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HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

見えているものを見えるようにする。

"正統と異端" の理論的エッセンス

BOOKS RELIGION HISTORY

西洋中世史家、堀米庸三先生の『正統と異端』を読んでいてこれはブログにメモしておきたいと思った部分があったのでご紹介します。

 

中世ヨーロッパのキリスト教の話をしながら堀米先生が抽出する "正統と異端" についての理論的エッセンスは、切れ味が鋭すぎてあらゆる組織/運動体の教義(ミッション、ドクトリンなど)及びその時間的な発展/衰退についてあてはめて考えてみたくなるほどです。

 

正統と異端 - ヨーロッパ精神の底流 (中公文庫)

正統と異端 - ヨーロッパ精神の底流 (中公文庫)

 

 

彼自身マルクス主義へのあてはめについては文中で言及していますが、例えばイスラームにおけるスンニ派的な正統とスーフィズム/原理主義的な運動との関係、戦後日本の憲法をめぐる様々な論争や、スタートアップ企業の盛衰みたいな話にもあてはめてみたくなります。もちろん今話題の維新の会という運動体についても。

 

原著は1964年。「昔の学者はすごかった」みたいな陳腐なことまで言いたくなるほどの名文に理論知のはかり知れなさを感じさせられました。長いですが、削るべき部分が見つけられなかったので、パートごと書き写します。お時間ある方はぜひ味読ください(p56~59)。

 

異端は正統あっての存在であるから、それ自体のテーゼはなく、正統の批判がその出発となる。批判の基準となるのは正統と同じ啓示であり、これによって正統協会による啓示の解釈とその現実との妥協・協調の歴史がその対象となる。したがって異端のテーゼはつねに啓示への復帰であるが、その啓示は全体的にではなく部分的に、つまり異端の主観的真実に合致するかぎりにおいて受け取られ、またより文字どおりに解釈され、その現実への適用可能性は相対的に軽視ないし無視せられる。つまり理想(啓示)と現在とがその間にあるべき実現の過程を省略して端的に一体化してとらえられる。したがってそのかぎりでは、異端はきわめてラディカルな理想主義の形態をとり、この理想にたえられるための強烈な精神の緊張を要するという意味だけでも、主観主義的とならざるをえない。それはまた現実との妥協を可能なるかぎり排除するものであるから、道徳的には英雄的なリゴリズムを必要とし、その信徒は必然的に少数たらざるをえない。それはまた歴史と現実の革新を企てるものであるから、ラディカルに反社会的であるか、ないしは社会に対しまったく無関心であるかであるが、いずれにせよ主観的理想への意識の緊張を持続する必要から、終末観的ラディカリズムに向かう傾向を示すことが多い。

 

これに対して正統は社会=俗世の不完全さをその出発点における前提とするので、人間と社会の欠陥に寛容であり、それとの妥協をただちに認めるものではないが、その教化教育を使命と考える。そのために正統は万人に対し、エリートのための道徳、道徳的英雄主義を求めず、一般人の道徳とエリートのそれとの二元主義ーー「男の女にふれざるは善きことなり、しかれど不義におちいらざらんがためには各々妻あるべく、女も各々夫あるべく」(コリント前書七章)ーーをとり、在家の信徒とその道徳的模範たるべき道徳的英雄主義の組織的追求社者しての修道士の存在をみとめる。

 

しかもこの二元主義が二元的分裂におちいらないため、不断の自己更新・理想の自覚(聖体の秘蹟)が要求され、また悔悛(秘蹟)と自己批判が一般的道徳の倫理規定のなかに入るのである。この悔悛と自己批判はしかしつねに一般人の倫理規定であるばかりではなく、理想と現実との距離を直視する正統にあっては、エリート、すなわち道徳的英雄主義の実践者自体にも要求され、完全に孤立的な理想の追求(隠修師)よりは、団体的なそれ(修道院)が選ばれ、エリートのエリートを選んでそれへの服従を誓わせることによって、重すぎる個人責任を軽減し、道徳的フラストレーションを防止するのである。

 

このことは異端と目される団体にあっても、それが長期にわたって持続し、より広範囲のメンバーを包括するにいたるときは必ず看取される現象であり、たとえば後述する十二、三世紀の異端であるカタリ派、ワルド派における平信徒=クレデンテスと指導者・達識者=ペルフェクテスとしての分離はそれである。万人司祭説をとるプロテスタンティズムにおいても、やがて牧師と信徒の区別が生じたのも同じ理由によるものであり、プロテスタンティズムの極限形態としての無協会派は、原則に最大限忠実であろうとする結果、その普及は最小にかぎられているが、ここでも最小限の指導者を欠くことはできない。