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HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

見えているものを見えるようにする。

鈴木謙介氏の整理に沿ってーー経産省「次官・若手ペーパー」論(3)

社会学者の鈴木謙介氏が件のペーパーをもとに始まった議論に対してある種の総括(?)的なブログ記事を書かれていた。鈴木氏のことは昔から尊敬しており、過去に氏の著作のいくつかを読んできたのはもちろんのこと、講演を聞きにいったこともある。記事中で私のブログも紹介くださっていたので、勝手に胸をお借りする気持ちになってアンサーブログという形でまとめておきたい。

私の過去記事はこちら。

鈴木氏の趣旨は明快で、記事タイトルの「選択肢を理解する」の通りである。すなわち「どこに論点の中心があって、何が対立していて、そして僕たちに示されているのはどのような選択肢なのかということが明らかになっていない」ので、それを明らかにしようということである。

私も二本目の記事で「どこに国家観や政治思想上の大きな分岐が走っているかを正しく認識したうえで自分の思考を深めてみていただければと思う」と書いていたが、それと基本的に同趣旨だと理解している。そのうえで、鈴木氏の整理は私のそれよりメッシュが細かくなっており、加えて意味合いの異なる二種類の選択肢を別々のものとする形での整理を行っている。

では早速鈴木氏の整理を紹介する。(※上記の二種類の選択肢の区別をわかりやすくするために、以下引用中の"ーーーーー"は私が追加した。)

A.産業構造の変化に抵抗し、誰もが自由で安定した生活を得られる製造業中心の社会を維持する(従来の左派)

ーーーーー

B.産業構造の変化を不可避なものとして受け入れつつ、商品化された生活のオルタナティブを目指す

B-1.財政拡張によるセーフティーネットの拡充を目指すリベラル、リフレ左派

B-2.緊縮と規制緩和を通じて、オルタナティブな市民の支え合いを促すリバタリアン左派、サイバーアナーキスト

B-3.緊縮と規制緩和を通じて、人々の自由と自己責任が重んじられる社会を目指すリバタリアン右派、ネオリベ

B-4.大企業への規制強化と移民の権利制限を通じて、自国民の生活を第一に優先する右派・左派ナショナリスト

鈴木氏による一つめの分割"AとBのあいだ"に走っている。その分割はかつて可能であったが現在はもはや現実的に選び得ないだろうと診断された選択肢(A)と、現在の社会状況からするとこちらしか選びようがないと診断された選択肢(B)、このあいだに走っている。

次に、鈴木氏による二つめの分割"選択肢Bの内部"すなわち"B-1、B-2、B-3、B-4のあいだ"に走っている。B-1~4の一つ一つについての詳述は元のブログ記事を読んでいただくとして、私たちがいま実質的に選びうる選択肢として思いつくものが暫定的にこの4つだというのが鈴木氏の整理になる(ほかの整理もありえるという考え方)。

そこでこの理解を前提として、私の考えを以下の3つのポイントに沿って述べていく。

  • (1)ありうる選択肢の提示、それ自体の重要性
  • (2)選択肢の分類についての考え
  • (3)経産省「若手・次官ペーパー」への評価

(1)ありうる選択肢の提示、それ自体の重要性

まずもって改めての話にはなるが、複雑性が高すぎて、きちんと分節された形ではなかなかイメージしづらい社会の未来像や方向性について、人々が自分たちの選択肢として選びうるいくつかのオプションという形に情報を縮約して示すことはとても大切なことである。そして、それは「知識人」という存在がいまだに可能であるとすれば、それに期待される重要な作業のうちの一つではないだろうか。したがって、私は鈴木氏によるこうした分類作業自体とても有益だと考えるし、自分もそのことを志向して先のブログ記事2本を書いた。

(2)選択肢の分類についての考え

鈴木氏による一つめの分割、AとBのあいだの分割についてはあまり異論がない。製造業が生み出す大規模な雇用によって人々の生活を長期的に安定させるという戦略は少なくともこの国ではもはや選び得ないと考えてよいだろう。そして、文脈上、経産省はまさにこの「日の丸製造業」とともに歩んできた官庁であり、Aの選択肢が選び得ないという危機感に基づいてこそ、このペーパーが出てきたということも理解はできるわけである。

次に、二つめの分割、すなわちB内部の分割について。これについても基本的に首肯をしつつ、「別様の組み合わせもありうる」という鈴木氏の言葉を前提に、考えをさらに推し進めるためにある一つの言葉について簡単に解説を入れておきたい。「緊縮」という言葉がそれである。

私の記事でもこの言葉を用いているのだが、ネット上などでの反応を見ていると「緊縮」という言葉をめぐってその理解に混乱が生じる余地があることがわかった。そして、その理由は割とシンプルである。それは、緊縮が歳出と歳入の両面に現れうるということから来る混乱だ。

緊縮は、政府が歳出を絞ることと、税や社会保険料などを通じて歳入を増やすこと、この両面に現れうる。加えて、ややこしいことにこの歳入を増やすということについて、税や社会保険料などを通じていま生きている人々から直接お金を得ること以外に、国債を発行する、すなわち借金をすることで将来の人々からお金を得る、という選択肢も同時に存在するわけである。

言い換えるなら、政府は「現在生み出されている富」から税や社会保険料を徴収するか、「将来生み出されるはずの富」をあてにして国債を発行する。そしてそのどちらかを主な財源として歳出を行っていくわけであるが、「緊縮」という言葉が含意するニュアンスは、とくに社会的な弱者や貧者において、政府とのあいだでのお金の出入りが歳入・歳出の両面を足し合わせた際にプラスかマイナスのどちらに動くかという時間的な概念であると言える。その意味でそれは「動き」を含んだ概念であり、例えばGDP比の社会支出などで単純に線を引けるものではない。

