望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

経産省「次官・若手ペーパー」に対するある一つの「擬似的な批判」をめぐって

先日こちらのエントリを書いたところかなり大きな反響があった。

その後、件の「次官・若手ペーパー」に対する応答が他所からもいくつかなされていたが、そのなかに渡瀬裕哉氏という方によるかなり強めの批判記事があった。この方のことは存じ上げなかったが、私とはだいぶスタンスの違う議論をされているようなので、自分の立ち位置を明確にするためにも簡単に取り上げさせていただく。(なお、今回も前回記事と同様、個人の人格に対する攻撃を行う意図は微塵もなく、議論の整理が目的であることを明記する。)

「時代遅れのエリートが作ったゴミ」発言者に訊く!若手経産官僚のペーパーに感じた違和感とは。 | 一般社団法人ユースデモクラシー推進機構

どんな方か知らない方もいらっしゃるかもしれないので、プロフィールを上記の記事より転載する。読むに、ティーパーティー運動にシンパシーのあるリバタリアン的な志向性をもった方なのであろう。

渡瀬裕哉(わたせ・ゆうや)早稲田大学招聘研究員 1981年生まれ。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。 機関投資家・ヘッジファンド等のプロフェッショナルな投資家向けの米国政治の講師として活躍。創業メンバーとして立ち上げたIT企業が一部上場企業にM&Aされてグループ会社取締役として従事。同取締役退職後、日米間のビジネスサポートに取り組み、米国共和党保守派と深い関係を有することからTokyo Tea Partyを創設。全米の保守派指導者が集うFREEPACにおいて日本人初の来賓となった。また、国内では東国原英夫氏など自治体の首長・議会選挙の政策立案・政治活動のプランニングにも関わる。主な著作は『トランプの黒幕 日本人が知らない共和党保守派の正体』(祥伝社)

結論から述べる。先の記事を一読して感じたのが、批判者(=渡瀬氏)と批判の対象(=経産省のペーパー)の立場が本質的にかなり近いのではないかという違和感であった。渡瀬氏は経産省のペーパーを「ゴミ」などと激烈な口調で批判するが、実際のところ両者の言っていることはあまり変わらないのではないか。その意味で、渡瀬氏からの批判は「効果」として(※「意図」は知らない)擬似的なそれであり、むしろペーパーの方向性に対してエールを送る「効果」すら持っているように思える。

どういう事か。私は先日の記事でこのペーパーの趣旨を「①緊縮(=財政の縮小)」と「②世代間対立(=財政の投資化)」とまとめたが、とくに①の意味で、渡瀬氏とペーパーの方向性は大いに軌を一にしているように見えるのだ。そして、渡瀬氏自身も実際のところはそう思っているようである。

考えてみれば当たり前のことなのだが、リバタリアン的な志向性を持つ方と、今回の緊縮的な意味合いの強いペーパーのスタンスが近いというのは至極当然のことである。渡瀬氏が「立場上言えない人たちは辛いだろう」と言っているのは、「役人の側から国家を縮小するような主張は難しい」という意味合いを込めてのことだろう。

実際のところ、両者の主張はとても似ている。かたや経産省のペーパーは、「「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に」と言い、渡瀬氏も同様に「問題を解決できる組織や人が解決するべきであって、問題を解決できてこなかった政府の出る幕はありません」と言っているわけである。立場の濃淡はあれど、方向性はほとんど同じではないだろうか。

で、やや復習というか、繰り返しのような形になるが、私が先日の記事で述べたことはこれら両方と全く正反対のことであって、引用すると「個人や企業、市民セクターなどが社会課題の解決主体でありうるということが、国が社会問題の最大・最終的な解決主体であるということの責任を免除することを帰結することはありえない」ということであった。

したがって、国家観や政治思想上の大きな分岐はむしろここにこそ走っていると言える。だからこそ、この分岐の場所を示すための一つの対照例として、渡瀬氏の論考を取り上げさせていただいた。

さて、この分岐のどちらに進むかを一人一人が考えるうえでのポイントに触れるような話を渡瀬氏がしていたので、最後にその点について簡単に敷衍しておきたい。まず渡瀬氏が経産省ペーパーのある種の視野狭窄を批判するくだりを引用する。「議論のスコープ」という言葉が使われている。

