HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

見えているものを見えるようにする。

富める国の不平等。稲葉振一郎『不平等との闘い』を読んで。

一般の方で稲葉振一郎先生のことを知っている方はあまり多くないかもしれませんが、これを機にぜひ知っていただきたいと思う学者の方です。特筆すべきは、経済学、社会学、政治理論など様々な学問領域を架橋する学際性、加えて専門性を落とすことなく一般の人でも読める文章・ストーリーに転換していく構成力だと思います。

そして、最新刊『不平等との闘い ルソーからピケティまで』もそうした稲葉先生らしさが存分に発揮された快作でした。トマ・ピケティ『21世紀の資本』のベストセラーも記憶に新しいですが、近年経済学の内外で「先進国」における格差や貧困が理論的・実証的に取り組むべきテーマとして浮上しているというのです。

学問的な議論を離れても、長引く不況のなかで子どもの貧困や奨学金の返済問題、保育士・介護士の待遇問題への注目が集まったり、年金不安や生活保護へのバッシングなど、国内の経済格差、不平等に関するテーマへの関心は年々高まっているように感じます。そんななか、経済学者にとって「富める国の不平等」はどのような形で問題化されているのかを知ることには、一般的な議論を進めるうえでの論点整理という意味でも大きな意義がありそうだと本書を読んで強く感じました。

不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)

不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)

 

不平等と最底辺の底上げ

現代の話に入る前に、本書はルソーとアダム・スミスの対決を通じて、格差と経済成長をめぐる古典的かつ基本的な論点を描き出します。 簡単に言えばこういうことです。資本主義=市場経済の発展による経済成長を通じて、同じ国のなかで人びとの暮らしぶりや経済状況に大きな格差が生じてしまった。経済的にもっとも豊かな地主や資本家といった人たちと、最底辺の労働者のあいだでは、衣食住などの生活水準がいまや全く異なる。これは許されるのか否かというのがひとまずの論点になります。

簡単に言えば、『人間不平等起源論』のルソーはこれに対して否と言い、『国富論』のスミスは反対に諾と言った、というのが著者の整理になります。ただし、スミスの主張には少しニュアンスがありそうです。スミスは、国全体の経済が成長すれば、最底辺の人びとがどれだけ貧しくても構わないという立場ではありません。むしろ、経済成長の結果一国内の相対的な不平等が拡大してしまっていたとしても、それでもなお最底辺の貧困が絶対的な意味で改善していればそれはそれで良いのではないか、というのがスミスのスタンスだと言うのです。著者はこのように二人の仮想的な対決を整理し、「水準低下の異議 levelling-down objection」と呼ばれる最近の議論の原型をそこに見いだします。

仮に現行の不平等を緩和できたとして、それが所有権制度や市場経済に対する規制を通じてのものであり、しかしそれが逆に生産力の減退を引き起こしてしまっていたとしたら?とりわけ、それが富者だけではなく貧者の生活水準をも低下させるものだとしたら?「みんなで一緒に貧しくなる」という形での不平等の解消になってしまっていたら?

不平等と経済成長

次の問いに移ります。経済成長を通じて、不平等の拡大と最底辺の底上げが同時に起きるのであれば、不平等の拡大それ自体をことさらに問題視する必要がないのではないかというのが先の議論でした。しかし、近年の経済学において問われているのは、また別のことのようです。すなわち、不平等が大きいことが経済成長自体を阻害してしまうのではないか、ということです。

著者によれば、これまで「生産」と「分配」を分離して捉えてきた新古典派経済学の内部から、このような形で「分配」のあり方が「生産」に影響を与えるという新しい考え方が出てきました。資本や土地といった社会的リソースがどのように分配されていたとしても、市場を通じてそうしたリソースは効率的に活用されることで最大の経済成長が達成される、そうした考え方に対する理論的な修正の試みが生まれてきたということです。ここの理論的な説明についてはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、まだまだ学者間でも結論が出ているというわけではないようです。