こうした視点を踏まえたうえで、鈴木氏によるB内部の各選択肢について、それぞれざっくりとではあるが注釈を付してみた。(※それぞれの"→"以降は私が書いたものである。)

  • B-1.財政拡張によるセーフティーネットの拡充を目指すリベラル、リフレ左派
    歳出増+歳入増(ただし税・社会保険料を財源とするのではなく、国債を財源とする立場)
  • B-2.緊縮と規制緩和を通じて、オルタナティブな市民の支え合いを促すリバタリアン左派、サイバーアナーキスト
    歳出減+歳入は不明(歳出減を人々の助け合いでカバー、なお歳入については消費増税と法人減税を組み合わせるような路線が考えられる)
  • B-3.緊縮と規制緩和を通じて、人々の自由と自己責任が重んじられる社会を目指すリバタリアン右派、ネオリベ
    歳出減+歳入不明(歳出減を自己責任でカバー、なお歳入については消費増税と法人減税を組み合わせるような路線が考えられる)

  • B-4.大企業への規制強化と移民の権利制限を通じて、自国民の生活を第一に優先する右派・左派ナショナリスト
    歳出不明+歳入不明(ナショナリズム等に訴えることで、歳出を増やさずに政治的支持を調達するスタイルが現在の流行。労働規制強化等ピュアな規制以外に法人増税等も行うかどうかが歳入側の分岐点)

この注釈をもとに、私がこれまでの記事で述べてきたことと照らし合わせた内容を最後に述べておきたい。 

(3)経産省「若手・次官ペーパー」への評価

まず、鈴木氏によるこのペーパーに対する評価を振り返っておく。鈴木氏の評価は「AではなくB」と言ったことにこの資料の価値があるのではないかということであった。

今回、発端となった資料に対する反応は、おおむね「AではなくてBであるなんて言い古されたこと」だという前提から出発している。その上でB-1が大事なのにB-3とはけしからん、といった論点が挙がっているように見えるのだ。しかし、「AではなくB」というのは、それほど共有された前提だろうか。

その意見に半分は賛成しつつ、私が最初の記事「経産省「次官・若手ペーパー」に対する元同僚からの応答」を書くにあたって、このペーパーに対してきちんと反論をしておく必要があると考えた理由をあらかじめ簡単に述べておく。

私が簡単にでも反論しておこうと思った理由は、当該の資料が「AではなくB」ということを危機的なムードで伝えながら、それと同時に「BのなかではB-2かB-3しかないのだ」、ということを主張する内容になっていると感じたからである。それはB-2かB-3以外の選択肢、より具体的にはB-1に近い選択肢の存在があることを人々に対して覆い隠す効果を持っており、だからこそ、危機ではあってもB-2/3ではない別の選択肢があるということを誰かが言っておかなければならないと考えたのである。

最初の記事でもペーパーについて「これまで何度も言い古されてきた緊縮・福祉国家再編の論理であり、新しさはほとんどない」と書いたが、「B-2かB-3しかないのだ」という主張自体は実は本当にありふれている。鈴木氏が記事中でこれまでの歴史的経緯を紹介している通りである。そして、経済評論家その他の方々がそうした主張をされることにいちいち反論を書いていたらキリがないし、そんなことは実際してこなかったわけだ。

しかし、今回はその主張が行政組織内部の一官庁である経済産業省から出てきた。であればこそ、行政、あるいは政治一般というものに対しての民主的コントロールをきちんと働かせるために、先のような形で「経産省はこの道しかないと言っているが別の道もありえるのだ」ということを、あくまで選択肢を示すという意味合いにおいて、言っておく必要があると考えたわけである。

さらに言えば、上記(2)でつけた注釈にすでに明らかであるが、私はB-2とB-3の違い自体が本質的にあまり重要ではないと考えている。

経産省のペーパーでも取り入れられているが、B-2というものは一見とても美しい人々の助け合いがあれば、緊縮を受け入れてもいいかな、そう感じさせる美しさがある。しかし、冷静になるべきではないか。私たちは人々の助け合いにどこまで期待できるだろうか。それによって何人もの人が救われることはあるだろう。そして、その様子を目撃した私たちが心動かされることもあるだろう。

私自身、子どもや生活困窮者、難民の方々を支援するNPOの支援等を通じて、人間や社会がもつその可能性に賭ける気持ちを持っている。そして、だからこそ、人々の自発的な助け合い、言い換えれば「共助」というものの限界にもまた敏感でありたいと考えているのだ。国家観や政治思想上の大きな分岐が走っているのは一体どこなのか、そのことを幾度にわたって書いているのはそういう理由からである。それはB-2と3の間ではないと思うのである。

ーーーーー

以上、鈴木氏による選択肢を参考にしつつ、自分の考え方を述べてきた。ここから先はやや長いあとがきのようなものになる。論旨自体はこれより前の部分から継続している。

まず、B-4についても少しだけ触れておく。B-4はB-1とB-2/3との対立を別様に解決するウルトラCである。そして、だからこそ、世界中でこの選択肢に魅了される政治指導者と人々が現れているとも言える。トランプが大統領に選ばれた選挙のあと、ルペンのインタビューも引きながら、私は以下のように書いていた。

福祉国家を維持する路線を取るにしても、新自由主義的な路線を取るにしても、人々からの政治的正統性を得るために、すなわち選挙で勝つためには、攻撃しやすい外部、あるいは現在の困難の責任を被せることができる他者の存在を仮構することが得策になってしまう、そうした時代に私たちは突入している

「AではなくB」ということによって生ずるそもそもの困難、そしてB-1であろうがB-2/3であろうがそれに対する支持を得ることの困難、それが現在の既成政党の困難であり、私たちの民主主義の困難である。

