望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

『サウルの息子』とは誰か。死の大量処理という単純労働のあとで。

先週末、新宿のシネマカリテで『サウルの息子』という傑作を観た。

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描かれるのは、1944年10月のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とそこに収容されるユダヤ人たち。特にサウル・アウスランダーというハンガリー出身のユダヤ人、彼の顔が至近距離のカメラから徹底的に映し出される。サウルはゾンダーコマンドである。

ゾンダーコマンドとは、ナチスが選抜した、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のことである。(公式HPより)

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ゾンダーコマンドの労働

「同胞であるユダヤ人の屍体処理」、これだけでは伝わるものも伝わらない。彼の職場はユダヤ人を集団で殺害するガス室であり、その脇にある脱衣所であり、死体をまとめて積み上げる死体置き場であり、それらを地上に持ち上げるエレベーターであり、死体を焼却する焼却場であり、そうして産出された大量の灰をシャベルで投げ捨てる川岸である。

ゾンダーコマンドはユダヤ人である。ナチスドイツの「最終解決」は、ドイツ民族の「生存圏 Lebensraum」を確保するための手段であり、そのために敵であるユダヤ人をひとまとめにし、抹殺し、この地球上から殲滅する。ゾンダーコマンドはユダヤ人であり、この「最終解決」を末端で執行する単純労働者である。

ゾンダーコマンドたちは、複数のグループに分かれ、それぞれのリーダーに厳しく統制されている。彼らの指示に従い、ガス室の床に流れる血をたわしで洗ったり、死体を一体ずつ別の部屋まで引きずって積み上げたりする。彼らが死ぬ直前まで身にまとっていた衣服、シャワーを浴びせるからと言われて脱衣所に残していった衣服を漁って金目のものを集め、木箱に入れる。

ゾンダーコマンドの労働は、創意工夫が求められない単純労働であり、管理者の指示通りに動く監獄的な労働の世界である。それは「殺人」であるよりは有害物の「処理」であり、その処理の痕跡の抹消という処理である。およそ人間的な行為ではないように見えて、その労働は淡々と進められる。自分たちがいつ対象になるかわからない処理に携わりながら、気がふれて発狂する者もない。

言い忘れたが、ゾンダーコマンドたちのリーダーもまた、ゾンダーコマンドである。

忘却の穴と一枚の写真

一昨年にアウシュヴィッツを訪れた。ポーランドの古都クラクフからバスで行くことができる。そこで一枚の写真を見た。

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写真の下にこう書いてある。

アウシュヴィッツ2=ビルケナウ。1944年。大量殺戮の犠牲者の死体を燃やしている。ゾンダーコマンドのメンバーたちによって違法に撮影された写真。

ユダヤ人の処理業務の中心にある「なかったことにする」こと、死体の焼却。

この写真は、その「なかったことにする」ことそのものを写している。ゾンダーコマンドたちが、ゾンダーコマンドたちの労働を写した写真だ。この写真が21世紀に残っていて、それを私は見た。「なかったことにする」は失敗した。暴力を背景として計画的に配置された単純労働の綻びが、この写真を現世に残した。

自らがユダヤ人である思想家ハンナ・アーレントはこう書いている。ユダヤ人問題の「最終解決」、特にヨーロッパ各地から強制収容所への移送を指揮したアイヒマンの裁判に際してのことだ。

忘却の穴などというものは存在しない。人間のすることはすべてそれほど完璧ではないのだ。何のことはない、世界には人間が多すぎるから、完全な忘却などというものはあり得ないのである。かならず誰か一人が生き残って見て来たことを語るだろう。  

サウルの息子とは誰か

ゾンダーコマンドとしてのサウルがたまたま自らの息子が処理された状態で横たわっているのを目にした瞬間、この物語はそこから動き始める。サウルは彼をユダヤのしきたりにしたがって火葬ではなく土葬にし、ラビに祈りを捧げてもらうことを願い奔走する。

サウルの息子は死んでいる。しかし、サウルは息子をルーティン的な処理から救済し、人間的な、より正確に言えば反労働的で歴史的な文脈に埋め込もうとする。サウルは息子を焼却から救い出し土に埋めようとする。

労働的な処理と反労働的な埋葬の間で、サウルの息子は宙づりになっている。単純労働者のサウルは、この針を右側に倒そうとする。マニュアルに基づいた他者から予見可能な行為ではなく、誰からも予見できない方法で死んだ息子を救い出そうとする。どこから?忘却の穴から!ではそのとき忘却の穴とは何か?

忘却の穴などというものは存在しない、ハンナ・アーレントはそう言った。ただし、私たち人間は忘れやすい生き物であり、忘れることで人間は歴史を失う。しかし、忘れる人間になぜ歴史が可能なのだろう。アウシュヴィッツのあと、人間はなぜ働くことができるのか。労働的な処理と反労働的な埋葬の間で、私たちの生と死は宙づりになっている。単純労働者のサウルは、この針を右側に倒そうとした。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

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関連本〜膨れ続ける本棚から〜

アウシュヴィッツの生き残りレーヴィが死の直前に書いた書物。もちろんゾンダーコマンドについても詳しく記述されている。 

溺れるものと救われるもの (朝日選書)

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イタリアの思想家アガンベンによるアウシュヴィッツ論。残りのものとは何か。 

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

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アウシュヴィッツの写真をめぐって。忘却の穴。

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

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アレントが「忘却の穴」を論じたアイヒマン裁判傍聴の書。

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

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「殺す権力」と「生かす権力」のナチズムにおける交錯に関するフーコーの考察が含まれた講義録。

ミシェル・フーコー講義集成〈6〉社会は防衛しなければならない (コレージュ・ド・フランス講義1975-76)

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