現在の実証研究においては「各国の不平等度と経済成長率との間には、負の相関関係がみられる、つまり、国内的不平等が悪化すればするほど、その国の経済成長率は低くなる傾向がある」と指摘されています。その上で、前者が後者を引き起こしているのではないか、という問いが提出されています。(中略)今や「分配から生産・成長への因果関係があるのではないか、だとしたらそれはどのようなメカニズムなのか」という問いかけが活発化し、いくつかの理論モデルも構築されてきているのです。

理論的な経済学の中から、経済全体のパイを最大化するためには、そもそもの分配を平等化したほうが良い可能性がある、という視点が提示されている。これはとても興味深いことです。ともすれば「弱肉強食の資本主義と人びとの経済的平等は両立しない」と考えてしまう人も多いなかで、ここではむしろ一定の平等化が経済成長に資する可能性が経済学そのものから提示されているわけですから。

人的資本の最適な分配

不平等が経済成長を阻害する、前者が後者に負の影響を与える、経済学者たちはこの両者の間に「人的資本 human capital」という概念を挟んでものを考えているようです。より具体的に言うと、「人的資本のスピルオーバー効果(外部経済性)」に着目しているようです。

人的資本という言葉に聞き覚えがある方はあまり多くないかもしれないので補足します。人的資本は、シカゴ大学のゲーリー・ベッカーなどが中心になって唱えた概念で、労働者たる人びとが提供可能な価値の源泉になるような能力のことです。人的資本には、異なる職業ごとの個別技能もあれば、様々な職業に横断的に関るより一般的なスキルもあるでしょう。

大切なのは、スミスやマルクスの時代には、資本をもつ「資本家」と資本をもたない「労働者」という形で人びとが類型化されていたわけですが、労働者であっても「人的資本」という形で「資本」を持つことが可能であるという考え方が20世紀後半になって生まれてきたということです。

さて、上に「人的資本のスピルオーバー効果」と書きましたが、より多くの人びとがより多くの人的資本を持つことは、それらひとりひとりの個人にとっての利益になるだけでなく、経済全体の成長にとっても意味があると考えられます。読み書きそろばんのような非常に基礎的なレベルの人的資本を考えてみるとわかりやすいですが、例えば英語や基礎的なコンピュータのスキルなどもスピルオーバー効果(外部経済性)がありそうです。

さて、こうした外部経済性をもつ人的資本ですが、ほっとけば個人個人が勝手に蓄積してくれるわけではありません。一つには、人的資本を蓄積するにもお金や時間がかかるということです。そのお金を誰もが平等に持っているわけではありません。すると、そのお金を誰かから借りるか、もらうかするしかないわけですが、その問題を言い換えれば (高等) 教育の無償化や奨学金の整備といった問題に直結してきます。

貸与型の奨学金の場合、お金を貸す側の身になってみればわかる通り、家を建てるのとは異なり、担保に取ることができるものはありません(人身を担保にとることはできない)。ですから、この貸与はハイリスクであり、従って高い利率を課すことになります。借りる側から見れば、そうした高い利率を払ってまで人的資本に投資するメリットがあるかを考えるわけですが、結果的に投資したほうが高いリターンが得られたであろう人々が、デメリットのほうを高く見積もって奨学金借り入れを通じた投資を行わない可能性があります。

経済学者から見るとこうしたケースは明確に社会的損失です。そして、ここから教育の無償化によってこうしたケースを防げるメリットと、公教育化という市場介入による経済効率の悪化によるデメリットのどちらが大きいだろうか、という議論が発生する余地が出てきます。外部性がある投資については、市場への介入が功を奏する可能性があるということです。

これは議論の一部だと思いますが、平等化を通じた経済成長の促進ということのイメージを掴むにはとてもわかりやすいテーマだと思います。教育の無償化というと、社会福祉や人権的な文脈で語られることも多いですが、経済成長という観点からも正当化の可能性があるということです。

ピケティと物的資本の平等化

最後に。本書自体がピケティ『21世紀の資本』に着想を得て書かれたものということで、ピケティへの言及があります。そして、それはここまでの説明で抜け落ちていた論点にピケティが取り組んでいるからでもあります。ピケティが論じるのは「人的資本」ではなく「物的資本」の平等化という論点です。ここで物的資本と呼ばれているのは、土地を含む様々な資本のことだと考えていいでしょう。 

