ケン・ローチ『わたしは、ダニエル・ブレイク』をすべての人に観てほしい。
ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(I, Daniel Blake)を二度観た。一度目は公開直後に。二度目はつい先ほど。感じたことを書いていく。
「人生は変えられる。隣の誰かを助けるだけで。」「涙と感動の最高傑作」
こうした言葉には違和感を覚える。
80歳を過ぎたケン・ローチが一度は表明した引退を撤回してまで撮りたかったことはそんなものではないと私は思う。
この映画のメッセージ、構造はとてもクリアである。図式的であるといってもいい。だが図式的であることが全くマイナスになっていない。この図式こそが現実的だと感じられるからだ。自分たちはこういう時代を生きているのだと強く突きつけられるからだ。
ケン・ローチがこの映画を撮ったのは人と人との助け合い、人と人との支え合いの美しさを伝えるためなどではない。少なくともそのためだけではない。弱い者同志が支え合う、その限界こそを彼は強く訴えているのである。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、生きていくための支え、生活を継続していくための支えを必要とする人間が、その支えを提供しうる(するとは限らない)国家との間で、自らの尊厳を維持しながら生きていくことの可能性と不可能性を描いた映画である。
人と人との支え合い、よりドライな言い方をすれば私人間の助け合い、それはあればあるほど良いものだ。ただ、それが本質的にとても脆弱で、弱い者がそれを求めることに躊躇する、申し訳ないと思う、恥を感じるものであるということも決して忘れてはならない。
最後の砦は国家である。たとえそれが憎々しい官僚主義に毒されていてもそうなのである。しかし、同時に、人はただ生きるために生きているわけではなく、尊厳の維持と公的扶助の申請とがある種のトレードオフに入っていく瞬間を見逃すこともできない。
ケン・ローチがこの映画を撮ったのは、そんな瞬間が社会の中の限られた層にとってのみの現実であることを超えて、いまや様々な年齢層、数多くの人々の生活のすぐそばまで迫ってきていると感じたからではないだろうか。
背景には、財政の論理にもとづき緊縮政策を進める国家の存在があるだろう。国家は一人の人間の命をいつ、どんな風に、どんな理由で見捨てるのか。それを知った私たちは、そのことをどのように、どんな理由で納得するのか。
民主主義の真っ只中で、私たちはそのことをどう正当化するのか。どう受け入れるのか。
ケン・ローチはパルムドールの受賞スピーチでこう語ったそうだ。
「映画にはたくさんの伝統がある。その一つは、強大な権力を持ったものに立ち向かう人々に代わって声をあげることだ。そしてこれこそが、私の映画で守り続けたいものだ。」
国家に対する権利の要求には大きく分けて自由権的な側面と請求権的な側面とがある。前者は国家の無用な行動を防ぎ、後者は国家に対して必要な行動を要求する。そして、人間の生存、その支えに関わる要求には、自由権的な側面と請求権的な側面の両方が考慮される必要がある。
金をやるから権力の言いなりになれ。金をやるから言う通りにしろ。あるいは、言う通りにしないお前にはもう金をやらない。
こうしたゲームになぜ付き合わなければいけないのか。人間の生存は権利によって保障されているはずではなかったのか。なぜ、過去の行動、過去の態度、過去のふるまいによって生存のぎりぎりの支えまで失わなければならないのか。
そして、繰り返すが、民主主義の真っ只中で、私たちはそのことをどう正当化するのか。どう受け入れるのか。
受け入れてはならない。決して屈してはならない。そう声をあげたかったからケン・ローチはこの映画を撮ったのだろう。80歳を超えてなお、引退を撤回してまでこの映画を撮ったのはそういう理由からではないか。 私はそう思う。
弱き者たちが集い、個人と個人として支え合う。それだけでは足りないのである。それはいつだって必要だし、これまで以上に必要になっているとも言える。しかし、その大切さを認識することを、本当に失ってはならないものを捨て去ってしまってもよいという決断、自分たち自身による決断へと短絡させてはならない。そこを直結させてはならない。そう彼は訴えているのではないだろうか。
私はその訴えを受け取ったし、だからこそ多くの人にこの映画を観てほしいと思った。 『わたしは、ダニエル・ブレイク』をすべての人に観てほしいというのはそういう理由からである。
プロフィール
望月優大(もちづきひろき)
慶應義塾大学法学部政治学科、
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki
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追記 170916
ブルーレイやDVDが発売開始されたので私も早速購入した。届いたらまた観返そうと思う。