私たちが寛容であるためのヒント。映画『みんなの学校』上映会の前に。
2月17日の夜に『みんなの学校』という大阪市立大空小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画の上映会をします。
この上映会は、私が取り組んでいる社会貢献プログラム(SmartNews ATLAS Program)の一環である「社会の子ども」というイベントの第3回です。当日は大阪から真鍋俊永監督もお越しくださいます。
2015年に公開されたこの映画を観て、いま私が考えていることを少し書いてみたいと思います。人が人に寛容であるということについてです。2017年のいまだからこそ、このことを考えてみることの意味があると思っています。
その前に、話の映画のあらすじを紹介します(公式HPより引用)。
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"すべての子供に居場所がある学校を作りたい。
大空小学校がめざすのは、「不登校ゼロ」。ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で学びます。ふつうの公立小学校ですが、開校から6年間、児童と教職員だけでなく、保護者や地域の人もいっしょになって、誰もが通い続けることができる学校を作りあげてきました。
学校が変われば、地域が変わる。そして、社会が変わっていく。
すぐに教室を飛び出してしまう子も、つい友達に暴力をふるってしまう子も、みんなで見守ります。あるとき、「あの子が行くなら大空には行きたくない」と噂される子が入学しました。「じゃあ、そんな子はどこへ行くの? そんな子が安心して来られるのが地域の学校のはず」と木村泰子校長。やがて彼は、この学び舎で居場所をみつけ、春には卒業式を迎えます。いまでは、他の学校へ通えなくなった子が次々と大空小学校に転校してくるようになりました。"
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大空小学校が有名なのには2つの理由があります。特別支援の対象となる子どもが全校生徒に占める割合がとても高いこと(220人中30人以上)、そして特別支援の子どもがそうでない子どもと同じ教室で一緒に時間を過ごしていること、この2つです。
このことを知っていた私は、映画を観始めるときに無意識にこんなふうに考えていました。
"この映画は先生や一般の生徒たちが特別支援の生徒たちに対して寛容であろうとする姿を映しているのだろう。"
映画を観終わってわかるのは、この思い込みにはとても大きな間違いがいくつか含まれていたということです。私の学びを3つだけ共有させてください。
① 寛容であることは、自分をコントロールできるということ。
② 大人も子どもも、特別支援の子どもも、みんなそれができない。
③ 寛容な社会は寛容な個人を勇気づける。寛容は蓄積し、育っていく。
① 寛容であることは、自分をコントロールできるということ。
「寛容」という言葉を考えるとき、そこではいつもある人とある人との関係性やふるまいを念頭に浮かべてしまうと思います。しかし、この映画を観て考えたのは、自分の振る舞いを制御することの難しさが寛容であることの難しさの根源にあるのではないかということです。
具体的にはどういうことか。むしゃくしゃして大きな声を出してしまう、蹴ってしまう、殴ってしまう、殴られたから殴ってしまう、認めたいのに認められない、謝りたいのに謝ることができない。
映画を観ている側としては、「素直に謝ってしまえばいいのに・・」と思うところでも本人にはもちろんそうできない。そこで謝ることほど難しいことはない。その場にいる人間にとってはその感覚が現実です。
他者に対して寛容であるということは自分の振る舞いを制御できるということ、他者に対してどう振る舞うかということと自己に対してどう振る舞うかということとを切り離すことはできない、そういうことなのだろうと思います。
② 大人も子どもも、特別支援の子どもも、みんなそれができない。
そして、この自分の行動を制御することの難しさは決して子どもだけの話ではない、そのこともこの映画を観てよくわかったことです。座親先生という若い新任の先生が出てきます。映画のなかでの彼の振る舞いを見て、彼の苦悩を見て、何も感じない人はいないはずです。
ただ、これは「若い」「新任」の先生の話だけではありません。「未熟」な若者だけの話ではないのです。校長先生もそう、ベテランの先生たちもそうです。彼らがそれぞれに寛容であろうとして、自分自身の気持ちやふるまいをコントロールしようとして、失敗して、苦しんでいる様子はストーリーの端々に出てきます。
そして、寛容の対象でしかないと勘違いしてしまいがちな特別支援の子どもたちも同じです。彼ら自身が、他者とどのように同じ空間と時間を過ごしていけるか、そのことに葛藤する当事者です。学校に行く、暴力を振るわない、その難しさに一人一人の子どもが直面する。そして、自分と向き合って乗り越えていこうとする。
でも、簡単ではない。どうすれば一人一人がこの難しさから逃げずに向き合い続けることができるのか、私が得たヒントについて最後に書いておきたいと思います。
③ 寛容な社会は寛容な個人を勇気づける。寛容は蓄積し、育っていく。
結論を先に書いてしまいます。大空小学校は、個人としてではなく、集団として、社会としてこの「寛容」という人類永遠の課題に取り組んでいると思いました。
人に優しくあろうとする、頼まれてもいないのに助ける、まず自分から謝る、そうしようとする個人にとっては二つの種類のつらさがあります。
一つは、これまで書いてきたことです。寛容に振る舞えない。それが正しいとわかっていてもいまそう振る舞うことがとても難しい、つい殴ってしまう、大声を出してしまう、逃げてしまう、こういう種類の難しさ、つらさがあります。
もう一つは寛容の相手が自分の寛容を尊重しない、評価しない、少なくとも自分にはそのように見える、というつらさです。本質的に、寛容はギブアンドテイクではない。得られる利得がわかっているから手渡すギフトではありません。
「相手がどう反応しようと自分はこのように振る舞うのだ」そんな風に凛とした姿勢で振る舞うことです。難しい。当たり前ですね。そして、これが一つめのつらさに跳ね返って来ます。だから、寛容は難しい。
そして、だから大空小学校はすごい。どう考えても難しいから、それに挑戦し続け、ときにやってのける集団はすごいのです。「寛容な社会は寛容な個人を勇気づける。寛容は蓄積し、育っていく。」と書きました。私はそのことが大空小学校で起こっているのだと感じています。具体的なことはここでは書ききれません。だから大空小学校が実際にどんなふうであるか、ぜひ映画を観ていただけたら嬉しく思います。
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プロフィール
望月優大(もちづきひろき)
慶應義塾大学法学部政治学科、
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