有名な「r>g (利子率>成長率) 」が意味するのは、ある国が近代化して一気に高度成長する一時期を除いては、成長に必要な資本の調達コストである利子率rが、それによって達成される成長率gよりも大きいという経験的事実です(重要なことに、これはピケティが過去の様々なデータを分析した経験的な法則であり、何らかのモデルにもとづいた理論ではありません)。

ピケティはかつて、人的資本に着目して、その平等化によって経済成長が促進される理論を構築していました。しかし、最近はむしろ物的資本の不平等な分配とそれが時を追うごとにどんどんと拡大していくことについて、理論というよりはまず経験的な実証のほうに重きを置いて仕事をしているそうです。その一つの集大成が『21世紀の資本』であるというわけです。

そして、ピケティは人的資本の重要性を見限ったわけではないものの、物的資本の再分配、より具体的には富裕層に対する資産課税の強化を通じた再分配を唱える立場を近年は取っています。それは、定常状態としてのr>gに再び突入した先進諸国における格差の問題を根本的に解決する方法として、物的資本の再分配を捉えているということなのでしょう。

経済理論と民主政治の交差点

ここで改めて思い起こされるのは、最初に論じたルソー対スミスの議論、すなわち格差が広がっても最底辺が底上げされていれば良いのではないか、という議論です。実践的な意味で、経済成長が鈍化したあとのほうが、一部の富裕層への富の集中と最底辺の底上げは両立しづらくなっていくように思います。

著者も指摘している通り、そこで上位1%の超富裕層を念頭に置くか、それとも上位10%の富裕層を念頭に置くかで話はだいぶ変わってきます。しかし一般的に言って、経済成長が鈍化したあとのほうが、最底辺の生活水準を底上げしていくにあたって市場での資源配分ではなく、政府を通じた再分配の必要性が強まるでしょうし、政治的な要求も強まっていくだろうという気がします。しかし、実際には企業所得への課税(法人税)や資産課税への下方圧力は強まるばかりです。

これは、理論的な問題というよりは、政治的な問題なのだろうと思います。すなわち、経済的な再分配を経済理論的に正当化するだけではなく、民主政治を通じて政治的に実現していくにはどうすればいいだろうかという問題があるだろうということです。この問題に対して、本書では経済学内部からの一つの応答としてアレシナとロドリックによる「中位投票者定理 median voter theorem」が取り上げられています。

その定理に従えば、理論的に考えて、平均所得より中位所得が低ければ低いほど、すなわち不平等の程度が大きければ大きいほど、民主的な選挙を通じて選択される再分配の程度は大きくなります。そして、平均所得より中位所得が低いということは経験的に非常に一般的な状況であるわけですから、理論的に考えれば、不平等は民主政治を通じて自然と解消される方向に向かうだろうと考えられます(ただしそれが経済的な効率性と両立しているかはまた別の話)。

しかし、ご存知のように現実は必ずしもそうなっていません。そこには、経済学が想定する通りに動かない人間社会側の理由があるだろうと思います。私が思うのは、経済学が想定するモデルにしたがって人間が動くだろうと考えることに一定の留保が常に必要なのと同じくらい、経済学が想定する通りに人間が動かない(動けない?)ことによって私たちがどの程度のデメリットを被っているのだろうかということを考える必要があるのかもしれないということです。

言い換えれば、なぜ私たちは民主政治を手にしながら、自らが当然に要求するであろうことを要求せず、現状を追認するような行動を取ってしまうのでしょうか。私自身この問いに対するシンプルな答えを持ち合わせているわけではもちろんありません。しかし「富める国の不平等」という視角によって問題化される状況をより良い方向に変革していくためにも、経済理論と民主政治の両方への理解が必要だということを改めて考えさせられました。ぜひ『不平等との闘い』読んでみてください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

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関連本〜膨れ続ける本棚から〜

稲葉先生の著作は数多いですが、その中から三冊を紹介。

経済学という教養 (ちくま文庫)

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リベラリズムの存在証明

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「公共性」論

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