメリカでは言わば共和党は白人の政党、民主党は非白人の政党となっているのです。ただし、民主党においてもいまだ白人からの投票が半数以上を占めていることは忘れてはいけません。

次に、ジェンダー、年齢、所得、学歴の調査結果を見てください。人種と異なり、トランプとクリントンの間にそれほど劇的な差がないことがわかると思います。もちろんトランプの方が男性投票者が多いとか、クリントンの方が若年の投票者が多いといった「傾向」はあるのですが、先ほど見た人種による傾向の方がはるかに顕著です。

<ジェンダー>

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<年齢>

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<所得>

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<学歴>

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こうした傾向から言えることは、人種・エスニシティがトランプとクリントンを分ける最も顕著な軸であったということです。エコノミスト誌の同様の調査でもそのことは見て取れます。青と赤に顕著な差が見られるのは(もちろん支持政党を除いて)何よりもまず人種なのです。

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次に注意しなければならないのは、人種が最も重要な軸であることは今回の選挙のみに当てはまることではなく、近年の選挙においてはむしろ普通であるということです。トランプが勝ったことで考えられない地殻変動が起きたというような声も聞かれましたが、彼が勝ったことによる帰結は一旦置いておいて、彼が勝った「勝ち方」については、いつもの共和党と基本的に同じであったと言って良いと思います。非白人ではなく白人の支持を集めることで勝つ、それが共和党の勝ち方の基本です。

 

2. 白人の民主党離れと「クリントンが勝てなかった理由」

こちらのグラフを見てください。上が民主党投票者、下が共和党投票者です。オレンジの線が白人の割合を、青い線が非白人の割合を示しています。

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2012年ワシントンポスト記事より ※西山隆行『移民大国アメリカ』52頁に引用されている)

一目見て分かる通り、民主党投票者に占める非白人の割合はどんどん高まっています。2012年の選挙では白人56%、非白人44%と半数に迫る勢いです。反対に共和党投票者に占める非白人の割合は微増しているものの依然としてかなり低く、2012年の段階でも白人89%、非白人11%という状況です。

問題はこのグラフの数値をどう解釈するかです。よくある解釈は民主党が非白人からの支持を集めているというトレンドは中長期的に民主党に有利である、というものです。しかし、この解釈は二つの前提に基づかなければ成り立ちません。

一つは全有権者に占める白人と非白人の比率が変化し、非白人の比率が大きくなっていくだろうということ。これについては、実際アメリカ国勢調査局の長期予想でもそうなっていくとされていますし確からしさがあります。

もう一つの前提は、白人全体に占める共和党投票者と民主党投票者の比率が変化しないだろうというものです。二つの前提を合わせるとこうなります。有権者に占める非白人の比率が高まることは民主党に有利に働く、ただし民主党が白人の支持を失わないならば

そして、このただしの部分については留保が必要です。なぜならここ20年ほどの間に、白人の多くは民主党ではなく共和党に投票するように大きく変わってきているからです。

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(西山隆行『移民大国アメリカ』83頁)

つまり、民主党が非白人に人気があり、そして非白人の有権者数が増えていったとしても、同時に民主党が白人からの支持を失ってしまえば共和党が勝つ可能性は残ります。もちろん有権者に占める非白人の割合が今よりさらに増えていけばその可能性はどんどん減っていくわけですが、短期的には必ずしも民主党有利とは言い切れないわけです。

さらに、もう一つの要素として見逃せないのが投票率です。自らの支持層の投票率が相手の支持層の投票率より低かったり高かったりした場合、勝敗に大きな影響が出るのは当然のことです。実際、2008年と2012年にオバマが勝った選挙を見てみると、通常時より黒人の投票率がかなり高かったことがわかっています。

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United States Election Projectより)

まとめます。民主党支持者が多い非白人が増加していくという中長期的なトレンドが変わらないなか、2008年と2012年にオバマが勝つことができ、2016年にクリントンが勝つことができなかった理由として考えられるのは以下の3つです。

  • 仮説1)白人の支持を一層失った
  • 仮説2)非白人層、特にヒスパニックの支持を失った
  • 仮説3)民主党支持層(特に黒人)の投票率が低かった  

それぞれについて簡単に考えを書いてみます。 

仮説1)白人の支持を一層失った

改めてCNNの調査結果を見てみると白人の58%がトランプに投票しています。民主党を伝統的に支持してきたブルーワーカーが共和党に移ったのではないか、という仮説をよく聞きますが、この数値は先に紹介した白人全体に占める共和党への投票率の近年の数値からそれほど離れているわけではありません。これが真因だと言える数字かと言われるとよくわからないというのが正直なところです。

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仮説2)非白人層、特にヒスパニックの支持を失った

次に非白人層、特にヒスパニックの動きですが、上のCNNの調査をみるとヒスパニックの29%がトランプに投票しています。これは低くはありませんが、高くもない数値です。レーガンやジョージ・W・ブッシュ時代にはヒスパニックの35~40%が彼らに投票し共和党の大統領が生まれています。トランプは不法移民に対して厳しい発言を繰り返しているので、それほど高くならなかったのではないかと思います。

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(西山隆行『移民大国アメリカ』53頁)

仮説3)民主党支持層(特に黒人)の投票率が低かった 

最後に投票率です。これもCNNから数字が出ています。ただし、人種・エスニシティ別の投票率はまだ出ていないと思います。

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2008年と2016年の投票率を比較するとわかりやすいのですが、全体の投票率は63.7%から55.4%に8.3%下がっています。2008年の選挙の盛り上がりがよくわかる変化です。政党別に見ると、2008年から2016年にかけて特に民主党候補に対する投票率の低下が著しく、33.7%から26.5%へと7.2%も低下しています(共和党は2.8%の低下)。

もちろんこれだけでは、民主党の支持層がトランプに移ったのか単に投票に行かなかっただけなのかを判断することはできませんが、先に触れたオバマ時代(2008年、2012年)の黒人の投票率の高さを見ると、今回も彼らが同様の働きをしたかどうかは気になるところです。

 

3. ドナルド・トランプの勝利と「新しい世界」について

ここまではあくまで人種・エスニシティ別の投票行動という観点からトランプ勝利の要因について頭の整理をし、アメリカ政治における人種・エスニシティ要因の重要性について考えてきました。ここでは、もう少し視点を上げて、今という時代にトランプが勝ったことの意味、そしてそれがアメリカ以外も含めた様々な社会における人種・エスニシティ、そして移民の問題とどのような関係にあるか、少し考えてみたいと思います。

