望月優大のブログ

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大竹弘二+國分功一郎『統治新論』を読んだ

 民主主義の意味を再考させる良書

統治新論  民主主義のマネジメント (atプラス叢書)

統治新論 民主主義のマネジメント (atプラス叢書)

 

シュミット研究者の大竹先生と、スピノザ研究者でありかつ小平市の住民投票問題への関わりなどアクティビスト的な活動もされている國分先生との対談本。みんな重要だとは感じていても具体的な議論になると空回りしがちな民主主義という問題に対して新鮮な視座を与えてくれる良書でした。

現代の問題に対する場当たり的な処方箋というよりは、理論的に踏み込んで民主主義が原理的に抱える困難を説明しようとしている点に好感を持ちました。ポイントは、法の立法だけでなく運用も重要であるということ、そしてその重要性がしばしば見逃されがちであるということ、この点をきちんと論じていることです。

ちなみに私は大学院で、本書にも出てくるミシェル・フーコーの統治性論 gorvernmentality を研究していたこともあり、こうしたテーマにはとても興味があります。

 

法の運用に注目すべき理由

さて、民主主義というと「人々が自分たちが守るべきルールを自分で決める」 というルールの決め方の話、すなわち立法の話にどうしても行ってしまいがちです。しかし、ルールを納得できる決め方で決めたところで、それが当初想定した通りに個別のケースに適用される保証はどこにもありません。これはルールを決めた後の運用に一種の自由があることから生じる問題です。

法律を作る人の視点からすれば、「私が作ったルールを個別具体的な様々な場面に機械的に適用すればよし」という考えになるでしょう。決まったルールからその運用が逸脱する余地は残されていないように見えるわけです。しかし、個別具体的なケースにおける問題はまさに、この具体的な人間によるこの具体的な行為は果たしてこの法律に照らして白なのか黒なのかという解釈の部分にかなりの幅がある、ということから生じます。

法の運用とは、決められた法を個別的なケースに当てはめて解釈していく行為です。そして、ある法が具体的に何を意味するかは実は立法だけではなくその運用、すなわち行政の日々の営みとセットになって、はじめてその全体像が見えてきます。しかし、行政による法の運用、すなわち法の解釈には無限の自由があるわけではなく、そこには司法による事後的な判断が常につきまといます。「この解釈は立法の意思を逸脱している」という判断が下される可能性があるわけです。

民主制における一般的な三権の分立(立法権、行政権、司法権の分立)が必要な理由もここから理解することができます。それぞれルールを作る、運用する、運用の是非を判断する、という別々の役割を持っています。これらを一緒くたにしてしまうと、ルールがあってない状態になってしまいます。書かれたことと行われたことの対照関係を不断に定義していくことが必要なのです。

 

法の運用における民主主義はありえるのか?

前述した通り、民主主義が語られるときには、運用ではなく立法に焦点があてられるのが一般的です。独裁者や貴族ではなく、一人一人の市民が法律を作る(議員を決める)のが民主主義の本義だというわけです。しかし、立法と運用の間に常に解釈が挟まっている以上、実際に市民が受け取る行政サービスが立法の意思からかけ離れたものである危険性は常に存在します。その問題は誰が発見し、その改善はどのように行うのでしょうか?民主主義を貫徹するなら、法の運用まで人々が監視する必要があるのではないでしょうか?

大竹:(中略)主権が法を措定し、行政が運用するという単純な論法だけではもはや通用しません。法の運用の段階でどのように国民がコントロールできるかが問題になると思います。p140

しかし、現段階で市民が法の運用そのものに関わったり、その是非を問いかけるための仕組みが万全に整っているわけではありません。國分先生がかかわっていた小平市の問題で活用された住民投票というのも一つの制度です。國分先生はそうした制度を総称して「議会制民主主義を補完する「強化パーツ」としての複数の制度」 (p23) と呼んでいます。行政の具体的な執行に対して市民や住民が異議申し立てをしていくことを可能にする制度を整備していくべきだというわけですね。

しかし、もちろん住民投票を常に実施するのは非常に大変なわけです。運用面にも民主主義をという考え方は非常に正しいし、運用の重要性が見逃されがちなぶんはっきりとその点を論じることはとても重要だと思います。でも、いざ具体的な場面を思い浮かべると、何というか、今の人々に対して少しハードルが高すぎるきらいがあるのも事実だと思います。本当は、事後的に異議申し立てをしないといけないようなケースがそもそも少ない状態が望ましい。そのためには、直接的な異議申し立てではなく、間接的なプレッシャーを恒常的にかけ続けることも同時に考える必要があります。そして、その役割を担うのがジャーナリズムだと思うのです。

 

