書評『ユマニチュード入門』
読まねば読まねばと思っていたこの本、ようやく読むことができた。フランスで看護・介護の分野に関わり、「ユマニチュード Humanitude」という技法、そして哲学を生み出したイヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏による本である。日本への紹介者である本田美和子氏との共著という形を取っている。
すでにとても著名な本でもあり、やはりというか、素晴らしい内容だった。内容をご存知の方にとっては今さらになってしまうかもしれないし、介護や看護の現場に疎いということへの引け目もあるが、あくまでこの本を読んだ現時点での私の感想ということで、簡単にまとめておこうと思う。
この本が訴えていることは、認知機能や身体機能が弱った高齢の方たちも人間らしく扱われるべきであるということ、そしてそれは彼らがユマニチュードと呼ぶ技法を用いれば可能であるということ、この2つである。
この主張は、ますます高齢化が進み、施設や家庭での介護を受ける人の数が増えていく時代を生きる私たちにとって、明らかにとても重要な意味を含んでいる。著者たちは「人間のための獣医」になってはいけない主張するが、果たしてそんなことが本当に可能なのだろうか。
人間の、動物の部分である基本的欲求に関してのみケアを行う人は「人間を専門とする獣医」です。人にケアをするにあたって、自分が獣医でありたいと願う人は多くはないでしょう。人間の特性に対してケアを行うことによって初めて、「人間を専門とする獣医」ではなく「人のためにケアをする人」になることができます。(p32-33)
この「人間の特性に対してケアを行う」ということこそがユマニチュードの根幹にあるのだが、それは次の4つの要素をその柱としている。
ユマニチュードの4つの柱(p41)
- 見る
- 話す
- 触れる
- 立つ
この4つである。私自身は現場に関する知識に乏しいが、本書の説明によると、現実の介護や看護の現場では、さまざまな理由や経緯からユマニチュードの主張と反対のことが行われていることも多いという。一つの象徴となっているのが、著者たちが「抑制」と呼ぶ状態、すなわちベッドやいすに縛り付けられた状態のことである。これは、転倒や徘徊のリスクを鑑みて、また介護業務を効率的に行うために、「仕方なく」「ほかにしようがなく」なされていることが多いのだという。
しかしながら、それによって運動機能や認知機能はみるみる低下し、悪いスパイラルに入ってしまうのも事実だ。例えば、本書では「ベッド上安静は1週間で20%の筋力低下をきたし、5週間では筋力の50%を奪ってしまいます」(p.22)と述べられている。「仕方なく」実施されている抑制には、それに伴うさまざまな害があるということだ。
抑制の害(p30)
著者たちが訴えるのは、ユマニチュードの技法を取り入れることで、抑制なしに介護や看護をすることが可能になるだけでなく、ケアを受ける側、そしてケアをする側の両方の尊厳や満足感を高めることも可能になるということである。
見る、話す、触れる、立つ、それぞれに関わる技法についてこの記事で一つずつ触れることはできないので、ここでは「話す」に関わる「オートフィードバック」という技法を紹介する。ユマニチュードが技法であるということの意味をとてもよく伝える技法だと思ったからである。どういうことか。
ユマニチュードの哲学の本質は「あなたのことを、わたしは大切に思っています」と伝えること、すなわち「人間を人間らしく扱うということ」と「自分と他者とのあいだに人間らしい絆を構築しようと務めること」、ここにその本質がある。しかし、認知機能が低下した高齢者のケアをする介護者が直面するのは、例えば「話しかけても返事がない」という事態だったりする。
話しかけても返事がないのに相手に対して話しかけ続けるのはふつうに考えてとても難しいことだ。単純に間が悪いし、そんなことをしても意味がないと感じてしまうかもしれない。しかし、話しかけなくなることによって(そしてそれは見なくなることと同じなのだが)、その非-行為が「あなたは存在していない」というメッセージを相手に発することと同じ効果をもってしまう、そう著者たちは主張する。
そして、それはユマニチュードの哲学に反する。そこで彼らはこの「オートフィードバック」という技法を編み出したのだ。
ケアには、どんな形であれ、その場で行なっている行為が必ず存在します。その行為そのものを言葉にしてみたらどうか。(中略)自分たちがいま実施しているケアの内容を「ケアを受ける人へのメッセージ」と考え、その実況中継を行うのです。