今回の選挙については今年6月のBrexitとの類似性を見る意見も多くありました。それは国民が参加する選挙を通じて、移民に対する取り締まりの強化や入国管理における国家主権を強調するような政治判断が示されたということにその類似を見て取るものだったと思います。また、イギリスに限らず、ヨーロッパ各国でいわゆる「極右政党」が勢力を伸ばし主流政党を脅かしている、そうした状況に対する漠然とした懸念も背景にあるのではないでしょうか。

しかし、アメリカにおけるトランプの勝利はヨーロッパで起きていることよりもさらに一歩深いところまで踏み込んでいるようにも思います。というのも、ヨーロッパにおいては、「イギリス独立党」、「フランス国民戦線」、「ドイツのための選択肢」など、あくまで主流政党の外側から勢力を伸ばす形が多いなか、アメリカではトランプが共和党を外から乗っ取るような形で主要政党のリーダーになってしまった。そしてまさか民主党のクリントンを相手に大統領選で勝ってしまった。ナイジェル・ファラージやマリーヌ・ルペンのような人間がアメリカの大統領になってしまったのです。

これまで、ヨーロッパにおける極右政党の存在はある種のガス抜き、中道右派や中道左派の政権政党にとって目の上のたんこぶではあれど、本当の意味での脅威ではないと認識されていたと思います。ガス抜き的な扱いであれば、彼らの憎悪や偏見に満ちた言葉も「一部の変わった人たちが言っていること」で済んだかもしれません。

しかし、トランプの勝利によって、私たちは本当に何が起きてもおかしくないという時代に突入したのではないでしょうか。アメリカで広がるヘイトクライムのニュースを目にするたびに、もはや過去の人々が少しずつ積み上げてきた本音と建前の境界線がぐらぐらと、しかもものすごいスピードで揺らぎ始めていることを感じます。

トランプ的な戦略は非常にシンプルで、ファラージやルペンと多くのものを共有しています。それは、グローバリゼーション下での低成長と国内格差の拡大を移民や難民のせいにすることで政治的正統性を勝ち得ようとするという戦略です。

日本の現状を見ればよく分かる通り、移民がいるかどうかにかかわらず、高度成長期の後、低成長のフェーズに入った社会を国家が十分に支えていくことは財政など様々な観点で非常に難易度が高いという現実があります。多くの先進国では同時に少子高齢化が進行し、国家が支えるべきとされる弱者の数はどんどん増えていきます。

こうした状況の中では、正攻法で人々から政治的正統性を得ることがとても難しくなります。国家を大きくして多くの人を支えようとすれば財政に大きな負担がかかり現在と未来の国民に対して大きな負担を求めざるを得ません。逆に国家を小さくして財政の負担を軽減しようとすれば多くの弱者を切り捨てることになります。

両路線ともに、国民の誰かを敵にしてしまい、選挙で勝つことが難しくなります。左右の中道政党がその中間を縫うような政策に収斂していくのはこうした事情を象徴していると思います。しかし、中間であることもまた、「わかりやすさ」や「新しさ」を欠き、世界中でマンネリ化が進行しているのではないでしょうか。

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トランプ支持者の83%は「変化をもたらせる」という資質を大統領に求めている(CNN

こうした時代背景の中で、福祉国家を維持する路線を取るにしても、新自由主義的な路線を取るにしても、人々からの政治的正統性を得るために、すなわち選挙で勝つためには、攻撃しやすい外部、あるいは現在の困難の責任を被せることができる他者の存在を仮構することが得策になってしまう、そうした時代に私たちは突入していると言えます。

これはより大きな視点で見れば民主主義の中で人権を現実的に保障することの困難にどう向き合うかという問題であり、1789年のフランス人権宣言が単に「人間の権利」ではなく、「人間と市民の権利の宣言 Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen」と二重化されていることに現れる根源的な問題にどう向き合うかという問題です。

「人間の権利」は「人間」であるだけでなく同時に「市民」でなければ与えられない。そこには「市民とは誰か」というポリティクスが発動する構造が常にすでに埋め込まれています。そしていま世界中で、民主的正統性を得るために、「市民」をより多くの「人間」に開いていく試みが無用であり、むしろ有害であるものとして忌避するような政治運動が力を得ているのです。

記事の冒頭で人種・エスニシティ・移民の問題が根本的であると述べたのにはこうした理由があります。

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「ドナルド・トランプの勝利は新しい世界をつくるためのさらなる一歩になる。」

フランス国民戦線党首のマリーヌ・ルペンがBBCのインタビューに答えてそう述べています。彼らが見ている「新しい世界」とはどんな世界なのでしょうか。そして彼らが見ている世界とは別の世界を具体的に構想することはどのようにしたら可能なのでしょうか。

いま、世界中でそのことが強く問われていると思います。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

ダライ・ラマ「私たちはみな必要とされることを必要としている」

数日前にダライ・ラマの寄稿記事がニューヨーク・タイムズ紙に載っていて、それがとても示唆深い内容だったので記事の一部を翻訳して紹介できればと思います。興味を持たれた方はぜひこちらのリンク先で全文を読んでみてください。

Dalai Lama: Behind Our Anxiety, the Fear of Being Unneeded / The New York Times

 

アメリカ、イギリス、そしてヨーロッパ大陸のいたるところで、人々は政治的フラストレーションや未来についての不安に身もだえしている。難民や移民はこれらの安全で豊かな国々で暮らす機会を要求するが、元々そうした約束の土地に住んでいた人々からは、少しずつ絶望に近づいていくように見える自分たち自身の未来についての大いなる不安の声が聴こえてくる。

なぜだろう?

ある興味深い研究から人々がどのように生きていくかということについての小さなヒントを得ることができる。研究者たちは、あるショッキングな実験の結果、自分が他者にとって有用であると感じていない年配の人々は、自分が他者にとって有用であると感じている人々に比べて3倍も早くに亡くなる可能性が高いということを発見したのだ。これはとても一般的な人間についての真実を示している:私たちはみな必要とされることを必要としているのだ。

 

他者に対して良いことをすることを優先するアメリカ人はそうでない人に比べて2倍も自分たちの人生について幸せだと言う傾向がある。ドイツでは、社会に貢献しようとする人々は社会貢献が大切だと考えない人々に比べて5倍も幸せだという傾向がある。無我と喜びは互いに絡み合っているのだ。私たちが自分自身以外の人類と一つであればあるほど、私たちは気分がいいのである。

このことは豊かな国々で痛みや憤慨が広がっていることを説明してくれる。問題は物質的な富の不足ではない。自分たちはもはや役立たずで、もはや必要とされておらず、もはや社会と一つではないと感じている人々の数がどんどん増えていることこそが問題なのである。

