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HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

見えているものを見えるようにする。

メディアと公共性についてのメモ

明日R-SICというカンファレンスで「メディアと公共性」についてのセッションに参加させていただきます。正確には「誰が次の時代のジャーナリズムと公共性を担うのか?〜社会を考えるメディアとビジネスモデル〜」というセッションです。不慣れなパネルディスカッションで言いたいことの3割も言えないだろうなと思うので、考えていることをメモ的にアップしておきます。

 

さて、古くさく、そして狭く捉えたメディアの公共的な役割は大きく2つあると思っていて、①既存のルール(法律や規範など)を貫徹させるための情報提供と、②新しいルールの構築に関わる情報提供です。

 

①既存のルール(法律や規範など)を貫徹させるための情報提供は、こうであるべきとか、こうでなければならないとみんなで決めた/みんなが考えていることからの逸脱を発見して世の中に公開していくという機能です。そうした逸脱は誰かの専売特許というわけではなく、政府も企業も個人も逸脱します。もちろんメディア自身も。その逸脱を見つけて世の中に知らしめていくのが1つめの役割、というか機能ですね。逸脱者や潜在的逸脱者に対してプレッシャーをかける機能とも言い換えられます。

 

②新しいルールの構築に関わる情報提供は、新ルールそのものの提起や、すでに提起されている新ルールに関する様々な角度からの情報を提供する機能です。特に民主制の社会では、人々自身が新しいルールをつくるという仕組みであり名目になっているので、人々が新ルールの必要性を自分の頭で判断する必要があります。

 

こうした機能の整理の仕方には異論反論あるだろうとは思うのですが、いずれにしても、メディアの公共的な機能を誰がどのように果たしていくのか、ということが最近いろいろなところで問われています。背景にあるのは、新聞社に代表されるいわゆる伝統的メディアのビジネス的な意味での衰退傾向とそれが喚起する「ジャーナリズムの衰退」的なイメージであることが多いようです。

 

また、メディアビジネスの舞台がインターネットへの移行を進めるなかで、そこでのマネタイズの主流がバナー型の広告収益であることから、いわゆる「PV至上主義」的傾向が起きやすく、現にそうした観点で運営されているとおぼしきメディアへの批判的論調もよく聞くように思います。逆に言えば、「真面目なテーマについてじっくり取材したとしても、それがたくさんのPVを稼げる保証はないので、ビジネス的に見合わないのだ」という諦観のようなものを感じることもあります。まあ、実は似たようなマネタイズのモデルを取っている民放テレビにも同じような批判は昔からあって、いわゆる「視聴率至上主義」批判となって現れてきたわけです。

 

根源的には、メディアビジネスは公共的な役割を担っているのにもかかわらず、それと同時にビジネスであるという難しさを抱えているわけです。平たく言えば「公共的な役割を果たしたから儲かるとは限らない」という身もふたもない話です。これに対して「PV至上主義」や「視聴率至上主義」をただ批判してもあまり意味がないと思います。それは、公共性とビジネスの力学を無視した一方的な批判だろうと思うからです。ではどうすればいいのか。

 

すぐに思い浮かぶのが、公共的な役割を担っているなら税金(的なお金)で運営すればいいじゃないか、という考えですね。現にNHKやBBCといった公共メディアはそのように運営されており、その結果良質な情報を継続的に生み出していて、私もよく見ています。しかし、メディアと政府との距離が近すぎると、政府における逸脱を発見し、公開していく力は失われがちであることも事実でしょうから、税金(的なお金)で運営されていないメディアによってこそ果たされる公共的な役割というものは残るはずです。

 

ここでそもそも論になりますが、メディアの公共的な機能を果たしてきたのは新聞だけではなく、本や雑誌、TV、ラジオといった様々なフォーマットがあります。特に本というフォーマットの重要性は口を酸っぱくして言いたいと思います。メディアというと日々の新聞記事のようなフロー型の情報がイメージされますが、それと同等、あるいはそれ以上に重要なのが、時間がたっても価値を毀損しにくいストック形の情報です。本はそうした情報をため込むメディアフォーマットとして機能してきました。さらに、現代ではインターネットが広がったことによって、ブログやFacebook、Twitterで個人が発信する機会が増えました。ここで言う「個人」には市井の名もなき人から、普段は本や講義という形で発信をしている大学の教員なども含まれます。

 

改めて、メディアの公共的な役割をどう担保していくのかですが、様々な個人までを含み込んだ「誰が発信するのか」という問題、Twitterから本まで多様に広がった「どこで発信するのか」という問題、そしてお金から善意までいろいろであるだろう「なぜ発信するのか(なぜをどのように調達するのか)」という問題、これらを総合的に考えたうえで、必要な機能を社会的に担保していくための方法を考えていくことが大切だろうと思うのです。

 

さて、この問いに対して「これだ」という答えを持っているわけではないのですが、その答えを急ぐ前に、別の視点を持っておくことも大事だろうと思います。それは、そんなにがんばってメディアの公共的な機能を社会的に担保したところで、そうして提供された情報を果たして人々は欲するのか、という視点です。よりざっくり言えば「結局真面目な情報ってみんな読みたいの?」という問いになります。そして、実はこれって現代だけの問題では全然ないと思っていて、昔から本を読まない人は多かっただろうし、新聞って買ってたから読んでたのかというとそんなことなかったのではないかという気がします。

 

2つ思うことがあって、1つはそれでいいじゃないかということです。メディアの社会的な役割は、それが公開した情報が本当に多くの人に読まれることによってではなく、それが公開され、「読まれ得る状態になること」によって大方達成されてしまいます。だから、読みたくないから読まない人の存在はメディアの公共的な役割、とくに私が①として書いたほうのそれについて言えばあまり大きな問題ではないかもしれない。

 

しかしもう1つ思うことは、役割②のほうについて言えばやはりそれは問題であって、一人一人が社会の未来をつくるプレーヤーとして力を発揮できるよう、ただ単に良質な情報を「生産」し続けることに腐心するだけではなく、そうして生み出された情報をより多くの人に「読んでもらう」ための工夫を生み出していくことは大切です。特に誰でも質に関わらず情報発信できる世の中になったわけですから、その情報の海の中からできるだけ良い情報を届ける/見つける方法を生み出していくことが必要だと思います。

 

さて、明日がんばろう。