HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

見えているものを見えるようにする。

「善意の上限」をどこに引くか。墓田桂『難民問題』と折れた理想主義。

2015年はEU諸国にとって難民受け入れという文脈で記録的な1年となった。そして、いまそのバックラッシュに各国が悩まされている。

ドイツの首都ベルリン(Berlin)特別市(州と同格)で18日、市議会選挙が行われ、アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)首相率いる与党キリスト教民主同盟(CDU)が歴史的な大敗を喫した一方、同首相の難民受け入れ政策に反対する世論の怒りをすくい上げた新興右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進した。

長年、多様で多文化な都市であることを自負してきたベルリンだが、ドイツ公共放送によると「反イスラム」を掲げるAfDが、約14%の票を獲得した。AfDの躍進を特に支えたのは、高層ビル群が立ち並ぶ旧東ベルリン地区。連邦議会選を来年に控え、AfDは全国16州のうち10州で議席を確保したことになる。

2015年9月、ドイツはバルカンルートを通って東欧までやってきたシリアなど中東諸国からの難民を受け入れることを発表した。ミュンヘン駅には列車で到着する難民たちを歓迎する人々が溢れた。同じ人権を持った難民を受け入れるという理想主義が、ある種の絶頂に達した瞬間だったように思う。ドイツやヨーロッパの外から見ていた人たちも、その理想主義の強靭さに驚き、賞賛を送ったのではないだろうか。

そして、今ヨーロッパが苦しんでいる。理想主義的な難民政策が世論の支持を失い始め、移民排斥や国境管理の強化を唱える政党が各国で支持を伸ばしている。ドイツのAfDだけではない、フランスの国民戦線、イギリス独立党、オランダの自由党、オーストリア自由党、スウェーデン民主党、ハンガリーのフィデス・ハンガリー市民連盟やヨッビクなど、こうした政党の台頭には枚挙にいとまがない。

一例として、フランス国民戦線の党首マリーヌ・ルペンが先日の集会で語っていた内容をツイートしていたので、その一部を紹介する。移民・難民に限らず、自分の国を自分でコントロールすることができていないという強い感覚が表れており、移民排斥や多文化主義の制限、反EU的な態度は「失った自由を取り戻す」という感情において一貫している。右からの反グローバリゼーション運動が、ヨーロッパ各地で起きていると言うこともできるかもしれない。

マリーヌ・ルペン「私たちは自由なフランスを欲しています。自らの法律とマネーの支配者であり、自らの国境の番人であるような」 https://t.co/xWFubhKEav

— 望月優大 HirokiMochizuki (@hirokim21) 2016年9月19日 

マリーヌ・ルペン「大規模な移民と多文化主義はEUが生み出したものです」 https://t.co/mV9qaU3iKt

— 望月優大 HirokiMochizuki (@hirokim21) 2016年9月18日 

マリーヌ・ルペン「フランスの政治は外国に支配されている。ベルリン、ブリュッセル、あるいはワシントンに」 https://t.co/Ny7Xoc53Yo

— 望月優大 HirokiMochizuki (@hirokim21) 2016年9月18日 

そして、こうした世論の強まりに対して主要政党が譲歩せざるをえなくなり、ドイツでは「われわれは成し遂げられる」というスローガンをメルケル首相が放棄するところまで難民政策の転換が進んでいるのが現状だ。ミュンヘン駅での興奮からわずか一年で難民受け入れの理想主義はここまで折れてしまったのである。

近刊、墓田桂『難民問題』もこうした時代情勢を念頭に書かれた本である。理想主義に傾きがちな難民に関する言論に対して、事実や背景を丁寧に整理しつつ、理想と現実の間に確実に存在する相克を直視するよう求めている。難民問題についてはその歴史から制度、現状への分析にいたるまで、ここまで包括的かつコンパクトにまとまった本はあまり見当たらなかったので、現在の時事を理解する前提知識を得るためにとても有用な本だった。 

難民問題 - イスラム圏の動揺、EUの苦悩、日本の課題 (中公新書 2394)

難民問題 - イスラム圏の動揺、EUの苦悩、日本の課題 (中公新書 2394)

 

難民支援は夢想主義に陥りやすい。そこでは「寛容」や「多様性」といった美しい言葉が躍り出す。対象者と接しているがゆえに、急進的な運動論も生まれがちになる。ただ、この問題は綺麗事では収まらない複雑な側面を浮き彫りにする。薄汚れた政策手段も場合によっては必要となる。誰も正面きって語りたくはないだろう。人々が直面する厳しい状況を知りながら自分たちの安全と安寧を優先させようとするのだから。しかし、難民問題は多様な観点で、かつ冷静に議論される必要があった。 

こうした冷静な視点を持つことは、理想主義を持続させるためにこそ必要だと思う。ゼロも乱暴だが無限もまた同様に乱暴であり稚拙であるということだろう。著者は「善意の上限」という言葉を使うが、「上限がある」ということを確認した後にはすぐに「どこに上限を引くか」という議論が始まるべきである。そして、現在時点での現実的な観点にたった上限であっても、それが未来永劫変わらないわけではない。理想主義者が行うべきことは、現実的な視点に立ってこの上限を少しずつ上げていくためのアクションを積み上げ、そしてそれに対する人々の支持を愚直に集めていくことだろう。