したがって「ポピュリズム」と称されることの多いB-4型の主張を批判するにしても、それはポピュリストたちを批判するだけでは足りず、ではBのなかでどんな選択肢を構想できるのか、という問いに対して根源的な形で応えていく必要から私たちは逃れることができない。そして、その問いに応えることができないでいる限り、排外主義的装いをまとったポピュリズムの亡霊は永遠に回帰し続けるだろう。

私個人としては、B-1に近い線をどう現実的な選択肢として鍛え上げ、それに対する人々の理解と支持を集めていけるかが大切だと考えている。歳出増と歳入増の組み合わせを短期だけではなく長期的にどう実現していくか、これについてもっと考えていかなければならないし、学ばなければいけないことが多くあると思っている。

時間軸をざっくり分けるならば、短中期的には国債に依存する状態をある程度維持しつつ、子ども・現役世代に対するそれも含めた歳出増を先行させる。もちろん、パイそのものを拡大する経済成長ということは常に意識しつつ、しかし同時に経済成長を唱えることそのものが免罪符にはならないだろうとも思う。

中長期的には税・社会保険料の様々な選択肢のなかで、世界的にも担税力が低いとされる日本財政の基盤をより強固なものに変えていく必要があるだろうと思う。そして、そのためには、多くの人々のあいだにそのことがビジョンとして、一つの選択肢として、漠然とでも思い描かれていることが必要なのだ。

私たちがそのなかに生まれ、そしてことあるごとに言祝いでいる「民主主義」とは、結局のところそういうものだからである。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

関連エントリ

経産省「次官・若手ペーパー」に対するある一つの「擬似的な批判」をめぐって

先日こちらのエントリを書いたところかなり大きな反響があった。

その後、件の「次官・若手ペーパー」に対する応答が他所からもいくつかなされていたが、そのなかに渡瀬裕哉氏という方によるかなり強めの批判記事があった。この方のことは存じ上げなかったが、私とはだいぶスタンスの違う議論をされているようなので、自分の立ち位置を明確にするためにも簡単に取り上げさせていただく。(なお、今回も前回記事と同様、個人の人格に対する攻撃を行う意図は微塵もなく、議論の整理が目的であることを明記する。)

「時代遅れのエリートが作ったゴミ」発言者に訊く!若手経産官僚のペーパーに感じた違和感とは。 | 一般社団法人ユースデモクラシー推進機構

どんな方か知らない方もいらっしゃるかもしれないので、プロフィールを上記の記事より転載する。読むに、ティーパーティー運動にシンパシーのあるリバタリアン的な志向性をもった方なのであろう。

渡瀬裕哉(わたせ・ゆうや)早稲田大学招聘研究員 1981年生まれ。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。 機関投資家・ヘッジファンド等のプロフェッショナルな投資家向けの米国政治の講師として活躍。創業メンバーとして立ち上げたIT企業が一部上場企業にM&Aされてグループ会社取締役として従事。同取締役退職後、日米間のビジネスサポートに取り組み、米国共和党保守派と深い関係を有することからTokyo Tea Partyを創設。全米の保守派指導者が集うFREEPACにおいて日本人初の来賓となった。また、国内では東国原英夫氏など自治体の首長・議会選挙の政策立案・政治活動のプランニングにも関わる。主な著作は『トランプの黒幕 日本人が知らない共和党保守派の正体』(祥伝社)

結論から述べる。先の記事を一読して感じたのが、批判者(=渡瀬氏)と批判の対象(=経産省のペーパー)の立場が本質的にかなり近いのではないかという違和感であった。渡瀬氏は経産省のペーパーを「ゴミ」などと激烈な口調で批判するが、実際のところ両者の言っていることはあまり変わらないのではないか。その意味で、渡瀬氏からの批判は「効果」として(※「意図」は知らない)擬似的なそれであり、むしろペーパーの方向性に対してエールを送る「効果」すら持っているように思える。

どういう事か。私は先日の記事でこのペーパーの趣旨を「①緊縮(=財政の縮小)」と「②世代間対立(=財政の投資化)」とまとめたが、とくに①の意味で、渡瀬氏とペーパーの方向性は大いに軌を一にしているように見えるのだ。そして、渡瀬氏自身も実際のところはそう思っているようである。

考えてみれば当たり前のことなのだが、リバタリアン的な志向性を持つ方と、今回の緊縮的な意味合いの強いペーパーのスタンスが近いというのは至極当然のことである。渡瀬氏が「立場上言えない人たちは辛いだろう」と言っているのは、「役人の側から国家を縮小するような主張は難しい」という意味合いを込めてのことだろう。

実際のところ、両者の主張はとても似ている。かたや経産省のペーパーは、「「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に」と言い、渡瀬氏も同様に「問題を解決できる組織や人が解決するべきであって、問題を解決できてこなかった政府の出る幕はありません」と言っているわけである。立場の濃淡はあれど、方向性はほとんど同じではないだろうか。

で、やや復習というか、繰り返しのような形になるが、私が先日の記事で述べたことはこれら両方と全く正反対のことであって、引用すると「個人や企業、市民セクターなどが社会課題の解決主体でありうるということが、国が社会問題の最大・最終的な解決主体であるということの責任を免除することを帰結することはありえない」ということであった。

したがって、国家観や政治思想上の大きな分岐はむしろここにこそ走っていると言える。だからこそ、この分岐の場所を示すための一つの対照例として、渡瀬氏の論考を取り上げさせていただいた。

さて、この分岐のどちらに進むかを一人一人が考えるうえでのポイントに触れるような話を渡瀬氏がしていたので、最後にその点について簡単に敷衍しておきたい。まず渡瀬氏が経産省ペーパーのある種の視野狭窄を批判するくだりを引用する。「議論のスコープ」という言葉が使われている。

