HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

見えているものを見えるようにする。

「意識高い」を再定義したうえで称揚したい

ここ数年で人をバカにしたり茶化したりするための言葉になってしまった「意識高い」。あいつも「意識高い」し、こいつも「意識高い」。どいつもこいつも「意識高い」。とはいえ「意識高い」人が世の中に少ないほうがいいのか?と問われるとなんとなく首をかしげてしまう人も多いんじゃないかとは思う。

自分が考える「意識高い」はむしろ社会の中でおおいに不足している。一言でいえばそれは「社会への贈与」ができる人たちのことだ。自分のためだけでなく、社会のために意識を高められる人。だから、自分なりに「意識高い」を再定義してみて、むしろ褒め言葉として使えるようにしたいなと思った。3つポイントがあった。 

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①利他心にドライブされている

モテたいとか、目立ちたいとか、金儲けしたいとか、そういう気持ちを持つのは自由だ。それはいい。いま「意識高い」と茶化されている人や振る舞いのなかに、そういったワナビー的なものが入っているのでそれを取り除きたいという趣旨である。自分のためのワナビーを「意識高い」とは呼ばない。そうではなく、身の回りの他者、遠くにいる他者、自分が生きている社会のことを考え、それを良くするためにできることを考える、そうした心性に「意識高い」という言葉を割り当てたい。利己心ではなく利他心が「意識高い」をドライブする。

②知的であるためのコストを払う

次に、利他的な行為や発言が正しい知識に基づいていないためにむしろ迷惑だ、というケースを「意識高い」から取り除きたい。 一言で言えば、「ちゃんと調べてからものを言ってくれ」という話である。なぜこれが大切かと言えば、きちんと情報を集める、事実関係を整理する、様々な立場について理解する、こうしたことには知的、時間的、場合によっては金銭的なコストが伴うからである。このコストを払わずに、利他心と思いつきだけで突っ走られても社会への贈与にならない。「意識高い」は知的であるためのコストを払う。逆に言えば、自分の無知をつねに自覚している。だから謙虚でもある。

③小さくてもいいからアクションする

最後に、利他的な心で様々なことを学んでいても、それを自分の心のなかだけに留めてしまう人もいると思う。心苦しいがもう少しだけがんばってほしい。小さな規模でもいいから発信する、自分が正しいと思う具体的な行動を始めてみる、そうしたことを通じて、自分の「意識高い」をもとに社会に良い影響を与えることができるかもしれない。もちろんすべてがうまくいくわけではないし、モチベーションを維持するのも簡単ではないと思う。ただ、この3つめまで行かないと、社会にギフトを贈ることができない。

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3つのポイントを簡単に整理してみた。もちろんこれだけを行動原理に生きている人は仙人なので、現実世界に存在できるとは思わない。みんなモテたいし、いいもん食いたいし、家族を守りたいのである。ただ、そうしたなかでもこれらの原理に沿って生きている人を「意識高い」と呼んでみたい。そして称揚したい。意識高めるのも大変だけど、社会への贈与だと思ったらとてもクールじゃないか。自分もまだまだ意識が低い。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき)

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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