望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

熊本地震の被災者以外の方へ。「自分の防災」と向き合えるのはきっと今だけです。

熊本地震の被災者以外の方へ。このブログは、いまこのブログを落ち着いて読むことができる状態にある人に向けて書いています。

現地で大きな被害に遭っている方の助けになりたいという気持ちから寄付をしたり、有用な情報をシェアしたりすることは大事なことだと思います(情報のシェアはきちんとソースを確認し、かつ必要だと考える範囲で行いましょう)。

ただ、いま本当にすべきことなのは、自分が今日、明日大規模な地震に遭ったらどうすればいよいだろうと自分の頭で考えてみることではないでしょうか。なぜなら、そうすることができるのは「今」しかないからです。

こちらの記事で大木聖子先生という地震学や防災教育をされている学者の方の言葉を読みました。とても大切なことが書いてあったので紹介させてください。

地震はいつどこで起きるかわからない 

政府は、今回の地震を起こしたと考えられる日奈久(ひなぐ)断層帯を含む九州南部の区域で、M6・8以上の地震が30年以内に起きる確率は7~18%と推定していました。30年以内に70%と推計される南海トラフや南関東の大地震よりもずっと低い確率でした。地震予測研究の限界です。

確かに一般人としての私の生活範囲のなかでは、「熊本で地震が起きる可能性がある」という話は聞いたことがありませんでした。それに比べて南海トラフのリスクについては、様々なところで見聞きしてきました。昨年末に高知県黒潮町の大西町長にお話を伺う機会があったのですが、黒潮町は南海トラフの際に34mを超える日本で最も高い津波が来ると想定されている場所で、街ぐるみで「その日」に備えた防災を行っています(取材記事があるので良かったら)。

対して東京に住む自分の暮らしはどうかと考えてみると、日々の生活のなかで防災について意識することはほとんどなく、自分の家や職場で大きな災害に遭ったときのための備えも不十分です。地震予知という技術があり、その精度が日増しに上がっているのだとしても、その精度はまだまだ高くなく天気予報とは全然違うものです。ならば自分にとっては、地震はいつどこで起きるかわからない、明日の被災者は自分かもしれない、そう考えておくほうが良いのだと思います。大木先生は言います。

日本のどこに住んでいても、次に大地震が起きるのは自分が住む地域かも知れないと思って、備えていただきたいです。

役所や専門家が何かするのを待つのではなく、住民が一緒に考えていくことが、かけがえのない命を守ることに必要なのです。想定される地震の被害者を何割減らすという行政がマクロで進める対策だけでなく、自分の命、大切な人の命をどう守るのかというミクロな視点が大切です。

「かけがえのない命を守る」というと、何だかきれいごとというか、具体的な中身のない言葉のようにも聞こえます。ただ、大木先生が話されている別の動画を見て、彼女がどういうことを言おうとしているのかがよくわかりました。阪神大震災から20年後の節目につくられたインタビュー動画です。

今ある情報で救うことのできる命

大木先生はこのなかで2004年の中越地震のときのことを語っています。

そのときに新聞に書いてあったのが、余震で亡くなった女の子がいたんです。本震のときにお風呂に入っていて、おばあちゃんが「大丈夫?」って聞いたら「大丈夫」って言うから、「下着だけつけて出てきなさい」って言って、次の余震で家が倒壊して、その子亡くなったんですよね。

私だったら、裸のままでもいいから外に連れ出すと。それは別に地震学の、すごい地球物理学の研究をしたからわかることとかではなくて、知ってればできたこと。だとしたら、それを伝えてこなかった地震学者にどれほどの責任があるんだろうってそのときにすごい思って。

最後の爆弾をたまたまおばあちゃんが持っていたから、そのおばあちゃんはこの先たぶんすごい後悔して生きていくわけですよね。そういうあり方がすごいおかしいと思って。「古い家屋なら、本震でも普通は耐えられません。何とか耐えたとしても余震でもうダメなんです。」そういうことなんか、誰も繰り返し繰り返し書かないし、書いたとしてもたぶん素通りだし。だからそのおばあちゃんが悪いんじゃなくて、それを伝えてこなかった私たちに責任があると思って。

と同時に、予知しないと助からないと思っていた命が、違うじゃんと思って、今ある情報でこんなにも助けることができたんだって。じゃあ今地震学が持っている情報で助けられる命のいくつを私たちはみすみす見捨ててきたんだろうって思ったんです。

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大規模災害に対する防災の難しさは、それがいつ起きるか分からないため、人々が災害のリスクを低く見積もりすぎてしまい、いざ発生したときに取り返しのつかないことになるということだと思います。防災は一人一人の生死に直結しますが、最終的に生きるか死ぬかを決めるのは、例えば大きな地震が起きたときに倒れてくるものがあるかないか、落ちてくるものがあるかないかといったことだったりします。

そうした私的な空間のあり方について、行政が直接把握したり、対策することはもちろんできません。一人一人が自分で考えて、リスクを少なくしておく必要があります。そして、いざ大規模災害が発生したときに備えて、「古い家屋からは裸でもいいからすぐに出る」といった知恵をできるだけ多く頭に入れておくべきなのだと思います。

防災を習慣や文化にしていく

インタビュアーの「これからの神戸に何を期待していますか」という質問に対して、大木先生は「語り継ぐことの限界」について話しています。

わたし、語り継ぐのって、一世代はまたげないと思うんですよ。「風化させない」ってことはどういうことかってすごい考えたんですけど、たぶん神戸は語り部の人たちがどこかの10年くらいたった段階で、何か限界を感じた時期があったんじゃないかなと拝察していて。

うちの母は大阪なんで、伊勢湾台風が大変だったって言っていて。伊勢湾台風という言葉は知っているし、大変だったんだなというのは分かるけれども、自分がそれを台風の日にリアリティを持って感じるかっていったら全然感じなくて。台風を毎年経験していても感じることができない。

ましてや何百年、百年に1回の地震で、それを語り継いでやるだけでは限界があると思うんですよ。すごい厳しい現実を今そういうことをやっている人たちに対して言う事になると思うんですけど、でもやっぱりそれを乗り越えてほしいと思う。で、その方法は、もう語り継ぐんじゃなくて、それが習慣とか文化になるしかないんですよね。

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動画の中で、大木先生は自らが小学校などで実践している防災プログラムについても語っています。ゴミの分別が日本人のなかでいつの間にか習慣になったように、防災も日本人にとっての文化や習慣にできるはずだし、そうできなければならないと彼女は言います。

文化や習慣になっているということは、その場その場でゼロから考える必要がない状態をつくっておくということだと思います。大きな意味で、それはやはり「備え」をしておくということです。常に意識を高めておくことはできないからこそ、意識が低くても助かるように、身の周りの危険を最少限にしておく。そして最低限の行動ルールを体で覚えておく。

いま、テレビやネットに映る被災地の惨状を見るとき、心の中にどこか自分ごととは思えていない自分がいるように思います。自分のような被災者以外の人たちにとって、災害に対する恐怖をここまで強く感じる経験は滅多にないことですが、いま感じている強い恐怖、この意識の高まりはおそらく数日、数週間ですーっと引いていってしまいます。そして、そのこと自体はある程度仕方のないことです。

だからこそ、いまこのときに、明日の被災者は自分かもしれないと考えて、必要な備えをしておくことが大切です。被災者の支援もとても大切ですが、大規模災害に対する意識が高まっているいまのうちに、自分自身の防災ときちんと向き合っておくということもとても大事なことだろうと思います。

被災者以外の方へ。いま「自分の防災」と向き合っておきましょう。今を逃すときっとまた忘れてしまうので。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

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