今日のアメリカでは、働き盛りの年齢で完全に失業している人々の数が50年前の3倍に上っている。このパターンは先進諸国で共通に起こっていることだ。そして、その帰結は経済的なものだけではない。余分であると感じることは人間の精神に対する痛烈な一撃である。それは社会的孤立と感情的な痛みをもたらす。そしてネガティブな感情が根づく条件を生み出してしまうのだ。

 

どんなイデオロギーや政党も全ての答えを持っているわけではない。あらゆる陣営から来る誤った考えは社会的排除をもたらし、それを乗り越えるためにはあらゆる陣営からの革新的な解決策を必要とする。実際、私たちのうちの二人を友情と協働のうちに結びつけるのは共有された政治や宗教ではない。それはもっとシンプルなもの、すなわち共感や人間の尊厳に対する共有された信念である。より良い、より意味のある世界に対してポジティブに貢献することができる、全ての人が持っているはずの固有の有用性に対する共有された信念である。私たちが直面している諸問題は伝統的なカテゴリーをまたがって存在している、だからこそ、私たちの対話、そして友情もそうでなくてはならないのだ。

歴史上安全や繁栄を謳歌してきた社会の中で野火のように広がる怒りやフラストレーションを見て、多くの人々が困惑し恐怖を感じている。しかし、身体的、そして物質的な安全に満足することを拒否する人々の存在こそが、それそのものによって実際に何か美しいものを現しているとも言えるのではないか。それこそが、必要とされることに対する人間の普遍的な飢えである。この飢えを癒やすことができる社会を一緒につくっていこう。 

 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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「日本が直面する『降格する貧困』」TOKYO FM「TIME LINE」出演時のコメント。

11/3にTOKYO FMの「TIME LINE」という番組に10分ほど出演させていただきました。先日のブログ記事で書いた内容に関連し、「日本が直面する『降格する貧困』」というお題で番組パーソナリティをされているちきりんさんからの質問にお答えするという内容でした。

以下のTwitterでも投稿したのですが、放送から1週間はradikoでタイムフリー視聴できます。ただ、地域や国によっては聴くことができないという声を何度かいただいたので、当日お話した内容を一部書き起こしておこうかと思います。

トークの前半では、ポーガムやその理論について先ほどのブログ記事の内容に沿って紹介しましたので、そちらを直接お読みいただければ良いかと思います。最後のパートで自分が考えていることを少しだけお話したので、その部分についてご紹介できればと思います。

↓↓↓

---ポーガムさんの講演を聴かれて、望月さんご自身としては、その理論と日本の現状を比べてみてどういう風に思われましたか?

とても面白いなと思ったんですけれども、実際に何がこの社会で起きているのかということと、この社会の中に生きている人たちが自分たちをどう認識しているのかということの間には、多分少しずれがありえて。

実際起きていることはやはりこの「降格する貧困」の形態にかなり近づいていると思うんですね。雇用も不安定化しているし、男性が正社員で奥さんを支えるというモデルも難しくなっているし、 自分でなかなか稼ぐことのできない高齢者もどんどん増えているし。

それが結果として社会保障をむしろ削っていくこと、医療に関わる必要がある人は社会のお荷物だったりとか、そういう考え方がすごい増えてきているけれども、じゃあ本当にみんながそういう風に社会を認識できているかというと、まだなんかこう「中流意識」というか、自分はまだそうじゃないし、自分は貧困じゃないしと思っているような。

ポーガム教授が言っている「降格する貧困」というのは、貧困か貧困じゃないかという問題よりも、かなり段階的に。今例えば1000万円の給料がある人でも、明日その会社が無くなってしまうかもしれないし、全然いわゆる長期雇用が保証された社会でもない中で、給与で言えば貧困じゃない人でも不安定化しているという部分を認識していくということがすごい大事なのかなという風に思うんですね。 

---安倍総理も「まだ日本は十分に豊かな国」みたいな発言をされることもあって、比較的「マージナルな貧困しか日本にはないんだ」と認識している人もまだ多いですよね。これは貧困状態にある人が分離されているというか、どこかに集中しているからなかなか見えにくいということがあるんですかね?

どういう人が潜在的に貧者になりうるかというところの認識の問題かなと思っていて。例えば貧困問題というと今お金がない人の問題だと思われがちだと思うんですけれども、この社会的降格の考え方によれば、例えば先日問題になった過労死の、若い女性の過労死の問題とか、そういったものも同じ問題なんじゃないかというふうに見えてくるような気がしていて。

今はそういう風にいつ落ちてもおかしくない人たちが、これはかなり世界的な事象でもあるような気がするんですけれども、今落ちてしまった人たちをすごいこう排斥していくというか、社会のお荷物なんだと。

---ある意味、弱者と弱者でお互い排斥しあっているという構造があるということですね 

やはり生きていくにあたって何がしか継続的な所得がない状態で生きていくことはすごい大変で。あるいは誰かがご飯を食べさせてくれる、例えば家族がとか地域がとか、昔だったら農村がとか。そういうものが本当にない中で今僕らは生まれてきていて。いつどうなるかわからない、けれどもとにかく今何百万円稼ぐというか、頑張れ頑張れってやっていると思うんですけれども。その不安は共有しているんだけれども、全然仲間だと思ってないというか。

---そうすると日本としてはまずは現状をきちんと皆が認識することが次のステップとして一番大事ですかね?

「降格」ということが段階モデルであるということをすごい理解したほうがいいと思っていて。

---つまり自分に関係がある問題なんだという風に、当事者意識を持って、今中流だと思っている人も考えなければいけないよと

みんな多分「しんどい」とは思っていると思うんですよね。だからその「しんどさ」みたいなものをちゃんと共有して、いがみ合って削り合っていくよりは、いつ落ちるかわからない状況をみんなでシェアして支え合うというマインドにならないと、多分ものすごい殺伐とした社会になってしまいそうな。

---自分は頑張っているからギリギリ踏みとどまっているけれど、落ちたやつは頑張らなかったんだろうみたいになってしまうと、自己責任論みたいになってしまうと、貧困問題もなくならないし、その人もいつ落ちてしまうかもわからないしということですね

そして、落ちた時に誰も助けてくれない社会がそこにいきなり広がっているということになってしまいます。

---今まで自分が言っていたように、みんなに「お前は頑張らなかったんだろう」と言われてしまうということですね 

ーーーーー 

以上です。ちきりんさん、番組スタッフの皆さん、貴重な機会をいただきありがとうございました。ポーガムの「社会的降格」という考え方に興味を持たれた方はぜひこちらの記事を読んでみてください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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共産主義下チェコスロバキアにおける恐怖のメカニズムとその克服。『ザ・ティーチャー』ヤン・フジェベイク監督が語ったこと