渡瀬 「まるで牛か何かの出荷時の品質管理みたいな物言いだなと。人生には最初から合格も100点もありません。そもそも皆が各々の人生を生きているわけです。この後に言及されている昭和型人生スゴロクですが、これはお役所や大企業の人たちの人生観であり、自営業や中小企業の人たちは最初から眼中にありません。自分達で1950年代ですら34%しかいないと試算している終身雇用の人たちの価値観を『昭和型人生スゴロク』(=自分たちは100点?)と表現するのがどうかと思いますよ。行政文書に『画一的な価値観』が『多様な価値観』に変化した云々という言葉が並んでいることが多いんですが、それは彼らが今まで『眼中になかった人々が見えるようになった』というだけです。官僚の価値観と社会設計の中で生きていない人たちは最初から存在していて、コロンブスが新大陸を『発見』したと表現しているようなものです。こんな議論のスコープで作られた文章を今更読む価値もないかなと。」

仁木 「今言われて気が付いたんですが、これ『議論のスコープ』だからスコープに入っていない『リアル』もあるわけですよね。」

ここで述べられていることは、そもそも「一般的なライフスタイル」といったものは昔から存在しておらず、昔も今も人の暮らしは多様であるということだ。さらに、そうした多様な暮らしぶりのすべてに政府が対応することは難しく、したがって政府はそのことを認めて潔く引っ込むべきだと主張しているわけである。

記事中の言葉を引用すれば「社会の中の限られた一部の人々に政府によって設計された社会システムを提供したことで、不安や不満を無くせてきたと思ってることが根本的な間違い」だという主張になる。つまり、過去と現在に関する彼なりの社会認識があり、そのうえで彼が肯定する社会と国家の関係性・あり方がイメージされているわけである。

私のスタンスを際立たせるために、ここでひとつ補助線を引く。セルジュ・ポーガムというフランスの社会学者による「貧困の基本形態」についての議論である。かつてこのブログでも取り上げて話題になったことがあった。

ポーガムが示す認識は、社会における貧困のあり方には大きく3つの形態(統合された貧困、マージナルな貧困、降格する貧困)があり、いまの欧米諸国や日本はそのうちの「降格する貧困」という形態の要素を色濃くしているということだ。

貧困の基本形態の一つとしての「降格する貧困」、それは貧者が社会のなかで「マージナル=周縁的」な存在であることをやめ、多くの人がいつ貧困状態に陥るかわからないという不安を抱えて生きているような状況を意味している。

ポーガムが来日時に日本について述べていたことを上記の記事より引用することで、その意味合いがよりわかりやすくなる。

  • 1990年代以降は状況が変化し、降格する貧困の時代になっているのではないか
  • 賃金労働社会が危機に陥り、失業率が増加している。不安定雇用の割合が増え、労働市場がよりフレキシブルな形に変化している
  • 他の国々と同様、日本でもネオリベラルな政策が採用され、「再市場化」という考え方が支配的になっている
  • 貧困の存在が目に見えるようになり、ホームレスなどについても多く語られるようになる。貧困が国民の意識に入り込み、日常の一部となっている
  • 多くの日本の人たちが自分もその貧困層になってしまうのではないかと考えている

渡瀬氏は、先に「議論のスコープ」という言葉を用いていたが、私にとっては、こうした社会の認識こそが「議論のスコープ」になる。そのうえで、こうした不安定な暮らしを生きる人々の大規模な広がりを認識しながら、政府を縮小しつつ(=緊縮)市場や非営利団体を含む民間セクターに任せる社会問題の領域を拡大するというスタンスは私としては全く承服できるものではない。それは、私がいくつかの非営利団体を熱心に支援していることと完全に両立するスタンスである。

したがって、先の記事で私が経産省のペーパーに対して反論したのと全く同じ論理の道筋に沿いながら、私は渡瀬氏による経産省のペーパーへの批判に対しても同じように反論を行うことになる。

こうした整理を踏まえることによって、経産省のペーパーをめぐる議論を眺めておられる方には、どこに国家観や政治思想上の大きな分岐が走っているかを正しく認識したうえで自分の思考を深めてみていただければと思う。現在の社会をどう認識するか、そのうえでどんな社会や国家のあり方を志向するか、そうした骨太の議論が市井の人々のあいだに広がることを願う。

ーーーーー

(追記)もう1本書きましたのでよかったらお読みください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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経産省「次官・若手ペーパー」に対する元同僚からの応答

経済産業省の「次官・若手プロジェクト」によるペーパーが話題になっていた。私自身、新卒時に同省で働いていたのだが、このペーパーの作成に私の(個人的に親しい)同期なども関わっているようだ。

不安な個人、立ちすくむ国家 〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜 平成29年5月 次官・若手プロジェクト | 産業構造審議会総会(第20回)‐配布資料 | 経済産業省

したがって、以下に述べていくことについては、このプロジェクトの参加メンバーに対する人格攻撃の意味合いをまったく持たず、このペーパーが提案する国家観及び社会像そのものに対して応答していくものである。あらかじめ述べておくが、私の意見の基調は「反論」のそれである。しかし繰り返しになるが、その目的は特定の誰かへの攻撃ではなく、政府が発表しかつ社会的に話題になっている資料について、そこでなされている議論の整理と、別の視点を提供することだけをこの文章は企図している。以上が前置きである。

さて、全65頁にわたる本ペーパーを一読し、私はその内容をどう理解したか。いろいろと書いてあるが、それほど複雑な資料ではない。根本的なメッセージは「我々はどうすれば良いか」と題された最後のパートにあるp51のスライドに集約されている。

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「社会の仕組みを新しい価値観に基づいて抜本的に組み替える」とあるが、3つのポイントを改めて書き起こす。

  1. 一律に年齢で「高齢者=弱者」とみなす社会保障をやめ、働ける限り貢献する社会へ
  2. 子どもや教育への投資を財政における最優先課題に
  3. 「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に(公共事業・サイバー空間対策など)