そのとき同時に、ポジティブな言葉、つまりケアを受ける人との良好な人間関係を築くための言葉もそこに添えます。「温かいタオルを持ってきました」「肌がきれいですね」「気持ちいいですか?」といった具合です。(中略)
オートフィードバックによって、無言になりがちなケアの場に言葉をあふれさせることができます。これによって反応が少ない、あるいは反応してくれない人でも、言葉によるコミュニケーションの時間を7〜8倍に延ばせます。(p.57-59)
私はこのパートを読んでとても面白いと思った。というのは、こうした問題はなにも介護の現場に限られたことではなく、それ以外の社会にも常に存在する問題であることが直感的にわかったからである。職場でも家庭でも、複数の人がともに時間を過ごしている場所ではどこでも、どうやって他人の目を見るか、どうやって他人に話しかけるか、そうしたことにまつわる困難と私たちは常にともにある。そのことに、この部分を読んですぐに気づいたからである。
よく考えてみれば、社会には「ケアが必要な人」と「ケアが必要でない人」がいるわけではない。たとえ認知的・身体的に「健康」であったとしても、私たちは他者とのあいだでお互いをケアし合いながら生きている。「下の世話」が必要か不要かといったことだけでなく、相手の目を見るとか、話しかけるとか、そういった日常的な行為のなかにこそ、ケアというものの本質、人間らしい暮らしというものの本質が含まれているのではないだろうか。
その視点を得たあとになって、徐々に認知機能や運動機能を失っていく人々とどう私たちが向き合っていくことができるか、そうした問題について私たちが知っていることの少なさに気づいて改めて驚くのである。著者たちが切り開こうとしているのはまさにこうした領域、あえて意識しなければ作り出す事も実践することもできない技法の領域なのだ。そのことに気づくわけである。
ケアが必要な高齢の人に対して、赤ちゃんを育てるときのような愛情にあふれた行動を自然にとる本能は、わたしたちには備わっていません。したがって、視線を受けることも、話しかけられることも、触れられることも自然に少なくなっていき、認知機能はますます悪化します。これはある意味で自然なことではありますが、唯一無二の人間として存在する可能性を奪うことでもあるのです。(p.75)
ユマニチュードが技法であると同時に哲学でもあるということの意味が少しずつわかっていただけたのではないだろうか。それは、ある種の「自然」や「仕方のなさ」に抗おうとする意思をもったものなのである。
著者たちは、ユマニチュードが可能にするものを人間の「第3の誕生」と呼んでいる。生物学的な誕生としての出産が「第1の誕生」、そして、そのあと赤ちゃんが周りの人からまなざされ、声をかけられ、触れられるという体験を通じて自分と社会とのつながりを感覚するのが「第2の誕生」である。
「第3の誕生」とは、「第2の誕生」によって得られた社会性や社会とのつながりをなんらかの仕方で失ってしまった人々に対して、ケアする人がふたたび人間らしい尊厳や関係をつむぎ直そうとすることを意味している。ユマニチュードは哲学としてその可能性を志向し、その可能性を実現するためにこそ様々な技法を開発しているというわけだ。
第3の誕生(p.37)
ノックをして反応を待つ、正面から近づく、視線をとらえる、目が合ったら2秒以内に話しかける、手首をいきなりつかまない、視覚や聴覚、触覚といった複数の知覚情報を矛盾させない。こういった一つ一つの具体的な技法には、私たちの日常生活にも役立つ多くのヒントが詰まっている。
私たちは人間と人間との関係を「自然」なものと捉えてしまいがちだが、様々な技法を用いることでその関係性をより良いものに変えていくことができる。自分と他者の生を自分たち自身の手でより良いものに変えていくべきだし、それは具体的な形をとって可能であるということ、そのことをこの本は教えてくれるのだ。
ケアの実践は、試行錯誤の積み重ねでもあります。これまでの仕事の文化や方法も変えなければならなくなるかもしれません。しかし、この変革を成し遂げることで、ケアを受ける人、ケアを行う人双方が、質の高い、充足した時間を過ごすことができるようになる、とわたしたちは確信しています。(p.86)
著者たちの意思と豊かな実践を知り、私は強く感銘を受けた。
プロフィール
望月優大(もちづきひろき)
慶應義塾大学法学部政治学科、
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