東京国際映画祭(TIFF)2016が10/25~11/3に行われていました。今日はその最終日。これまでどの映画も観に行けていなかったので、何か観たいと思っていたところ16時からチェコのヤン・フジェベイク(Jan Hřebejk)監督の『ザ・ティーチャー / The Teacher / Učitelka』が上映されることがわかったので観に行ってきました。

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国際映画祭らしく、上映後にフジェベイク監督本人とのQ&Aセッションが30分にわたってたっぷりと設けられていたので、そちらの内容も含めて書いていければと思います。

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ヤン・フジェベイク監督(IMDbより)

まずはTIFFのHP記載の監督紹介と作品解説を一読ください。

監督紹介

1967年プラハ生まれ。FAMU(プラハ芸術アカデミー映像学部)にて脚本編集と脚本を学び、在学中に制作した作品が高い評価を得た。脚本家ペトル・ヤルホフスキーと組み、長編映画の制作を手掛けるようになり、これまでに“Big Beat”“Cosy Dens”『この素晴らしき世界』(2000年米国アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品)がある。

作品解説

1980年代のチェコ。一見優しくて仕事熱心な女性教師が、新学期に生徒ひとりひとりの親の職業を聞いていく。彼女は生徒を盾に、親が職人であれば自宅の台所の修理をさせるなど、教師の立場を乱用していた。エスカレートする行為に、ついに一部の親が立ち上がったが、他の親は尻込みをする。女教師は共産党員であったから…。脚本家のペトル・ヤルホフスキーが実際に少年時代に体験した話を、現在のチェコを代表する監督のひとりであるヤン・フジェベイクが映画化した。共産主義時代の市民が実感していた恐怖が伝わると共に、マニピュレーションの恐ろしさは時代を越えて現在のどの国でも起こりうることが示される。一部の勇気ある人間が事態を打開していくカタルシスを伴う心理ドラマでもある本作で、自分のしていることの恐ろしさを自覚していない女教師を見事に演じたズザナ・マウレーリは、カルロヴィ・ヴァリ映画祭で主演女優賞を受賞した。 

とにかくこの女教師のキャラが濃すぎてひとときも目が離せない、そういう物語なんですが、この「一人のモンスターの話では済まない」ところが、この映画の魅力をいや増しています。そして、上にも書いてある通り、この話は脚本家ヤルホフスキーの体験を元にした半分実話のようなところがあって、それを知ったうえで観るとなかなか気楽に笑ってもいられない、背筋がぞくっとする感覚を覚えます。

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女教師役のズザナ・マウレーリ(東京国際映画祭HPより)

「一人のモンスターの話では済まない」とはこういうことです。 舞台は共産主義スロバキアの小学校。この女教師は、自分がチェコスロバキア共産党の役職保持者であること、そして生徒一人一人の小学校から中学校への進学について成績の恣意的な上げ下げを通じた生殺与奪権を持っていること、これらの隠微な権力を活用して生徒たちだけでなくその家族をこき使い、無理難題を押し付けます。

ここにどんな構造があるでしょうか。まず、女教師がターゲットにするのは、共産主義スロバキアの中で社会的地位が低い家族です。判事や医者などは狙わない。そこに親同士を歪み合わせる分断統治が働く一つ目の契機があります。

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IMDbより)

しかし分断のポイントはそれだけに留まりません。女教師の言う事を聞く家族とそうでない家族の間にも分断を走らせます。それは片方では試験の問題を事前に教えるという利益供与の形を取り、もう一方では言う事を聞かない生徒の成績を恣意的に引き下げ陰湿ないじめを行うという形を取ります。

こうして張り巡らされた分断の網の上では、驚くほど多くの家族が表面上女教師の味方につき、女教師の振る舞いに対する違和感を表明しようとする家族に対して、あたかも女教師の代理をするかのように自らいじめの主体となってしまいます。

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東京国際映画祭HPより)

最後に付け加えるなら「こんなことは我慢ならない」と考える家族の中にもこの分断が走ってしまう。なぜでしょうか。こういう形を取ります。女教師は弱い子どもを狙います。精神的なハラスメントを繰り返し、成績を恣意的に下げることで中学に進学できない可能性をほのめかす。

すると、母親と父親の間に亀裂が走ってしまうのです。女教師に歯向かうべきか、それとも従属すべきか。元々はともに抵抗を志向していた夫婦のうちに、我が子に対するハラスメントの痛みが、女強者に対して「子どものために」従属すべきではないかという混乱を持ち込むのです。

物語は、秘密裏に開催される親たちによる会議とともに進行していきます。そこでは、女教師に対する苦情の署名をするか否かが話し合われるのですが、会議での会話の内容、議論の結末は是非この映画を観てみてほしいと思います。先ほど少しだけ構造を説明した様々な分断の様相が非常に面白く、そしてグロテスクな形で描かれています。恐怖とはどのようなものか、そして人々はそれをどのように乗り越えていくか、とても考えさせられる結末になっています。(なかなか観られるチャンスがないかもしれませんが・・) 

上映後のQ&Aでフジェベイク監督が語ったこと

次に、上映後のQ&Aセッションに移ります。フジェベイク監督が語ったことのうち特に面白いと感じた部分を中心に紹介していきます。こういったセッションは国際映画祭の醍醐味ですね。

f:id:hirokim21:20161103204148j:image『ザ・ティーチャー』上映後にQ&Aセッションを行うフジェベイク監督

会場からの質問に入る前に、フジェベイク監督自身がこの映画で表現したかったこと、この映画を今つくったことの意図について話すところからセッションは始まりました。

  • スロバキアのローカルなテーマが海外のオーディエンスからどのような反応を受けるかとても関心がある
  • この映画では恐怖のメカニズムを見せたかった。舞台は1980年代。当時はもちろんこうした内容を現地で映像化することは不可能だった
  • 1989年に共産党体制が崩壊し、90年代は民主化の時代だった。急に自由を手に入れた社会の雰囲気の中で、こうした過去に存在した恐怖をテーマとして取り上げるのはあまりふさわしくないところがあった
  • 時代が変化し、このテーマを取り上げるにふさわしいタイミングが来たと考えこの映画をつくった
  • この物語には非常に深刻な面とユーモラスでグロテスクな側面が同居している。そこに魅力を感じている

次に会場からの質問に移っていきます。

Q. 当時はこの女教師のような存在はよくあることだったのか? 

  • こういうキャラクターはよくいたと思う
  • 逆に親がこのように集まって話し合う機会は稀だったと思う
  • 映画をつくる際にはとても特別なキャラクターが必要であるのと同時に、時代を超えて今日にも通用するテーマ性があることも大切だと思っている