その意味で、アメリカが難民受け入れの具体的な数値目標を掲げているのは示唆的である。11万人という人数は非常に多いが、ドイツが昨年受け入れた人数に比べれば小さい。対人口比に直せばその差はもっと開くだろう。しかし、現実的な視点に立って「善意の上限」を引くことは、理想主義を折れづらくするためにこそ必要なのではないか。

米国は2013~15年にかけて年間7万人の難民を受け入れてきた。16年にはその数を8万5000人に拡大。17年の11万人受け入れが実現すれば、米国に入国する難民は15年から57%増加することになる。オバマ政権は従来、厳しい状況に置かれた難民のため、すべての国々が支援を強化するべきだとの立場をとっている。

いずれにせよ変わらないのは、引き続き中東やアフリカ地域を中心に大量の難民が国外に逃れ続けているということ、そして逃れられず命を落としている人の数が増え続けているということだけだ。

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(墓田『難民問題』より)

シリア内戦の犠牲者はすでに30万人を超えているという報道もあった。うち10万人近くが民間人である。

さらに、国外に退去する難民だけでなく、紛争地域の国内避難民も増え続けている。数としてはむしろ国難避難民の方が多く、お年寄りや障害者など、長距離の過酷な移動に耐えられない人々は国外に逃れる難民にすらなることができない。トルコがシリア側で運営している国内避難民のキャンプもある。難民と国内避難民の境目も現実的な意味でははっきりしたものではない。

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(墓田『難民問題』より)

一つ一つの国家にとっての「善意の上限」が存在するとしたら、善意を示す国家の数が重要になる。欧米諸国に注目が行きがちだが、上記一番左の表に示されているように、もっとも多くの難民を受け入れているのはトルコやパキスタン、レバノンなど紛争国の近隣諸国である。そうした国を経由する形で欧米諸国、そしてほんの一部が日本にも難民申請にやってくる。

国内からの分厚い支持がない状態で難民を受け入れていくことはとても難しい。もちろん日本の難民受け入れ人数が他の先進諸国に比較して少ないことを念頭に書いている。現実的な視点に立った上で、日本としての「善意の上限」をどこに引くか。議論を始めるのに早いに越したことはないと私は思う。

さて、ここまで書いてみて、昨年11月15日のパリ同時多発テロ事件の際に書いたFacebookポストを思い出した。やや長文だが、最後にこれを貼っておく。結局同じことを書いているように思う。世界中の人々がソーシャルアイコンをトリコロールに染めてからすでに10か月。問題はまだまだ解決していない。

プロフィール画像をフランス風に変えるべきか否かみたいな誰得としかいいようのない議論をやっている時間があったら、フランスで今回起こったことの背景、そしてそれが今後引き起こすであろう余波について少しでも調べて考えてみてほしいと思います。なぜなら、他人事ではないからです。他人事ではないと考える理由を書きます。「関係なくない」と思う理由です。(※ものすごい長いですが読んでもらえたら嬉しいです。)

大きな時代的背景として、中東地域を筆頭にその地域に存在する/してきた国家によっては十分な統治が行き届いていない空間が多数地球上に現れています。統治が十分であるというのは、共通のルールが人々の間で受け入れられているということ、そしてそのルールからの逸脱が単一の政府によって公平に取り締まられているということ、結果としてある程度安定した秩序がその地域に与えられているということを意味します。

秩序は未来への予測可能性とほぼ同義です。予測可能性のない状態でひとが生きていくことはとても難しい。周りにいる他者が共通のルールに従っていなければむき出しの暴力にさらされる可能性だってあります。そうした秩序、予測可能性が失われた地域において、その空隙を埋める存在として既存の政府とは異なるアクターが統治主体として現れている。人々は何よりも安定した秩序を望みます。その秩序がどんな主義やルールに基づくものかということよりも、秩序が与えられることのほうが重要なのです。これはISだけに限らずハマスだってヒズボラだって同じような側面を確実に持っている。

こうした秩序の揺らぎにはもちろん理由があります。大きな視点で見れば、米ソ間の冷戦体制のなかで両陣営から生かされてきた権威主義的な統治者及び政府について、冷戦後、民主的な体制への置き換えが各地で失敗しているということが大きい。アラブの春など「内からの民主化」という形であれ、イラクや旧ユーゴなど「外からの民主化」という形であれ、秩序の置き換えの現れ方は様々であれど、結果として新しい秩序への移行がうまくいかずに不安定な状態が生まれてしまう。そうした統治の不在のなかで、旧体制内では押さえ込まれてきた非国家的な主体が力を持って内戦に発展したり、一部地域で暴力的な統治をしたりといった余地が生まれてしまっている。