渡瀬 「まるで牛か何かの出荷時の品質管理みたいな物言いだなと。人生には最初から合格も100点もありません。そもそも皆が各々の人生を生きているわけです。この後に言及されている昭和型人生スゴロクですが、これはお役所や大企業の人たちの人生観であり、自営業や中小企業の人たちは最初から眼中にありません。自分達で1950年代ですら34%しかいないと試算している終身雇用の人たちの価値観を『昭和型人生スゴロク』(=自分たちは100点?)と表現するのがどうかと思いますよ。行政文書に『画一的な価値観』が『多様な価値観』に変化した云々という言葉が並んでいることが多いんですが、それは彼らが今まで『眼中になかった人々が見えるようになった』というだけです。官僚の価値観と社会設計の中で生きていない人たちは最初から存在していて、コロンブスが新大陸を『発見』したと表現しているようなものです。こんな議論のスコープで作られた文章を今更読む価値もないかなと。」

仁木 「今言われて気が付いたんですが、これ『議論のスコープ』だからスコープに入っていない『リアル』もあるわけですよね。」

ここで述べられていることは、そもそも「一般的なライフスタイル」といったものは昔から存在しておらず、昔も今も人の暮らしは多様であるということだ。さらに、そうした多様な暮らしぶりのすべてに政府が対応することは難しく、したがって政府はそのことを認めて潔く引っ込むべきだと主張しているわけである。

記事中の言葉を引用すれば「社会の中の限られた一部の人々に政府によって設計された社会システムを提供したことで、不安や不満を無くせてきたと思ってることが根本的な間違い」だという主張になる。つまり、過去と現在に関する彼なりの社会認識があり、そのうえで彼が肯定する社会と国家の関係性・あり方がイメージされているわけである。

私のスタンスを際立たせるために、ここでひとつ補助線を引く。セルジュ・ポーガムというフランスの社会学者による「貧困の基本形態」についての議論である。かつてこのブログでも取り上げて話題になったことがあった。

ポーガムが示す認識は、社会における貧困のあり方には大きく3つの形態(統合された貧困、マージナルな貧困、降格する貧困)があり、いまの欧米諸国や日本はそのうちの「降格する貧困」という形態の要素を色濃くしているということだ。

貧困の基本形態の一つとしての「降格する貧困」、それは貧者が社会のなかで「マージナル=周縁的」な存在であることをやめ、多くの人がいつ貧困状態に陥るかわからないという不安を抱えて生きているような状況を意味している。

ポーガムが来日時に日本について述べていたことを上記の記事より引用することで、その意味合いがよりわかりやすくなる。

  • 1990年代以降は状況が変化し、降格する貧困の時代になっているのではないか
  • 賃金労働社会が危機に陥り、失業率が増加している。不安定雇用の割合が増え、労働市場がよりフレキシブルな形に変化している
  • 他の国々と同様、日本でもネオリベラルな政策が採用され、「再市場化」という考え方が支配的になっている
  • 貧困の存在が目に見えるようになり、ホームレスなどについても多く語られるようになる。貧困が国民の意識に入り込み、日常の一部となっている
  • 多くの日本の人たちが自分もその貧困層になってしまうのではないかと考えている

渡瀬氏は、先に「議論のスコープ」という言葉を用いていたが、私にとっては、こうした社会の認識こそが「議論のスコープ」になる。そのうえで、こうした不安定な暮らしを生きる人々の大規模な広がりを認識しながら、政府を縮小しつつ(=緊縮)市場や非営利団体を含む民間セクターに任せる社会問題の領域を拡大するというスタンスは私としては全く承服できるものではない。それは、私がいくつかの非営利団体を熱心に支援していることと完全に両立するスタンスである。

したがって、先の記事で私が経産省のペーパーに対して反論したのと全く同じ論理の道筋に沿いながら、私は渡瀬氏による経産省のペーパーへの批判に対しても同じように反論を行うことになる。

こうした整理を踏まえることによって、経産省のペーパーをめぐる議論を眺めておられる方には、どこに国家観や政治思想上の大きな分岐が走っているかを正しく認識したうえで自分の思考を深めてみていただければと思う。現在の社会をどう認識するか、そのうえでどんな社会や国家のあり方を志向するか、そうした骨太の議論が市井の人々のあいだに広がることを願う。

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(追記)もう1本書きましたのでよかったらお読みください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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