Q. 学校には共産党員が一人はいるものだったのか?

  • 校長先生やその代理になるためには必須の条件だったはずだ
  • その他の教員は必ずしも共産党員である必要はなかった
  • 以上は小・中・高校の話
  • 注意が必要なのは、特に1968年に「プラハの春」が鎮圧された後に言えることだが、共産党員であるということは、共産党の教義を信じているというよりも、自らのキャリアのために入党するという側面が強まっていた

Q. 旧共産圏の観客からはどういった反応があったか?

  • チェコスロバキアは1989年に共産党体制から転換しており、それから25年以上がすでに経過している。1989年より後に生まれた世代は共産党時代を自分では体験していない
  • ドイツで第二次大戦後にヒトラー時代の経験を親が子どもにあまり話さなかった、それとと同じようなことが起きていると言えると思う
  • しかし、この映画では共産党体制の姿を描き伝えたかったというよりも、恐怖がどのように生まれるか、恐怖とはどのようなものか、そのことを伝えることが重要だと考えている

Q. 映画の最後に体制転換後の女教師の姿が出てくるが、ここに意図されていることは?(※ネタバレ気味なので少しぼやかして書いています)

  • 体制は転換したが、多くの人が新体制でも生き延びた。そのアイロニーを表現した

f:id:hirokim21:20161103220418p:plain
東京国際映画祭HPより)

Q. 先ほど「いまがこの映画をつくるのにふさわしいタイミングと考えた」と言っていたがそれはなぜか?

  • 自由の気分、雰囲気が前の時代に比べて少し減っているように思うからだ。チェコでは90年代に当時のハヴェル大統領に対して批判を言うこと、冗談であるものも含めて大統領を批判することは全く問題がなかった。ハヴェル大統領は人気もあった。
  • しかし、現在のゼマン大統領に対しては人々が多くの不満を持っているにもかかわらず、それを表明することが大きな問題になってしまう状況がある。例えば、チェコの大統領府の国旗を赤いパンツに替えた人がいたが、大きな問題になってしまった
  • (こちらの記事によると「3人は逮捕された。警察によると禁錮2年の刑に相当する可能性があるという」とある)

Q. こういった状況にある会社や学校は今の日本にも存在すると感じた。日本以外の様々な国でこういったモンスターが存在するようにも思う中で、彼らが生み出す恐怖にどう立ち向かえば良いか。声を上げること、声を上げた人にその他の人々が続くこと、その重要性を描いていると思ったのだがどうか?

  • 何に対して恐怖を感じるかは人それぞれだが、共産主義のようにある制度、システムの存在が恐怖を与えるというのは良くないことだと考えている
  • こうした恐怖に対してはいろいろな勝ち方がある。子どもがおとぎ話を読むことなどを通じてモラルの感覚を培っていくことも大事。そして、実際に恐怖に打ち勝った人々を尊重することも大切だ
  • あるいは、何かへの信仰、そして真実を信じるということもまた恐怖に打ち勝つことにつながるだろう
  • 本物の虎が目の前にいたら怖いが、人々は多くの場合本当には怖くないものを怖がっている。共産主義もそうだ。無駄に怖い思いをしないようになってほしいと思う
  • 最後に、この映画にも描いたが、共産主義の中で、親が自分の子どものことを思って、自分では本当は納得のいっていないこと、正しくないと思っていることをしてしまうことがある。しかし、子どものためというのは言い訳だ
  • 子どもはそれを見ている。そして、親を尊敬しなくなる。この映画のもう一つのテーマがこのことだった 

Q&Aの内容は以上です。フジェベイク監督の他の映画も観たくなるとても素晴らしい時間でした。東欧には素晴らしい映画監督がたくさんいますね。勇気づけられます。

↓フジェベイク監督の代表作『この素晴らしき世界』

この素晴らしき世界 [DVD]

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プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

f:id:hirokim21:20160904190326j:image
慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

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日本の賃金を歴史から考える

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現在の社会不安が語られる際には、労働の外にあったり、労働を支えたりする社会保障、社会福祉の領域に焦点が当たることが多いけれど、労働の対価たる「賃金」がいまどうなっているかということを歴史的な布置の中において理解することもとても大切で。

逆に言えば、農村のセーフティネット機能と男性正社員モデルの両方が崩壊した後の時代に、個々人の生活を長期的に支えることができる雇用・賃金の仕組みが出来上がっていないことが、社会保障への大きな期待と、結果としてそれに応えることができない国家への不満を招いている。

気を緩めると徐々に落ちていく「降格する貧困」の裏側には、賃金を通じて生活を安定化していくという考え方自体の社会的な挫折があり、それを放置したままより多くの人を労働に駆り立てても、不安定な労働者を増やすだけで物事の本質的な解決にはつながらないのではないかという危惧を強くした。

いずれにせよ、日本の雇用を歴史的な文脈に置いて理解するには必読の一冊。

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プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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日本の貧困は「降格する貧困」に近づいている。セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態』講演から。

「はしごの下にいるんだよ。それ以外におれたちが誰なのかをはっきりさせる言葉があるのか。おれたちははしごの下にいて、食うや食わず、それだけさ。おれたちのための言葉なんてない。はしごの下には工員がいて……やがて上に上がっていく。でも、おれたちは?失業者じゃない、工員じゃない、何でもない、存在しないんだよ!社会の乞食だ。それがすべてさ。何者でもないんだ!」(工場勤務歴20年以上の41歳RMI受給者の語り)

セルジュ・ポーガム『貧困の基本形態』終章の冒頭に掲げられたエピグラフ

10/22に現代フランスを代表する社会学者であり、貧困の社会学で有名なセルジュ・ポーガム教授の講演に行きました。講演のタイトルは「貧困の基本形態 日本的特殊性の有無について」となっており、今年日本語訳された『貧困の基本形態』のタイトルをそのまま掲げつつ、さらに日本の貧困についても語ることが期待されました。

日仏会館フランス事務所 | イベント・カレンダー | 貧困の基本形態日本的特殊性の有無について

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

 

非常に素晴らしい講演でしたし、ポーガム教授の考え方がもっと多くの人に知られてほしいと思ったので、講演内容をこちらの記事で共有できればと思います。自分自身の感想や考えについても、記事の最後に少しだけ述べています。

ポーガム教授を招聘され、こうした会を開いてくださった日仏会館及び関係者の皆さまに感謝します。

f:id:hirokim21:20161023184251j:image
ポーガム教授と『貧困の基本形態』

ポーガム教授の講演は以下の順序で進められました。

  1. 研究対象としての貧困の定義
  2. 社会的降格という概念
  3. 比較的アプローチ
  4. 貧困の基本形態という分析枠組でヨーロッパを見る
  5. 日本的特殊性は存在するか?

