望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

憲法を宙吊りにするのは誰か。シーラッハ『テロ』を読んで。

ドイツでイスラム系テロリストに飛行機がハイジャックされる。ハイジャック機は7万の観客で埋め尽くされたサッカースタジアムに向かっている。飛行機には164名の乗客が乗っており、そのそばを空対空撃墜能力を持った空軍機が飛行している。防衛大臣は最近の最高裁判決を汲んでパイロットに対して撃墜許可を出さない。空軍機のパイロット、ラース・コッホ少佐は7万と164名の命を天秤にかけ、防衛大臣の許可なくハイジャック機をミサイルで撃墜する。

テロ

テロ

 

著名な刑事事件弁護士でありながら、作家としても2009年の『犯罪』で一躍世界中に名を馳せたシーラッハによる最新作のタイトルは『テロ Terror』。コッホ少佐の有罪無罪が一般市民によって構成される参審員たちによって決定される、その過程を描いた短めの法廷劇だ。

参審制について、本書の編集部による説明書きがあったので紹介しておく。

ドイツの裁判では参審制が採用されている。参審制とは、一般市民から選ばれた参審員が職業裁判官とともに裁判を行う制度であり、犯罪事実の認定や量刑の決定の他、法律問題の判断も行う。参審員は事件ごとに選出されるのではなく、任期制となっている。また、法律用語や訴訟手続きなども日本と異なる場合がある。

一般市民から構成される参審員たちの眼前で、裁判官、被告、弁護人、検察、被害者家族、被告同僚といった様々な人間が、この出来事をそれぞれの視点で語る。劇を読む読者は一人の参審員としての立場に立たされ、自分なりに有罪、無罪の結論を出すことを迫られる。「参審員」はその定義上「一般市民」であるわけだから、『テロ』の読者であるあなたにも判断はできるだろう、いやしなければならない、そうシーラッハは迫ってくるかのようだ。

一見すると、「7万人と146人の命を天秤にかけ、7万人を救うために146人を殺害することは許されるか」という倫理的な問いがドラマの中心に据えられているようだが、そことは少しずれたところで、物語の核心に迫る論点が展開されている。論理的対決の中心を掴むには、物語に折り込まれたノンフィクション、すなわち2005年に実際に制定された航空安全法と、翌2006年にその一部が違憲であるとされた実際の経緯をある程度理解しておく必要がある。

アメリカでの9.11テロ以降、ドイツでもテロ対策という名目で様々な法的措置が検討、実施され、その一環として航空安全法が制定された。航空安全法はその一部で、ハイジャック機が武器として利用される恐れがある場合、政府が軍にハイジャック機の撃墜を命じることを認めていた。しかし、航空安全法の当該部分に対して、翌2006年に連邦憲法裁判所で違憲判決が下されており、現在では停止状態にある(より詳しくは、こちらこちらの論文を参照)。

そして、「7万人と146人の命を天秤にかけ、7万人を救うために146人を殺害することは許されるか」、この問いかけについては、フィクションたるシーラッハ『テロ』の世界においても、この現実世界の違憲判決をそのまま受けて「違憲である」、すなわち国家の最高法規たる憲法に照らして「許されない」という判決がすでに出ている、そういう設定になっているのだ。

したがって、参審員たる私たちが目撃しているこの裁判、そこでは、憲法解釈の番人たる最高裁が否を突きつけた判断に対して、「一般市民の常識感覚」が従うのか、それとも否を突きつけ返すのか、そのことが問われているのである。個人的なモラルの問題ではなく、法の支配を国家としてどこまで尊重するか、その「どこまで」が問いに付されている。

法の支配がないがしろにされるのは、"いまが「平時」ではない"と人々によって感知されるときであろう。そして、現代社会にとってテロの存在が脅威となっている理由は、メディア上の派手な見た目とは異なり、テロ行為が持つ殺人能力や破壊の規模の大きさによってではない。そうではなく、言葉の正しい意味で、テロ行為が人々の間に「恐怖」を蔓延させ、それによって人々がもつ「平時」と「戦時」の感覚を崩壊させるからだ。

平時と戦時の感覚の崩壊は、法の支配を覆す緊急事態、すなわち「例外状態」を容易に呼び出し、許容してしまう。普段は許されない「ある命とある命を天秤にかける」行為も、この緊急事態の最中に行えば英雄的な行いとなる。法を宙吊りにし、英雄をつくりあげるのは常に一般の市民たる私たちだ。国民を政府から守るための憲法、その憲法を一時的にでも宙吊りにするための正統性は私たち国民の中からしか得ることができない。

だからこそ、私たちはいま法廷でコッホ少佐の裁判を目撃しているのである。私たちのみが、お墨付きを与えることができるから、だからこそいまこの場所に召喚されているのである。物語の結末、すなわち判決文を言い渡すその場面までたどり着いたとき、私たちは自らが選ぶことができる選択の重さに震撼するだろう。私たちというのは、皮肉なことに、グローバルにつながったすべての私たちのことである。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

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