何が言われているか。それぞれについて、同ペーパー中にて提供されている様々なコンテクストを加味しながらわかりやすく噛み砕くとこうなる。

  1. 高齢者の数がどんどん増えるなかで、高齢者に対する社会的支出(年金、医療、介護など)が大きくなりすぎており、財政を持続不可能にしている。同時に、まだ働く能力があるにも関わらず、一定の年齢を基準に「高齢者」と認定され、それによって年金などの社会的支出の対象となっている人々が存在している。したがって、後者の人々に働いてもらうことで、高齢者に対する社会的支出の絶対量を抑制し、財政の持続可能性を高める。
  2. 社会的支出の多くは高齢者に対して支出されており、現役世代や子どもたちに対しての支出が少なすぎる。後者は将来的にペイする「投資」であり、したがって高齢者への支出を減らしてでも、現役・子ども世代への支出を増やすべきである。
  3. 「公的な課題」の増加と多様化に対して、国だけが対応するのは無理である。国が財政措置などで「公的な課題」の全てを解決しようとするのではなく、意欲と能力ある個人により多くを任せるべきだ。それが個人の生きがいにもつながる。

上記をざっくりまとめ直すとこうなる。

"高齢者の増加によって国に生活保障される「弱者」が増えすぎており、このままでは財政的にもたない。高齢者への支出を削ってでも若者に投資すべき。高齢者への対応含め、公的課題の全てを国の責任とするのは現実的ではないので、人々が国を介さず自分たちの手で解決できる領域をできるだけ広げていきたい。"

で、こういった考え方を2つにまとめるとこうなる。

①「緊縮(=財政の縮小)」

②「世代間対立(=財政の投資化)」 

このスタンス、この社会像に私は反対する。

このペーパーを読んで、私は今年の2月に少し話題になったある出来事を思い出した。それは、上野千鶴子氏が中日新聞紙上で述べた内容がきっかけとなってインターネット上で巻き起こった議論のことである。私はそのときも以下の記事で上野氏に対する反論を書いていた。

私が当時まとめた上野氏の主張は以下の通りである。

  1. 日本は今転機にある。最大の要因は人口構造の変化。
  2. 人口を維持するには自然増か社会増しかない。自然増は無理だから社会増、すなわち移民の受け入れしか方法がない。
  3. したがって、日本には次の選択肢がある。「移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。
  4. 「移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。」世界的な排外主義の流れがあり、さらに日本人は単一民族神話を信じているから多文化共生には耐えられない
  5. 結局自然増も社会像も無理だから「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。」
  6. 「日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。
  7. 日本の希望はNPOなど「協」セクターにある。様々な分野で問題解決してる。人が育ってきている。
  8. 憲法改正論議についても心配していない。 日本の市民社会は厚みがある。

経産省のペーパーには移民や外国人についての言及がなかったが、根本的な論理構造は上野氏のそれと多くを共有しているように見える。だいたい、こんな感じである。

"人口の高齢化という構造要因のなかで、(移民の受け入れも)社会民主主義的な(=福祉国家的な)再分配機能の強化も現実的ではない(むしろ再分配機能は別様にずらしつつ縮小すらすべきである)。そして、(高齢者の)労働強化と市民社会による代替が再分配の不足を埋めあわせる鍵になる。"

私個人の感想としては「よく聞く話」というものである。それに対して、最後に、私のスタンスを以下の3つにまとめておく。

①まず「財政的制約」については、現在の税制を思考停止的に前提とすべきではなく、所得税、消費税、相続税、法人税など様々な税目についての検討、加えて課税ベースの強化についてのオプションをしっかりと出していくべきである。それは財務省の仕事だというかもしれないが、そもそもこのペーパーの所管範囲は経産省のそれではない。歳出サイドだけでなく、歳入サイドについても検討・議論の範囲を広げるべきである。もちろん、税だけでなく社会保険や国債などの組み合わせ全体が議論の対象となる。議論の線としては、アトキンソン「21世紀の不平等」などを参考にしており、国家による再分配機能の縮小=新自由主義路線ではなく、再分配機能の再度の強化をこそ志向する。言葉の正しい意味で、「弱者」が増えているからである。

21世紀の不平等

21世紀の不平等

 

「制度が依存的な弱者をつくる」という考え方について。その側面があることを否定はしない。では、「制度に頼るべき弱者」と「制度に頼らなくて済む強者」、ある個人がそれらのどちらであるかについて、誰がその線を引くのか。このペーパーのスタンスは明確である。その個人が「自分自身で引く」「自分自身で選択する」のである。そして、そのことがもたらすひどく恐ろしい効果を想像してみてほしい。「一億総活躍」と「財政の持続可能性」が骨がらみになって主張されているさなか、「どんな人生の最期を迎えたいですか?」と社会から個人に対して自己決定が促されるわけである。年金を受け取ることのスティグマは強化され、「延命治療を受けたい」と口に出すことは憚られるようになるだろう。少なくとも私はそういう国にしたくない。表面的な「自己決定」が「社会からの強制」に等しくなる構造を想像するのは容易いからだ。持っている権利を社会の期待に合わせて自ら捨て去ることの恐ろしさに気づいているのは弱者の側だけであり、そして、誰しもいつかは弱者になるのである。

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③最後に、そして自分が企業からのNPO支援などに深く関わっているからこそきちんと言っておきたいのだが、「国家が担ってきた領域の個人による代替」について。個人や企業、市民セクターなどが社会課題の解決主体でありうるということが、国が社会問題の最大・最終的な解決主体であるということの責任を免除することを帰結することはありえない。前者は後者に付加されるべきものであって、代替することを想定するべきものではない。NPOセクターに限ってみても、その力がまだまだであることの根本的な要因は、よりプリミティブな意味での質の高い人材の不足と、それと強く相関する活動資金の圧倒的な不足にある。そして、国家は国家業務の外部委託や助成金などの投入という形で、NPOセクターへの最大の資金の出し手なのである。その事実を踏まえずに「公を民が担うのだ」というビジョンを掲げることは、緊縮財政の実現を通じて、結果としてのNPOセクターの縮小を招くだろう。