f:id:hirokim21:20161023184300j:image講演の目次

1. 研究対象としての貧困の定義 

ポーガム教授は、まず「貧困とは何か」という定義についての考えから講演をスタートしました。

f:id:hirokim21:20161023184349j:image
測定にまつわる諸問題

  • 「貧困」について考えるとき、「貧者は何人いるのか?」という数の話になりがちだが、貧困という現象を理解するということの目的は、必ずしも数を数えることだけではない
  • 貧困を数える、貧困線をどこかに定義するということは常に恣意的な作業である
  • 例えば、2005年のフランスのデータでは、貧困線を平均所得の50%以下と定義するか、それとも60%以下と定義するかによって、貧困であるとカウントされる人数が大きく異なった。50%でカウントすると360万人(人口の6%)、60%でカウントすると720万人(人口の12%)と、数にして2倍も異なったのである。しかし、50%の場合の平均所得は600ユーロ、60%の場合の平均所得は700ユーロとそれほど変わらない。こういった事例はどこかに線を引くことに伴う恣意性の存在を強く示している

f:id:hirokim21:20161023190103j:image社会的地位としての貧困

  • では、「この人は貧しい、あの人は貧しくない」ということは一体何によって定義づけられると考えるべきなのか
  • 社会学者のジンメルが1908年に「貧者」というカテゴリの定義について語ったことが参考になる
  • ジンメルはこう言った。「社会の周りの人から援助を受けているものが"貧者"である」と
  • これは、特定の人々を社会がどのように扱うのか、という点に着目した貧困の定義である。すなわち、ある社会がどのような援助のシステムを用いて、特定の人々とどのような関係を取り結ぶか、ということに注目しているわけである

f:id:hirokim21:20161023190148j:image
社会ごとに貧困が持つ意味合いは異なる

  • ここから言えることは、異なる社会ごとに貧困のカテゴリ化のあり方は異なるということだ。以下の3つのタイプがあると考えることができる
  • 1)貧者はある程度自然に発生してくるものと考える(Naturalisation)
  • 2)貧者は本人が悪いのだと考える(Culpabilisation)
  • 3)貧者はシステムの被害者だと考える(Vicitimisation)
  • このように貧者という存在が社会においてどう知覚されるかが異なるだけでなく、貧者自身の体験のあり方も社会によって異なることが重要である

2. 社会的降格という概念

ポーガム教授は続いて自身の博士論文のタイトルでもある「社会的降格」という概念と、その概念が生み出された背景について論じました。 

f:id:hirokim21:20161023190254j:imageフランスにおける初期の研究

  • 1980年代のフランスでは「新しい貧困」が問題になっていた
  • 以前より多くの人々が社会的援助を求めるようになっていた。失業し、失業保険も使い切って、さらにその先の援助を使う人々が増えていた
  • 私が社会調査を始めた頃は、毎年50%ずつ貧困支援に関わる予算が増額していた。先に述べたジンメルによる貧者の定義に従えば、それと同等のペースでフランス社会における貧者が増えていったと言うこともできる
  • 貧者に対する調査をしてわかったことは、彼らが他者から自分に対するネガティブな視線を、自分で自分自身に対して持っているということだった。 そうした調査を通じて「社会的降格」というアイデアが出てきた
  • 援助を受ける人たちは社会の外ではなく中にいる存在である。社会の中にいながらある特定の地位、他より価値が低い地位を与えられている。言うなれば社会における一番下の層、その層の存在について異常であり何とかしなくてはと社会全体が考えている層にいる存在である
  • 大事なことは、こうした社会的降格がプロセスとして起こるということである。そのプロセスは以下3つの連なりとして整理することができる
  • 1)脆弱になる
  • 2)依存する
  • 3)社会的な絆が断絶する
  • こうしたプロセスを通じて少しずつハンディキャップが蓄積していく
  • しかし、彼らは決して受け身なだけの存在ではなく、自己の境遇を何とかしようとする存在でもある
  • こうした考え方を用いてヨーロッパや世界の他の国々について分析してみてはどうだろうと考えるようになった

f:id:hirokim21:20161023205324j:image『貧困の基本形態』訳者であり、当日のモデレータを務められた川野英二大阪市立大准教授

3. 比較的アプローチ

ポーガム教授は次に自身が長年にわたって取り組んできた、貧困に関する多国間の比較分析について論じました。

f:id:hirokim21:20161023190202j:image方法論

  • ヨーロッパはその内側に非常に多様な国々を抱えており、比較分析におけるラボとしての役割を果たしている
  • 例えばドイツとギリシャには生活水準に大きな差があり、また北欧と南欧の間にも文化の差がある
  • 比較研究のために、EUのすべての国で、同じ条件下でインタビュー形式の調査を行った
  • このアプローチを活用することで、ヨーロッパだけでなく、南米やインド、日本など、世界の様々な国を比較の対象とすることができる
  • トクヴィルもかつて社会によって貧困のあり方、捉え方が違うと書いていた。富める国の貧困と貧しい国の貧困は違うということを書いていた

f:id:hirokim21:20161023190231j:image
ポーガム教授

4. 貧困の基本形態という分析枠組でヨーロッパを見る

ここからポーガム教授は「貧困の基本形態」という彼独自の分析枠組についての説明に移りました。

f:id:hirokim21:20161023190335j:image社会が貧困と持つ関係の基礎

  • ジンメルの定義を思い出すと、貧者とそれ以外の相互関係が鍵になっていた
  • それは社会による表象と貧者本人の体験の双方に関わるものである
  • そうした観点から貧困の基本形態を以下の3つに整理することができる

f:id:hirokim21:20161023190704j:image3つの貧困の基本形態

  • 1)統合された貧困
  • 2)マージナルな貧困
  • 3)降格する貧困
  • この3つが貧困の基本形態である

f:id:hirokim21:20161023190355j:image統合された貧困

ポーガム教授は3つの基本形態について「社会的表象」と「生きられた経験」という2つの側面から説明を加えていきます

  • まず統合された貧困について。この社会では、貧困は自然現象として捉えられる。社会の中で、多くの割合の人々が貧困状態にあるような社会である
  • そこでは貧困をどうにかしようという議論ではなく、むしろ経済開発を進めていこうという議論が支配的である
  • 貧者は自分たちが貧しいとは思っていない。貧者であるという負の烙印もあまりない。みんなが貧しいからむしろ社会に統合されていると感じている
  • 1835年にトクヴィルがポルトガルをそうした社会として描いている
  • 現在の南欧諸国もこうした社会であると考えられる

