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宇野重規『民主主義のつくり方』を読んだ

民主主義のつくり方 (筑摩選書)

民主主義のつくり方 (筑摩選書)

 

プラグマティズムから民主主義を考える

トクヴィル研究者の宇野先生による、プラグマティズムを強く参照しながらの民主主義論。 トクヴィルの代表作『アメリカのデモクラシー』が書かれたのが1835-40年、プラグマティズムが生まれたのが1870年代ですから、それぞれアメリカが民主主義の実験をしていた時代の産物という意味では共通のものがあります。

プラグマティズムと聞くと「実用主義」とか「道具主義」とかよく意味がわからない訳語があてられており、カントやヘーゲルに代表されるヨーロッパ哲学に比べて「何か軽そう・・・」「哲学っぽくない・・・」みたいな感覚を持つ人も結構いると思います。パース、ジェイムズ、デューイという代表的な人物の名前も聞いたことはあっても、正直きちんと読んだことがない人が多いのではないでしょうか。

私も本書を読みながら「プラグマティズムとはそういうものだったのか・・・!」と勉強不足を思い知らされました。オバマ大統領の思想にも深く根付いていると言われるプラグマティズムについて、著者による簡潔な説明を本書から引きましょう。

プラグマティストたちは、ある理念がそれ自体として真理であるかどうかには、ほとんど関心をもたなかった。というよりも、それを真理であると証明することは不可能であると考えていた。そうだとすれば、ある理念に基づいて行動し、その結果、期待された結果が得られたならば、さしあたりそれを真理と呼んでもかまわない。彼らはそのように主張したのである。 (p.21)

プラグマティズムが生まれた1870年代は、アメリカが真っ二つに分かれて争った南北戦争(1861-65年)の直後です。どちらも自らの「正しい理念」を主張し合い、血みどろの争いを繰り広げました。その体験を前提に生まれたプラグマティズムはいかなる理念も無条件に真理であると証明することはできない、という立場に立ちます。ですが、これでは複数の「正しい理念」の間に争いが起きることを防げないのではないでしょうか。宇野先生は先の引用に続く部分で以下のように述べます。

重要なのはむしろ、各自が自らの理念をもつことに関する平等性と寛容性である。デューイによれば、各人は自らの運命の主人公であり、その運命にはあらかじめ決定された結論はない。 (p21)

すなわち、複数の理念のあいだで拙速な真偽の判定をせず、実際に生きている個々人がどのような理念をもつことも認める代わりに、自分とは別の個人が自分とは別の理念をもって生きることに対する寛容を求める、これがプラグマティズムであるというわけです。戦争の惨禍を経た後の懐疑論と多元論がプラグマティズムの根っこにある感覚なのだと思います。

 

懐疑論は具体への注目とつながっている

最近つとに思うのですが、民主主義というのは非常に抽象的な理念であって、具体的な設計図ではないんですよね。だから意味がないと言いたいわけでは全くなくて、むしろ具体的な設計の部分でいくらでも改善の余地がある。しかも設計の範囲にはいわゆる政治制度だけが含まれるわけではなくて、企業や様々な団体の内部のルールとか、電車のなかやインターネット上でのマナーといった社会的な振る舞い方までいろいろなものが含まれると思います。神は細部に宿るというように、具体のレベルで直せる部分はいくらでもあるはずです。

プラグマティズムの懐疑的な精神は、この具体への注目ととても親和性が高いと思います。「どんな理念を掲げているかは脇に置こう、その理念に基づいてどのように社会をよくできたか、その結果を重視しよう」と考えるわけですから。これは、ある意味民主主義を従来よりもとても広く捉える見方なのではないかと思います。

反対に、典型的な民主主義への絶望は以下のような感覚に近いのではないでしょうか。「私たちは民主主義を導入した、選挙で政治家を民主的に選んでいる(投票率は低いが・・)、しかし社会は一向に良くならない、民主主義辛い・・・」といった感覚です。しかし、これは選挙という制度だけに民主主義を背負わせる狭い見方だと捉えることもできそうです。

具体に注目しながら社会を一つずつ改善していくということは、社会の様々な地点に生きている個人がそれぞれ改善を行っていくということを意味します。その意味で、民主主義を社会的な習慣として捉えることがとても重要です。習慣はプラグマティストが重視した概念で、一人一人が毎日の行動の中でつくっていくものだとされます。

信念は経験によって検証され、最終的には習慣という形で定着する (p132)

プラグマティズムの創始者であるパースは、習慣を <would be> と結び付けて理解したそうです。「もし〜なら、このような仕方で行動する準備ができている」というあり方が習慣であるというわけですね (p.121) 。したがって、習慣として捉えられた民主主義は、「もし目の前に直すべき社会的な問題を発見したら、それを直すように行動する準備ができている」ということが、個々人の生き方として社会に広く根付いている状態を意味するのだと思います。

 

一人の行動だけが社会の習慣を生み出すことができる

社会を今より良くできたらとは誰もが少しは考えることだと思います。そのときに、全能感をいだく人もいれば、無能感をいだく人もいるでしょう。例えばどこかで聞きかじった経済学的な理論を振りかざして、「これこれの理論を社会に全面的に適用すれば全部の問題を一気に解決できる」と意気込む人、反対に例えば人口減少などのマクロな問題を引き合いに出して、「もう何をやっても日本は滅ぶに決まっている」と悲観する人、両方結構よく見るように思います。

プラグマティズムの視点で民主主義を捉えると、楽観論者も悲観論者も両方極端な考え方だという話になります。本書の第4章ではNPOフローレンスの駒崎弘樹さんや、コミュニティデザインの山崎亮さん、震災後の地域産業復興の事例なども取り上げられていますが、どれも古い民主主義のイメージとは異なるケースばかりです。そんな個別の細かいことで社会は変わらないという人もいるかもしれません。でも、そんな個別のことからしか世の中を良くすることができないという考え方を取るのもの一つの生き方かなと思います。

一人ひとりの個人の信念は、やがて習慣というかたちで定着する。そのような習慣は、社会的なコミュニケーションを介して、他の人々へと伝播する。人は他者の習慣を、意識的・無意識的に模倣することで、結果として、その信念を共有するのである。しかし、それはあくまで結果論であり、あらかじめ何らかの価値観の共有が前提されているわけではない。 (p.139)

さて、最後にガンジーのものとも言われるこの言葉を引いて終わりにしたいと思います。

Be the change you wish to see in the world. 

この言葉は一人のヒーローに向けられたものではなく、すべての人々に向けられたものであるはずです。 一人一人がそれぞれのchangeを競わせながら、小さな行動が連鎖的に発生していく社会をつくっていくこと、「民主主義をつくる」というのはそういうことなのかなと思いました。一つ一つ地道に直していくことは、きっと無駄ではないはずです。

 

目次

  • はじめに
  • 第1章 民主主義の経験
    アメリカという夢/プラグマティズムと経験/戦後日本における経験
  • 第2章 近代政治思想の隘路
    閉じ込められた自己/依存への恐怖/狭まった対話の回路
  • 第3章 習慣の力
    偶然から秩序へ/習慣と変革/民主主義の習慣
  • 第4章 民主主義の種子
    「社会を変える」仕事とは?/「島で、未来を見る」/被災地に生きる
  • おわりに プラグマティズムと希望

 

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プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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