さて、経産省による「次官・若手ペーパー」の内容に触れてきた。ウェブ上での反応を見ると「新しい内容」と捉える向きもあるようだが、こう整理してみれば明瞭なように、これまで何度も言い古されてきた緊縮・福祉国家再編の論理であり、新しさはほとんどない。むしろ、本資料についてきちんと考察・理解しておくべきことは、このペーパーが現在の政府全体の動きとどこが同じでどこが違うかである。基本線としては「一億総活躍社会」という政府全体のスローガン及び関連する政策内容とかなりの程度呼応していると私は判断している。その意味でも新しさはほとんどないと言えるように思う。

力ある者が真面目な気持ちで危機を煽るとき、力なき者は自分の立っている地平を見失ってはならない。なぜなら、力なき者たちが自らの支えを失ったとき、彼ら=私たちが自分の指導者として誰を選ぶにいたるか。その想像力こそが、煽られた危機に臨む私たちにとっての試金石となるからである。

ーーーーー

(追記1)関連テーマでもう1本書いたのでこちらもよければご一読ください。

(追記2)さらにもう1本書きましたのでよかったらお読みください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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国連軍がムクウェゲ医師に対する24時間の人身保護を再開(英→日翻訳 ※昨日の続き)

良いニュースです。昨日、コンゴのムクウェゲ医師に対する国連軍による保護が解除されており、それによって彼の身に危険が迫っているというブログを書きました。

今日、その保護が回復されているとMONUSCO(国連コンゴ民主共和国安定化ミッション)自身からの発表があったようです。ムクウェゲ氏と彼のパンジ病院に対する24時間の保護を再開したことをMONUSCO自身が発表したということです。保護は5/15にすでに回復されているとMONUSCOは説明しています。こちらの記事です。

MONUSCO CONTINUES TO SUPPORT AND PROTECT DR. MUKWEGE

該当部分のみラフですが英→日翻訳します。

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<英→日翻訳>

パンジ財団が表明した懸念にもとづき、MONUSCOは適切な保護レベルを決定するための徹底的な安全調査を近日中に実施する。その調査に先立ち、24時間の保護のために、MONUSCOは5/15に制服組のパンジ病院への配置を再開した。そして、安全調査が完了するまで、同エリアにおけるパトロールの数を増加させる。

MONUSCOはムクウェゲ医師とパンジ病院のスタッフの安全をとても真剣に考えている。上述の手段に加えて、MONUSCOはパンジ病院の機密記録の保全についても継続して実施していく。

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<原文>

Based on concerns expressed by the Panzi foundation, MONUSCO will conduct a thorough security assessment to determine the adequate level of protection in the near future. On 15 May, MONUSCO preemptively deployed uniformed personnel to Panzi hospital for a 24h protection and will increase the number of patrols in the area until the security assessment is completed.

MONUSCO takes the security of Dr Mukwege and Panzi hospital’ staff very seriously. In addition to the above measures, MONUSCO will continue securing the confidential records of Panzi hospital.

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取り急ぎ国連からの保護再開の公式発表があって良かったです。署名がどこまで効果があったかはもちろんわかりませんが、シェアなどでご協力いただけた方に感謝いたします。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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(続報あり)「ムクウェゲ医師への保護はなくなり、彼の命は危険にさらされている」(仏→日翻訳、署名)

こちらの記事で取り上げたムクウェゲ医師の身が現在進行形で深刻な危険にさらされているようです。ノーベル賞候補にも度々あがっている偉大な人物の命がすぐに失われてしまうかもしれないという状況です。

国連軍による彼の人身保護が何らかの理由で停止されたことが理由なのですが、その保護を回復することを求める署名キャンペーンがchange.orgで立ち上がっていたので、ラフですがフランス語から日本語に翻訳しました。ムクウェゲ医師と同様に保護を解除された医師は4/14に自宅で暗殺された状態で発見されています。事態は本当に深刻です。

日本からも同サイト経由で署名に賛同できますので、以下を読んでいただきぜひ日本からもたくさんの署名を送りましょう。署名自体は本当に簡単です。すぐに終わります。

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<仏→日翻訳>

ムクウェゲ医師への保護はなくなり、彼の命は危険にさらされている

ムクウェゲ医師への保護はなくなり、彼の命は危険にさらされている。これまで4万人以上にのぼる性暴力の被害女性を治療してきたこのコンゴ人外科医は、国連軍による恒久的な保護を失った。

このテーマをめぐる状況は錯綜している。MONUSCO(国連コンゴ民主共和国安定化ミッション)は否認したが、しかしムクウェゲ氏に近い人々は、すでに彼の病院に国連軍はいないと述べた。私たちはしたがって状況が明らかにされることを求める。http://fondationpanzirdc.org/2017/05/11/communique-de-la-fondation-panzi/

医師の命は重大な危険にさらされている。パンジ病院における彼の同僚や患者たちの命も同様だ。彼の同僚であるジルド・ビャムング氏に与えられた保護もまた数週間前に解除された。そして、彼は4/14に自宅で暗殺されているのを発見されたのだ。

私たちは、私たちの共同体の全員に対して、そしてまたすべてのヒューマニストたちに対して、世界で最も偉大な平和の守護者のうちの一人への保護を維持するために、この署名にサインすることを求める。何もしないことは考えられない。このような状況のなかでもなお女性たちの生存のために自らの命を捧げる一人の人間を見ることがどんなメッセージを発するだろうか。沈黙、それは共犯である。

「私の闘いと率直さが人々を当惑させる。人々は私がコンゴの評判を汚していることを非難する。そして、強姦犯を免責しようとする腐敗した政府の邪魔をすると非難するのだ。それは私たちを当惑させる。なぜなら沈黙し行動しないことは共犯であることと同じだからである。」<女を修理する男>と呼ばれるコンゴ人の婦人科医ムクウェゲ医師はそう話した。
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<原文>
Le Dr Mukwege n'est plus protégé et risque sa vie.
Le Dr Mukwege n'est plus protégé et risque sa vie. Ce chirurgien congolais qui a déjà réparé plus de 40 000 femmes violées ne disposera plus de la protection permanente des Casques bleus de l’ONU. 