法の運用を監視するジャーナリズム

ジャーナリズムについては本文中に直接的な言及がありません。しかし、全国津々浦々で様々に執行される行政の運用行為を一つずつ監視し、場合によっては問題点を広く世に知らしめる報道の役割はとても重要です。行政が行う業務の範囲は広く、警察、教育、雇用、高齢者福祉、保育などなどと多岐にわたります。これを日本政府と日本中の自治体が分担しながらそれぞれ行っているわけです。長野県や広島県では問題なく運用されていても、東京都や福岡県ではそうではないかもしれない。そうした一つ一つの事例に潜在する問題をいち早く発見し、世に広める報道の役割が機能していることが、行政に対する一番の抑止効果になります。

そして、インターネットやスマートフォンが一般に浸透したことで、ジャーナリズムのプロ/アマの境界線は日増しに曖昧化していきます。もちろん質の議論は避けて通ることはできないものの、具体の現場が無数に存在する以上、その無数の現場に対する潜在的な監視者及びジャーナリストの数が増えることがもつ可能性は大きいはずです。

しかしながら、そうした問題が明らかになったとしても、行政内部の改善では解決しがたい問題もあるかもしれない。そもそも彼らは税金を中心として集められた予算の範囲内でしか物事を実行できないわけです。しかし、権利として法律が実行を要求することがその予算内で本当に実行できる確固たる保証がない場合もある。その場合、法律を修正することも必要かもしれない、でも法律には作った当時の意思、実現したい社会のあり方があったはずです。その実現をあきらめてしまうのではなく、別の仕方で実現する道を模索することも重要です。誰がやるのか、市民自身が自らやるしかないのではないでしょうか。

 

行政を補完する市民の行動

ミシェル・フーコーは1982年に「無限の需要に直面する有限の制度 Un systeme fini face a une demande infini」という小文を書いています。これは社会保障の制度について論じたものですが、法が保証する権利が法の具体的運用の場面で与えられない、その具体的な問題について論じたものです。

シャルリー・エブドをめぐる問題や日本のヘイトスピーチ問題にも通ずる問題ですが、法が与える権利を基にしたある種無限の需要に対して応えきるほどのリソースを政府が持ち合わせていないケースはどんどん増えています。そのとき、「自分こそが有限なリソースをあてがわれるべき権利がある」という主張をする集団同士のぶつかり合いが、一つの社会のうちに根源的な分裂を生み出してしまいます。

これは簡単に解決しがたい根源的な問題です。一気に全てを解決する方法を思いつくような話ではない。しかしながら少しずつでもいいから具体的な場面の一つ一つで改善策を出していく必要があります。そして、政府にできることが限られている以上、そこに新たな価値をのせることができるのは、民間の市民やグループでしかないわけです。企業やNPO、大学、そして一人一人の個人が問題を発見し、具体的な解決策を出していく必要があります。行政のクオリティを監視するとともに、行政を補完する市民の行動をどんどん豊かにしていくことが重要です。

 

限界事例に直面したときの言論や行動にこそ思想が現れる

本書の最後に市民的不服従についてのハーバーマスの理論が紹介されています。社会問題を解決するための市民の行動が、その行動を行ったタイミングで非合法であることについてどう捉えるかという、非常に難しい問題です。しかし、ガンジーやローザ・パークスを例に出すまでもなく、そうした一つ一つの行動が社会を動かしてきた、それも良い方向に動かしてきたことは間違いない訳です。

大竹:(中略)たとえそのときは非合法な行為であっても、あとから見れば正しい行為だったとひとびとに認められて、国家の法秩序のなかに新たな権利として書き込まれてくる可能性もある。もちろん、認められない可能性もありますが。

ここでは、市民による一つの具体的な行動が具体的な法、あるいはより高次の共有された理念に対する新たな解釈を与えているとも言えます。個々の具体的な事例のなかで、書かれた法に照らして白か黒か曖昧な事例というものがある。それを本書に倣って限界事例と呼びましょう。その限界事例への向き合い方、その事例における法の解釈のあり方に、その人や組織が持っている根本的な思想が現れてくるのだと思います。行政の対応、メディアの報道、Twitterでのつぶやき、限界事例に関わる者は、他愛もない自分の行為や言論が大きな意味を持つことに気づかないことが多い。民主主義の質を高めるのはこうした限界事例への感受性を持ち、深く根源的に思考できる人がどれだけ社会にいるかなのかもしれません。そんなことを考えさせてくれた本でした。おすすめします。

 

目次 

  1. 主権を超えていく統治ーー特定秘密保護法について
  2. 「解釈改憲」から戦前ドイツへ
  3. 主権概念の起源とその問題
  4. 新自由主義の統治をめぐって
  5. 立憲主義と民主主義再考

 

関連書籍

来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題 (幻冬舎新書)

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ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)

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新たなる不透明性

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プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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