f:id:hirokim21:20161023190408j:imageマージナルな貧困

  • 次にマージナルな貧困について。こうした社会では、貧困は社会がなんとか戦って改善すべき対象として考えられている。貧困は自然な存在ではなく、排除していくべき対象である
  • 貧者は社会の中のほんの一部に過ぎず、社会の周辺部分にのみ存在する。マイノリティという地位、余剰的な地位を与えられている。いわば社会の残余物、社会的な問題として知覚されている

f:id:hirokim21:20161023190422j:image降格する貧困

  • 最後に降格する貧困について。経済的危機や不況の蔓延がこうした貧困の背景にある。「新しい貧困」や「社会的排除」という言葉で表現されるような状況
  • 一部の人が残余的な形で貧困状態にあるのではなく、貧困層がどんどん拡大していく社会。そこでは社会全体が不安を抱えており、自分も明日そうなるかもしれないという感覚が広がっている

f:id:hirokim21:20161023190443j:image統合された貧困の説明要因

次にポーガム教授は3つの基本形態について、経済/開発、社会の絆、社会的保護の仕組みという3種類の説明要因を用いて説明を加えていきます

  • まず統合された貧困について
  • 経済はあまり発展していない状態にあることが多く、
  • 家族的なつながりや連帯が保護の役割を果たしており、
  • 公的な社会保障、最低賃金といった仕組みは発達していない

f:id:hirokim21:20161023190500j:imageマージナルな貧困の説明要因

  • 次にマージナルな貧困について
  • 経済は発展しており完全雇用に近い状態が達成されている
  • 皆が雇用されているので、家族に助けてもらう必要が薄れている
  • 公的な社会保障システムが確立しており、貧困をなくし予防していくことが目指されている

f:id:hirokim21:20161023190508j:image降格する貧困の説明要因

  • 最後に降格する貧困について
  • 失業率が上昇し、なかなか仕事に就けない人が増えてくる。また一度仕事に就いても不安定な状況に置かれる人が増えてくる
  • 家族や近しい人が助けてくれるという社会的な絆は弱まっている
  • 公的な社会保護に支援を求める人の数が増大する

f:id:hirokim21:20161023190634j:image統合された貧困に近い国々

続いてポーガム教授はこれら3つの貧困の基本形態のそれぞれに当てはまるヨーロッパの国々を述べていきます。

  • 統合された貧困に近い状態にあるのは地中海諸国である

f:id:hirokim21:20161023190645j:imageマージナルな貧困に近い国々

  • マージナルな貧困に近いのはスカンジナビア諸国である
  • 東西統一前の西ドイツもこれに近い。西ドイツでは「貧者がいない」と考えられていた。統一後、東側の人口と一緒になって初めて自国内の貧者の存在が知覚されるようになった

f:id:hirokim21:20161023190700j:image降格する貧困に近い国々

  • 降格する貧困に近いのはイギリス、フランス、そして東西統一後のドイツである

5. 日本的特殊性は存在するか?

講演の最後に、ポーガム教授は自身の分析枠組を日本に適用し、日本における貧困の形態について論じました。

f:id:hirokim21:20161023190530j:image2つの期間

  • 日本の戦後を2つの期間に分けることが、貧困の基本形態という観点から適当だと考える
  • 高度成長期はマージナルな貧困の時代、1990~2010年代は降格する貧困の時代とそれぞれ言うことができるのではないか

f:id:hirokim21:20161023190542j:image戦後における貧困:マージナルな貧困

  • 高度成長期の貧困はマージナルな貧困であった
  • 高い経済成長率と完全雇用に近い状態。社会的保護のシステムも整備が進み、ジニ係数は非常に低い状態であった。スウェーデンよりも低い時もあるほど不平等の少ない社会だった
  • 自分の仮説では、この時代、集合的意識の中で「貧者はいない」と皆が思っていたのではないか
  • そこでは非常に特別なケースだけが貧者であると知覚されていたのではないか

f:id:hirokim21:20161023190554j:image1990~2010年代の貧困:降格する貧困

  • 1990年代以降は状況が変化し、降格する貧困の時代になっているのではないか
  • 賃金労働社会が危機に陥り、失業率が増加している。不安定雇用の割合が増え、労働市場がよりフレキシブルな形に変化している
  • 他の国々と同様、日本でもネオリベラルな政策が採用され、「再市場化」という考え方が支配的になっている
  • 貧困の存在が目に見えるようになり、ホームレスなどについても多く語られるようになる。貧困が国民の意識に入り込み、日常の一部となっている
  • 多くの日本の人たちが自分もその貧困層になってしまうのではないかと考えている

f:id:hirokim21:20161023190604j:image貧困を自己責任と見るか、被害者と見るか

  • 貧困を自己責任と見るか被害者と見るか。議論の余地のあるテーマだが、ヨーロッパ人の私から見ると、日本では「働くことは良いことだ」という「働く倫理」が強いように思われる。「貧しい人は怠け者である」という烙印を押す傾向が強いのではないか
  • 他方、ヨーロッパの国々と同様、日本にも連帯する意識もあるのではないか。従って、ある程度抑制された形ではあるが、被害者として見る意識もあるのではないか

結論

講演全体を振り返り、ポーガム教授は講演の要旨を2つの点にまとめました。

f:id:hirokim21:20161023190615j:image結論

  • 1)貧困の基本形態という分析枠組は様々な社会における貧困との関係を比較するのに役立つのではないか
  • 2)日本は今のフランスやドイツに近いと言える。マージナルな貧困から降格する貧困への変化の途上にあるのではないか

f:id:hirokim21:20161023184325j:imageポーガム教授と同時通訳の方(先日のムクウェゲ医師の講演のときと同じ方でとても素晴らしい通訳でした)

個人的な振り返り

講演の内容は以上です。一見素朴でわかったような気になってしまう「貧困」という現象をどう捉えるか、ポーガム教授が提唱する方法は貧困そのものを見るよりも、「貧者を含む社会全体が貧者との間に取り結ぶ関係のあり方を見る」というものでした。その方法論こそがポーガム教授の研究のエッセンスだと思うので、ぜひそのことがこの記事から伝わればと思います。

モデレータの川野准教授がおっしゃっていましたが、日本の貧困研究は他国に比べて進んでいるとは言えない状況のようです。講演冒頭でポーガム教授が問題提起した数的な貧困線の調査についても、日本では民主党政権時にようやく始められたばかりです。それから相対的貧困率、子どもの貧困率といったものについて具体的に議論することが可能になり、また少しずつ議論が広がり始めた段階と言えるかもしれません。

しかし、ポーガム教授のフレームワークは貧困についてさらにその一歩先を見据えるものです。日本社会は自らの内なる貧者との間にどのような関係を取り結んでいるでしょうか。生活保護や失業保険、年金といった制度的な関係だけでなく、貧者をどんな視線で見つめるか、貧者がどんな経験をしているか、深く考えたことがあるでしょうか。

世界の中で同じ時代に存在し、似たような苦境に直面していても、国や社会のあり方によって貧困のあり方は異なります。そこには必然や抗いがたい流れがあるだけではなく、今の社会のあり方を意識的に理解することを通じて変えていける部分もあるはずです。

講演後のQ&Aでポーガム教授もおっしゃっていましたが、降格する貧困への移行に伴って、中間層から脱落した人々がむしろ強い権力を求め、労働者のための政党であるはずの社会民主主義的な政権下でむしろネオリベラルな政策が推進されていく、ここ20~30年ほどの間に起きているそうした世界的な潮流の存在は明らかだと思います。

ここ日本においても時に「活躍」というポジティブな言葉の装いを伴いながら、できるだけ多くの人を労働による自立へと移行させつつ、同時にその労働のあり方自体はどんどんと不安定化していくという流れが眼前で進行しています。働き方の柔軟化、多様な働き方の推進はとても重要ですが、それが生活基盤となるはずの労働の不安定化と表裏一体だとすれば手放しで喜ぶことはできません。

いずれにせよ、ポーガム教授の診断の通り、貧者の存在はここ日本でも社会のごく一部を占める周辺的な現象、マージナルな存在であることをやめ、ホームレス、ネットカフェ難民、ワーキングプアなど様々な形をとって社会に偏在するようになっています。いま一度私たちの社会のあり方を問うきっかけとして、このタイミングでポーガム教授の言葉が聞けたことに改めて感謝したいと思います。

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

貧困の基本形態―社会的紐帯の社会学

 

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望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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(追記)その後、「降格する貧困」というテーマで11/3にTOKYO FMに出演させていただきました。その時にお話したことの一部を以下の記事にまとめていますので合わせてお読みくだされば幸いです。

児童虐待問題について福祉専門職の後輩が教えてくれたこと

昨日の朝こちらの記事を読んで何ともいたたまれない気持ちになり、「何度も保護できるチャンスがあっても保護できなかった。子どもを社会で育てるってどういうことだろうか。」というコメントを添えて投稿しました。

「バイバイ」笑顔の幼子、母は橋から落とした:朝日新聞デジタル

すると、行政で福祉専門職として働いている後輩からとても参考になる文章を送ってもらったので、ぜひシェアさせてください(本人の承諾を得ています)。現場に近い立ち位置からの貴重なコメントだと思います。

何度も保護できるチャンスがあっても保護できなかった。
死亡事例の報道でよく言われることです。

最初に念のため、申し上げておきたいのは児相が支援しているケースの99%は児相の支援により命を落とすことを防げているのであって、1%、ほんのわずかな綻びで命を落としてしまうケースばかりが報道で取り上げられ、その度に現場はプレッシャーを高め、中には心を病んでしまう職員もいるという悲しさです。
報道の性質は仕方がないのですが。
現場も当然心を痛め、真摯に検証します。公務員として子どもを守る責任をひしひしと感じ(時には自身の家庭の福祉も犠牲にしつつ…)頑張っている人が多いとは思います。
報道を責めたいわけではなく、児相が批判されるのはある程度仕方ないのです。公務員ですから。責任があります。
でも当たり前ですけど、個人の責任ではないのですよね…。仕組みの問題があります。そして、その仕組みは今回の児童福祉法改正で大きく変わりつつあります。

で、このケース、仮に保護できていたとしても、一定期間の後にお家に帰っていたと思われます。
理由は2つ、①命に関わる怪我をしていないこと、そして、②それだけ民法の家制度や親権がまだまだ強固だからです。

①は、阿呆か、と批判されるかもしれません。
ストーカー案件などでもよく警察が、何かあってからでないと動けない、と批判されます。何もない「疑い」の段階で警察が逮捕してしまえば人権問題になりますから、ある意味で当然ですよね。権力の暴走を抑止する仕組みです。
児相も似たようなもので、権限の強い警察でさえこれなのですから、福祉である児相なんて尚更です。

②かなり激しい虐待ケースでも、裁判では児相が負け、親権者が勝っている現実があります。民法の家制度を今すぐ見直すべきと言いたいわけではありませんが、難しい問題です。

仮に保護されて、親権停止や親権喪失がなされたとしても、今度は受け皿(社会的養護)の問題が出てきます。児童養護施設や里親の不足、そして、単に数的な不足だけでなく、現実に他人の子(それも虐待の影響もあって中には対応の難しい子もいます)を育てることの難しさから、施設や里親宅でのトラブルも日々起きています。
日本は海外に比べて施設9割、里親1割と施設に偏っていますので、今回、厚労省はこの里親委託率を上げると掲げています。
前述のように里親宅での難しさもありますので、単純に数を増やせばいいわけではありませんが、まずは数という考え方もありかもしれません。でもきちんと質も担保していかねばなりません。

児童福祉法の改正により児相の権限は(良し悪しは別として)どんどん強化されていきます。職員も大幅に増やされます。
それでも結局、福祉の枠組みの限界や、民法の強さによりこうした事例は悲しいことになかなかゼロにはならない気がします。
じゃあ民法を捨てて、欧米のような個人主義になれば万事解決か?というとそんな簡単な話でもありません。
結論は出ませんが、考え続けていきたいです。 

送ってもらった文章は以上です。何か正解があると訴える文章ではありません。でも、どこにどんな論点があるか、教えてくれ、考えさせてくれる文章だと思います。だから、シェアしたいと思いました。

私が以前インタビューをしていただいた際に、子どもの虐待死の事件に触れて以下のように述べたことがあります。

以前、2010年に起きた大阪二児置き去り死事件について書かれた杉山春さんのルポを読みました。アパートの一室で幼児がごはんも与えられずに放置されている。役場や福祉の人が介入できずに最悪の結果になってしまいました。近くに住んでいる人が気づいて、強く警告することができていたら…。どうしてもそう考えてしまいます。社会問題の現場は日本中にあるし、誰もが当事者になりうる。行動を一つ起こせるかどうかで人の生死を左右するような瞬間が、遠くの中東やアフリカだけではなく、日本の、自分のすぐ近くにありうるということに改めて衝撃を受けました。

一つ一つの悲劇を嘆くだけでなく、そして今の状況を前提にした罵り合い、責任のなすりつけ合いをするのでもなく。これから新たな悲劇が起きてしまう可能性を少しでも下げていくための具体的な仕組みや制度のあり方を学び、構想することができたらと改めて思いました。

現場で働いている方からこういった情報をいただけるのはとても恵まれたことです。彼らに対する最大限のリスペクトを。そして、自分自身もっともっと勉強するところから始めなければ。

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

 

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