Tout ce qui entoure le sujet est flou. La MONUSCO a démenti mais les proches de Mukwege disent qu'ils n'y plus de casques bleus dans l'hopital. Nous demandons donc à ce que le sujet soit éclairci. http://fondationpanzirdc.org/2017/05/11/communique-de-la-fondation-panzi/

La vie du docteur est réellement en grand danger mais également celle de ses collègues et de ses patientes de l’hôpital de Pandzi. La protection accordée à son collègue Gildo Byamungu a été retirée il y a quelques semaines aussi et le médecin a été retrouvé assassiné à son domicile le 14 avril.

Nous demandons donc à toute notre communauté, mais aussi à tous les humanistes en général de signer cette pétition pour maintenir la protection d'un des plus grands défenseurs de la Paix. Il est impensable de ne rien faire. Quel message cela enverrait-il de voir un homme ayant dévoué sa vie à la survie des femmes perdre la sienne dans de telles conditions ? Se taire, c'est être complice.

« Mon combat et ma franchise dérangent. On m’accuse de salir la réputation du Congo et de nuire à un gouvernement corrompu qui protège l’impunité des violeurs. C’est effarant, car le silence et l’inaction valent complicité« , explique le gynécologue congolais surnommé «l’homme qui répare les femmes». Dr Mukwege

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署名はこちらのURLからできます。本当にすぐに終わりますのでぜひ。

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日本語でコンテクストがわかるものはこのブログくらいしかないと思うので、ぜひこちらのブログをシェアください。よろしくお願いします。本当に偉大な方なので、私たち一人一人にできることをしましょう。

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続報です。良かったです。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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ケン・ローチ『わたしは、ダニエル・ブレイク』をすべての人に観てほしい。

ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(I, Daniel Blake)を二度観た。一度目は公開直後に。二度目はつい先ほど。感じたことを書いていく。

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「人生は変えられる。隣の誰かを助けるだけで。」「涙と感動の最高傑作」

こうした言葉には違和感を覚える。

80歳を過ぎたケン・ローチが一度は表明した引退を撤回してまで撮りたかったことはそんなものではないと私は思う。

この映画のメッセージ、構造はとてもクリアである。図式的であるといってもいい。だが図式的であることが全くマイナスになっていない。この図式こそが現実的だと感じられるからだ。自分たちはこういう時代を生きているのだと強く突きつけられるからだ。

ケン・ローチがこの映画を撮ったのは人と人との助け合い、人と人との支え合いの美しさを伝えるためなどではない。少なくともそのためだけではない。弱い者同志が支え合う、その限界こそを彼は強く訴えているのである。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、生きていくための支え、生活を継続していくための支えを必要とする人間が、その支えを提供しうる(するとは限らない)国家との間で、自らの尊厳を維持しながら生きていくことの可能性と不可能性を描いた映画である。

人と人との支え合い、よりドライな言い方をすれば私人間の助け合い、それはあればあるほど良いものだ。ただ、それが本質的にとても脆弱で、弱い者がそれを求めることに躊躇する、申し訳ないと思う、恥を感じるものであるということも決して忘れてはならない。

最後の砦は国家である。たとえそれが憎々しい官僚主義に毒されていてもそうなのである。しかし、同時に、人はただ生きるために生きているわけではなく、尊厳の維持と公的扶助の申請とがある種のトレードオフに入っていく瞬間を見逃すこともできない。

ケン・ローチがこの映画を撮ったのは、そんな瞬間が社会の中の限られた層にとってのみの現実であることを超えて、いまや様々な年齢層、数多くの人々の生活のすぐそばまで迫ってきていると感じたからではないだろうか。

背景には、財政の論理にもとづき緊縮政策を進める国家の存在があるだろう。国家は一人の人間の命をいつ、どんな風に、どんな理由で見捨てるのか。それを知った私たちは、そのことをどのように、どんな理由で納得するのか。

民主主義の真っ只中で、私たちはそのことをどう正当化するのか。どう受け入れるのか。

ケン・ローチはパルムドールの受賞スピーチでこう語ったそうだ。

「映画にはたくさんの伝統がある。その一つは、強大な権力を持ったものに立ち向かう人々に代わって声をあげることだ。そしてこれこそが、私の映画で守り続けたいものだ。」

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国家に対する権利の要求には大きく分けて自由権的な側面と請求権的な側面とがある。前者は国家の無用な行動を防ぎ、後者は国家に対して必要な行動を要求する。そして、人間の生存、その支えに関わる要求には、自由権的な側面と請求権的な側面の両方が考慮される必要がある。

金をやるから権力の言いなりになれ。金をやるから言う通りにしろ。あるいは、言う通りにしないお前にはもう金をやらない。

こうしたゲームになぜ付き合わなければいけないのか。人間の生存は権利によって保障されているはずではなかったのか。なぜ、過去の行動、過去の態度、過去のふるまいによって生存のぎりぎりの支えまで失わなければならないのか。

そして、繰り返すが、民主主義の真っ只中で、私たちはそのことをどう正当化するのか。どう受け入れるのか。

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受け入れてはならない。決して屈してはならない。そう声をあげたかったからケン・ローチはこの映画を撮ったのだろう。80歳を超えてなお、引退を撤回してまでこの映画を撮ったのはそういう理由からではないか。 私はそう思う。

