望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

書評『数学する身体』(森田真生 著)

森田さんが本を書いた。1985年生まれ、30歳の年である。

 

数学する身体

数学する身体

 

 

森田さんは独立研究者。研究者と聞いて思い浮かべる範囲を大きくはみ出た活動をしている。本書の奥付にも"全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」など、ライブ活動を行っている"とある。

 

ライブ活動である。

 

縁あって森田さんが聴衆の前でお話するのを2度聞いたことがある。もちろん自分もその聴衆のうちの一人としてだ。森田さんのライブを2回聴いたことがある、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 

基本的には、森田さんは数学について話す。ただ、その場の雰囲気はいわゆる講演というのとは明らかに違う。数学について話しているが、やはり、ライブに近いそれになる。話している森田さん自身の身体的な感覚も、いわゆる講演をしている人たちのそれとかなり違うのではないかと思う。

 

森田さんは溌溂と話す。うろうろ動きながら、独特のリズムで話す。叩きつけるように白板にフレーズを書き込む。手でその文字をかき消して、うろうろして、別の言葉を書き込む。時折、バスドラムを鳴らすように、エンターキーを叩き、スライドを変える。会場の空気を動かす。

 

ひと言でいえば、彼はキレキレなライブをする。そんな森田さんが書いた本である。デビュー作。数学する身体と、名付けられている。

 

森田さんが愛し、大いなる影響を受けた数学、そして数学者たちについて、平明な文体で論じている。わけても、岡潔への思い入れが際立つ。

 

数学という、抽象的思惟の極みのように思える学問でさえ、有限の生を生きる人間が行ってきた。あるいは人間というカテゴリーさえおそらく不適切なのかもしれない。ひとつの場所、ひとつの時間、そしてそれらの流れの中で生まれ、朽ちていくひとつの身体が数学という所作を行う。

 

そのことの本源的な意味を、森田さんは考えているのだと思う。抽象的な思考そのものが存在するわけではない。数字や記号、図など、歴史的に発明されたさまざまな装置を介して、抽象的な思考を可能にする具体的な行為が少しずつ可能になる。思考と行為の境界線は揺らぎ続ける。

 

はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数字が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。

 

一方に数学が可能であるための前提としての発明の歴史、いわば可能性の条件としての歴史が語られている。そして、他方にその条件のなかに生まれ落ちつつ、その条件を書き換えていくひとつひとつの身体、数学者たちの生が眼差されている。

 

森田さんが本書で取り上げる歴史のひとつひとつ、そしてひとつひとつの身体について、ここで再度取り上げるような野暮はしないでおく。そもそも私の専門をはるかに越えてしまう。

 

ただ、森田さんが数学について語るときに常に見え隠れする、自己と世界の邂逅と分割についての驚き、その感覚についての彼の率直な文章を紹介したい。

 

生きることは実際、それだけで果てしない神秘である。何のためにあるのか、どこに向かっているのかわからない宇宙の片隅で、私たちは束の間の生を謳歌し、はかなく亡びる。虚無と呼ぶにはあまりにも豊穣な世界。無意味と割り切るには、あまりに強烈な生の欲動。その圧倒的に不思議な世界が、残酷なまでに淡々と、私たちを包み込んで、動き続ける。

不思議で不思議で仕方ない。この痛切な思いこそが、あらゆる学問の中心にあるはずである。

 

この本を読みながら、私は森田さんのアルバムを聴いているような感覚を覚えた。スタジオで録った音源。いくつもの曲が順序よく収録されている。

 

ライブ中はすべての歌詞を聴き取ることなどできない。そして、それでいい。聴き取れなくても感じ取れるもの、聴き取れないからこそ伝わるものがある。生のLiveはそういうものだと思う。

 

ではなぜテキストを書くのか。なぜ文章という形で伝えるのか。それは、身体の有限性を越える力をテキストが持っているからではないかと思う。

 

紙に限らず、メディア=媒体に触媒されることで、いまここにしか存在することのできない身体の有限性は潜在的に乗り越えられる。

 

ステージは常にいまここにしか存在しない。身体がいまここにしか存在しないからだ。反対に、テキストはいまここを越えることができる。

 

だからこそ、本書の読者にはぜひステージ上の森田さんを想像してみてほしい。溌剌と話す森田さんと、少しでも多くの人が出会うことを願う。

 

私も1985年生まれ、30歳の年である。森田さんとの出会いから、大きな刺激をもらった。

 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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