望月優大のブログ

見えているものを見えるようにする。

フランスのテロ事件について考えた

 「テロとの戦争」

シャルリー・エブド紙へのテロ事件について考えていることを書いておこうと思います。風刺画の中身そのもの及びそれに対する公的な規制の是非については措くとして、今回のテロ事件を機に改めて現代社会における自由と安全のねじれた関係について整理しておきたいと思ったからです。

 

テロ事件を受けて、フランスのヴァルス首相は「フランスはテロとの戦争に入った」と議会で宣言しました。「テロとの戦争」とは何ともきなくさい言葉です。9.11以降しばらくアフガン戦争やグアンタナモ収容所などの文脈でWar on Terrorismという言葉が使われましたが、最近はあまり聞かなくなっていたような気もします(ちなみにZero Dark Thirtyは必見)。 

 

仏首相:「テロとの戦争に入った」…治安強化を表明 - 毎日新聞

Manuel Valls : « Oui, la France est en guerre contre le terrorisme »

 

警察化する戦争

ヴァルス首相は前任のエロー首相時代に内務大臣を務めていました。内務省の管轄下には警察があります。テロとの戦争の顕著な特徴はそれが「戦争」と言われているにもかかわらず、限りなく「警察」的な活動に近似していく点です。

 

考えてみれば当たり前なのですが、フランスの首相がテロとの戦争という言葉を使ったのは、それが自国領土内で発生したからです。他国で毎日のようにテロは起きていますが、それを阻止するためにテロとの戦争をやるぞーとは言いません。

 

ですので、この戦争は必然的にフランス国内を中心に戦われることになります。それは地理的な意味で国内という意味だけでなく、国籍という意味での国内という意味も含みます。今回の事件の容疑者もアルジェリア系のフランス人兄弟でした。これからフランスが戦っていくテロとの戦争は潜在的に自国民をも対象とした戦争であるということです。

 

自国内で潜在的なテロリストをあぶり出し、事前にテロリズムの芽を摘んでいく。この戦争が警察行動に近似していくのは当然の話だと言えます。

 

自由と安全のトレードオフ

今回の事件を受けて「報道の自由」や「言論の自由」を擁護する発言が目立ちましたが、まずもって今回の事件はテロ事件であり、殺されてしまってはどんな形の自由も被害者にとって意味を成しません。どんな自由よりも前にまず安全が要請されるわけです。

 

しかし、安全はタダではありません。安全を守るために犠牲になるものが必ず出てきます。警察が肥大化し、市民の様々な活動への監視を強めることによって、より高いレベルのセキュリティが実現する可能性とともに、国家による不当な干渉が増える可能性も同時に高まります。イギリスのキャメロン首相がメッセンジャーアプリの暗号化通信制限の意向を早速表明していましたが、自由と安全のトレードオフの象徴のような話だと感じました。

 

英首相、暗号化通信を制限する意向を表明--フランスでのテロ事件を受け - CNET Japan

 

また、テロとの戦争といったスローガンに、わかりやすいが誤った偏見が組み合わさると目も当てられない状況になる可能性があります。フランスのように、イスラム圏からの移民を多数抱えた状態でこうした事態を避けながら安全性を高めていくのは至難の業だと思います。

 

このトレードオフに正解はない

こうした状態で、自由や安全のどちらかの価値を単純に要求することはあまり意味がありません。基本的には統治者側に非常に高いレベルの統治技術が要求される問題であるととともに、被統治者たる市民の側としては、統治者側の統治技術、統治実践の是非を個々の事例に即して一つ一つ検証すること、そしてその検証の基準になる理念や価値についての議論を絶やさないことが重要だと考えています。

 

正解のないトレードオフを前にして重要なのは合意形成とそのプロセスです。理念や価値のレベルから具体的な事例のレベルまで、専門家から市井の人々まで含みこんだ広範なコミュニケーションこそが良質な合意形成の基盤になります。そうしたコミュニケーションを媒介する役割の重要性が、社会のなかで改めて問われているのかなと感じています。