弱き者たちが集い、個人と個人として支え合う。それだけでは足りないのである。それはいつだって必要だし、これまで以上に必要になっているとも言える。しかし、その大切さを認識することを、本当に失ってはならないものを捨て去ってしまってもよいという決断、自分たち自身による決断へと短絡させてはならない。そこを直結させてはならない。そう彼は訴えているのではないだろうか。

私はその訴えを受け取ったし、だからこそ多くの人にこの映画を観てほしいと思った。 『わたしは、ダニエル・ブレイク』をすべての人に観てほしいというのはそういう理由からである。

 

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子どもをひとりぼっちにしない。「子どもの孤立」を知り直すということ。

いまの仕事を通じて支援しているPIECESというNPOがあります。一言でいうと激プッシュしています。推しています。

彼らの活動には捉えがたい素晴らしさ、この時代と呼応した価値があるのですが、出会ったときからその捉えがたさ、名状しがたさをどう言葉にするか、悩んでいました。

その悩みをそのままに書いたというか、考える過程を記したのがこの記事です。

こんな感じで始まります。

PIECESは児童精神科医の小澤いぶきさんが代表を務めるNPOで、虐待や貧困といった問題を抱える子どもたちに寄り添い、そうした子どもたちが普段の生活ではなかなか得ることができない「大人との信頼感を伴った継続的な関係性」を一つずつ構築しようとしています。

PIECESのメンバーに聞くと、その関係性は「家族」でも「友だち」でもなく、そして「先生」でも「アドバイザー」でもない。いま存在する言葉ではなかなか表現しづらい関係性だけれど、この関係性こそが、子どもたちが自分の困難とうまく付き合って生きていくために必要であるような、そういう関係性。いまはうんうん唸りながらも「伴走者」という言葉をひねり出して使ったりしているようです。

この「伴走者」が子どもと一緒に何をするかといえば、日常のたわいもない話をすること、スポーツや料理をしたり遊びに行ったりすること、勉強や恋愛の相談に乗ること、そして、こうした積み重ねを通じて困ったときに相談してもらえる関係性をつくること。困ったことというのは、勉強や恋愛のことかもしれないし、いじめのことかもしれない。妊娠のこと、親からの虐待のことなのかもしれない。自傷のこと、学校に行けないこと、家に居場所がないことかもしれません。

こうした困難に直面したとき、心を許して相談できる関係性がどんな子どもにもあるわけではありません。そして、たくさんの子どもがそうした関係性を持てないことによって、袋小路(と感じられる状況)から抜け出すことが難しくなっています。 

この文章を書いたあとも、彼らと何度も何度も話をしました。そうしてようやっとたどり着いた場所がありました。いま思えば当たり前のアイデアです。でもはっとする何かがありました。それが、彼らが取り組んでいる課題の特定であり、その課題を「子どもの孤立」と名付ける、それがひとつのきっかけになりました。

この言葉が取り立てて新しい言葉であるということではありません。インターネットで検索すればそういったテーマについて書かれた文章はたくさん見つかります。

ただ、ともすれば「子どもの貧困」という言葉が人口に広く膾炙していくなかで、少し見えづらくなっていたこと、概念として掴みづらくなっていた何かがあったのかもしれません。

言葉と言葉を対比することで何かが浮かび上がってくることがあります。そして自分が当然に知っていたであろうことを改めて知り直すということがあります。「子どもの孤立」という言葉を通じて自分はそういう体験をしたような気がしています。

子どもたちは家庭や学校、地域というある種の閉ざされた空間を生きています。そこで孤立するということは、経済的なそれを含むあらゆる困難からの脱出を難しくします。

思い出してみてください。誰もが知っているはずのあの孤立の味です。少しずつ味が違うかもしれないけれど、知らない人はいないはずです。その孤立の中に閉じ込められている子どもたちがいます。

自分ですっくとたってその閉域から這い出てこれる子どもたちばかりではないでしょう。そのときそっと寄り添える大人がいれば。そして、寄り添うだけならば自分にも、誰にだってできるかもしれない。

それが、PIECESの真ん中にあるアイデアであり、存在意義だと私は思っています。

そして、その存在意義をこの言葉に込め上げました。

子どもをひとりぼっちにしない。 

直接的には、PIECESがGoodMorning by CAMPFIREと一緒に始めたプロジェクト、様々な小規模クラウドファンディングの集まりにこの名前をつけました。

そしてそのキックオフイベントを行ったのがつい先週です。一つの門出、一つのアイデアが社会のなかに実体を持って飛び出して行く門出のイベントになったと思います。PIECESアドバイザーの湯浅さんやCAMPFIREの家入さんも駆けつけてくれました。

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教育や福祉の仕事をされている方、行政の方、学生や普通の会社員の方々が100人も集まった夜でした。そんなイベントの様子を最前列からTwitterで実況していました。

Twitterで #子どもをひとりぼっちにしない で検索してみてください。37連発の実況ツイートが見つかると思います。その中からお気に入りをいくつか紹介させてください。このブログ記事はそれでおしまいです。

「居場所が問うているもの。子どもは大人に構ってもらう時間が必要だ。大人にその時間はあるのか。」

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自分で書いたこれらの言葉とともに、これからも忘れずにいたい言葉だと思いました。

「家族」ではなくても、「他人」であっても、脆弱な状況にいる子どもや人間に対してできることがある

振り返って大事だったと肯定できる他人との関係性を私たちはいろいろなやり方でつくっていく必要があるし、つくっていくことができるはずだ

「子どもをひとりぼっちにしないプロジェクト」クラウドファンディングの特設サイトはこちら。ぜひ参加してみてください。

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