もちろん、暴力は連鎖しています。統治の不在や暴力的な統治を押さえ込むための、アメリカやフランスによる暴力。空爆や地上軍の投入によって、民間人が死ぬことも多々起きています。そして、この連鎖は最近始まった事でもない。サウジでもイラクでもアフガンでもそう。シリアもマリも同じです。結果として先進国への怨嗟が民間レベルで広がることだって起きてくる。暴力的な統治主体をそうした怨嗟が正当化していくし、彼らはむしろそうした怨嗟を増幅させるように動くでしょう。自らの統治を正当化するためならあらゆる手段を使う。ツイッターやYouTubeをうまく使おうという発想にだって当然なります。

そして、いま「難民」がたくさん発生しているのはこの文脈においてなんです。なんだかよくわからないけど中東では戦争ばっかしていて、かわいそうな難民がヨーロッパに逃げている。ヨーロッパの人たちはいい人たちだからいろいろあるけど受け入れている。そんな簡単な話ではない。当たり前の話ですが、もし今回のテロがなかったとしても、全ての難民を未来永劫受け入れ続けられるはずがない。言葉すら通じないことも多い人々に教育や医療、住宅など様々な生活インフラを提供し続けるのは大きなひずみを生まざるを得ないし、どこかで我慢の限界みたいなものがやって来てしまいます。理想と現実の緊張関係を忘れてはならない。

ヨーロッパでは90年代の早いタイミングから各国で移民排斥を訴える政党が躍進してきた歴史があります。フランスの国民戦線が代表的です。彼らは、いわゆる「poor white」の利益を代弁する存在として、各国で急成長してきた。どこの国でも経済成長は鈍化し、特に若者の失業率は凄まじいことになっている。国民への福祉もままならないなかで、なぜ難民や移民を入れるんだと、そういう主張が力を持ってしまう。難民を数多く受け入れてきたスウェーデンやオーストリアにも大きな極右政党があります。この緊張は各国でどんどん強まっていくに違いない。

ここからがそれぞれの国家、それぞれの個人にとって、何らかのスタンスを求められるところです。まず、移民・難民受け入れの問題がある。これについて、様々なリスク及び必要な社会的リソースの準備を理解しつつ、自分たちはどの程度の受け入れを行うべきかという問題があります。そして次に、病根としての秩序なき空間に秩序を与えるためにどうすべきかという問題があります。移民・難民受け入れに現実的な限界がある以上、そして誰しもが移民・難民という手段を取れるわけでもない以上、秩序なき空間に秩序を取り戻すことは目標とせざるをえません。ほっておくことはできない。

そして、その関連において、上に書いた暴力の問題がどうしても出てくる。暴力で解決できるのか、暴力で秩序を取り戻せるのか。もちろん暴力と一口に片付けることもできない。具体的な戦略や作戦行動があります。でも「うまくやれば」解決できるものなのか、それは残念ながら今の私にはわかりません。そして、もちろん暴力以外の手段だってあって、そこはじゃあ実際に具体的に何がありえるのか、ということを思考し続けなければいけない。

私も確固たる答えやスタンスを明確に持っているわけではないです。個人的にはリベラルな主義主張の人間ですが、単純にリベラルっぽいことを言っていてもどうにもならないレベルにまで、問題が複雑化してしまっていることを強く感じています。「国際社会に貢献する」ということを生ぬるくスローガン的に言っていられる時代は本当に過ぎてしまったように思います。ほっとけばどんどん時間はたち、問題は悪化していきます。そして、絶対にうまくいく明確な対処方法があるわけでもない。

そうした状況の中で、私のこの文章を読む人の多くは成人した日本国民でしょうから、この国としてどんなスタンスを取るべきか、一人の個人として考えてみてほしいと願います。考え得るスタンスにはそれぞれ異なる難しさがあるはずで、必ずしもこれでいこうとすぐに決められるはずもありません。でもそこからしか民主的な議論は始まらないし、前提となる時代状況を知らずに、抽象的な理想論だけをテンプレ的にぶつけあってもほとんど意味がない時代を私たちは生きているように思います。

私は何かの事件をきっかけに突発的に「意識が高まる」ことそのものを否定する論調に与したいとは思いません。例えばアイコン云々でやりあうのはやめたほうがいいと思っているし、なんでお前はレバノンのテロのときは声をあげなかったんだみたいな批判も、ためにする批判だったら意味がないように思う。せっかく意識が高まったのであれば、その先にあるより本質的な知識と思考を、少しずつでも、事件がメディアの上では収束したように見えても、積み上げていけたらと私は願います。何事もあきらめるのは簡単だし、かといって、始めるのに遅すぎることもないはずです。

まあ、すぐ飽きないで、これからもニュース読んで、本読んで、よくわかんなかったら誰かに聞いたりしてみよう、ってことでしかないんですけどね。パリだけでなく、すべての場所で意味もなく亡くなっていった人たちのために、まだ地球上で生きていて、これからいろんなリスクの中で生きていかざるをえない人たちのために、今から自分にできることってそれくらいしかないと思いませんか。それをやりましょうよ。

プロフィール
望月優大(もちづきひろき) 
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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki