望月優大のブログ

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バーナンキが日本に推奨する「財政政策と金融政策の連携」の意味

アメリカの前FRB議長ベン・バーナンキが5月24日に日本の金融政策について語った内容が翻訳されて話題になっていた。 

ベン・バーナンキ「日本の金融政策に関する考察」 – 道草

とても興味深い内容なのだが、日本語訳で1.5万字以上あるということと、専門性が高くて読み切れていないという方も多いだろうと思う。サイトに彼自身による要旨が掲載されており長さやわかりやすさの点で優れていると感じたので、簡単に訳出することにした。

Some reflections on Japanese monetary policy | Brookings Institution

翻訳(太字強調は訳者)

これまで何年間にもわたって、私は日本の金融政策立案者たちがデフレ脱却の試みのなかで直面している挑戦についてたくさんのことを考え、そして書いてきた。そのなかでも早い時期に属するいくつかの書き物のなかで、私は、日銀がより強く決意を示しさえすれば、これらの問題はたやすく解決できる、そのように主張していた。しかし、近年日銀が実際に強い決意を示しており、そしてその結果は一般的に良いものではあるものの、デフレが決定的に克服されたとまでは言えない状態である。特に、日銀は毎年のインフレ率を持続的に2%以上にするという目標を達成することに関する困難を抱えてきた。

5月24日に日銀で行なった公演で、私は私自身が過去に行ってきたアドバイスを振り返り、それがいかに時間のテストに耐えてきたかどうかについて確認した。そして、もし現在の政策フレームワークがインフレ目標を達成するのに不十分だとすると、日銀はほかにどんなオプションを検討しうるかに関するいくつかの考えを提供した。

私の主要な結論のうちのいくつかは以下の通りである。

  1. 日銀はインフレ目標の断固たる追求を止めるべきではない。現在、いくつかの指標において経済のパフォーマンスが好調であってもなお止めるでべきではない。ほかにも理由があるが、もっとも重要なことは、インフレ率と利子率を高めることが、日銀が将来の景気後退に対応する能力を高めることによって、経済の安定性を促進するということである。
  2. 日本の金融政策は2013年からとても積極的になった。安倍晋三が選挙で首相として選ばれたこと、そして彼が黒田東彦を日銀総裁として選んでからのことである。黒田の「質的・量的緩和(QQE)」プログラムはいくつかの重要な利点をもたらしてきた。それにはインフレ率の上昇、名目GDPの成長、そして労働需給の逼迫が含まれる。最近なされた日銀におけるフレームワークの諸変更はそうした利点をより持続的なものにするだろう。しかしながら、日本経済のいくつかの特徴、そして過去の政策の遺産、それらが相まって、日銀が掲げるインフレ目標のより迅速な達成を妨げている。目標がこれから数年以内に達成されるか否かはまだ不確定で、部分的には中央銀行がコントロールできない要因に依存している。
  3. もし現在の政策群が十分でないとした場合、どんなツールが残っているだろうか?日本の金融当局自身によるさらなる大規模な緩和の余地は限られているように見える。というのは、国債の利子率が長期のものも含めてゼロ近辺に張り付いており、実質利子率を低下させるためにインフレ期待を上昇させるということの困難が証明されてきているからだ。より多くの刺激が必要だとするなら、もっとも可能性がある方向性は財政政策と金融政策の連携であるだろう。すなわち、新規の財政支出や減税が債務GDP比率に与える影響を相殺するために必要なだけ、一時的にインフレ目標を上昇させることに日銀が合意するということだ。そうした協調こそが、日本の財政状況を悪化させることなく、あるいは日銀の独立性を傷つけることなく、日銀が探し求めている追加の総需要の創出を助けることができるだろう。 

感想・まとめ

私は金融の専門家ではないので、バーナンキが述べているテクニカルな部分の詳細すべてについて完全に理解できているわけではない。しかし、彼が語っていることの本筋はおそらくこういうことだ。

  1. インフレ目標を達成することは相変わらずとても重要だが、それを日銀、金融政策の努力だけで達成することの困難は認めざるを得ない状況になっている。
  2. この限界を突破するためには、政府による財政政策の積極化による追加の総需要創出が必要になるが、政府は債務対GDP比の制約下にあるため、これに及び腰になってしまう構造がある。
  3. したがって、デフレを脱却するためには、財政政策の積極化が直ちに債務対GDP比の悪化に結びつかない状況をつくりだす必要がある。そして、それは「財政政策と金融政策の連携」によって可能になる。すなわち、財政政策の積極化(追加の財政支出や減税)によって生じる債務対GDP比の悪化は、金融当局による将来のインフレ誘導によって相殺することができる。ここでのポイントは、金融当局によるコミットメントを信頼する主体が、これまでの一般大衆から政策当局者や法案立案者だけに限定されているということにある。

講演中、この核心部分について論じているパートがあるので、先の翻訳記事より引用する(誤字を一箇所修正)。太字強調は引用者。

中央銀行単独の行動が限界に達している時、普通は財政政策が代替策になる。だが、日本では既に存在する高水準の債務残高対GDP比の結果として、財政政策でさえ制約に直面しているのかもしれない。そうなると、金融政策と財政政策の連携の話に行かざるを得ないと私は考えている。そうした連携策を実行する手段は数多くあるが、実行可能なアプローチの鍵となる要素は、(1) 政府が新たな支出か減税プログラムを約束する事と、(2)そのプログラムが日本の債務残高対GDP比に与える影響を相殺するのに必要な手段を実行すると中央銀行が約束することです。

私の提案の文脈は、一般大衆はインフレ率をオーバーシュートさせるという中央銀行の主張を信じる必要はなく、政策当局者や法案立案者だけが信じればいいと言うことです。おそらく、政府が、マクロ的な状況からそれが正当化できる時に、拡張的な財政プログラムを承認しないことの鍵となる理由は、結果として国の債務が積み上がることを心配するからです。もし法案立案者が、金融政策はその積み上がった債務を相殺するために使われると信じるなら、彼らはもっと積極的に行動するかもしれない。さらに言えば、彼らは、金融政策は財政政策と相反するものでなく、財政乗数を増やし、「対価に見合う価値」以上のものをもたらすものだと理解するでしょう。 

財政当局を安心させることができれば、総需要の創出につながる積極的財政を実現できる。そして、財政当局を安心させることは、金融政策側のコミットメントによって可能になる。こうした財政政策と金融政策の相互協調の図式が論じられている。

さらに、バーナンキは、この財政政策の積極化の中身についても若干触れている。総需要を増やそうという一般論は良いとして、具体的に何に使うのが良いか、ということである。こちらも翻訳記事より引用。太字強調は引用者。

ここでは、この仮想的な財政プログラムの内訳には立ち入りません。ただ、このプログラムをアベノミクスの3本目の矢である構造改革を前進させるために使うと有益であると指摘しておきます。そして、構造改革は長期的な成長率を上げるために欠かせないものです。例えば、再訓練プログラムや所得補助は非効率部門を改革する際の抵抗を和らげることができるし、照準を定めた社会福祉は女性や高齢者の労働参加を増やすのに役立てることができる。 

追加的な財政支出を、長期の成長率に関わる構造改革を推進するために活用しようというアイデアである。すなわち、構造改革のために追加の財政支出をしようということだ。

一般に構造改革と聞くと、政府支出の削減や規制緩和をイメージされる方も多いかと思うが、ここでバーナンキが推奨している内容は、産業間の労働移動を可能にするための積極的労働市場政策(再訓練プログラムや所得補助)と、それに加えて社会福祉領域への積極的な財政投入とそれによる女性や高齢者の労働参加の促進である。

ちなみに後者については保育や介護など社会福祉の充実によって労働参加が促進されるという側面と、社会福祉領域自体がより大きな雇用の受け皿になるという意味の両方が含まれているだろうと思う。

ーーーーー

この講演を読んで私が学んだことはいくつかあるが、もっとも重要なことは、財政政策の積極化が一部の貧しい人々や弱者にとって必要であるというだけではなく、日本経済全体としてデフレから脱却していくのにも必要だということではないかと思う。当たり前のことなのかもしれないが、この2つを分けて理解することはとても大切なことだ。

そして、財政政策の積極化を実現していく際にボトルネックになるのが、毎度緊縮財政が要求される根拠となる財政の健全性(≒債務対GDP比)であるわけだが、しかしながら同時に「財政政策と金融政策の連携」によってそのボトルネックを突破できる可能性があるーーこうした理路が信頼できる経済学者から示されたということに、私は一つの希望を感じた。 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味は旅、カレー、ヒップホップ。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

書評『ユマニチュード入門』

読まねば読まねばと思っていたこの本、ようやく読むことができた。フランスで看護・介護の分野に関わり、「ユマニチュード Humanitude」という技法、そして哲学を生み出したイヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏による本である。日本への紹介者である本田美和子氏との共著という形を取っている。

すでにとても著名な本でもあり、やはりというか、素晴らしい内容だった。内容をご存知の方にとっては今さらになってしまうかもしれないし、介護や看護の現場に疎いということへの引け目もあるが、あくまでこの本を読んだ現時点での私の感想ということで、簡単にまとめておこうと思う。

ユマニチュード入門

ユマニチュード入門

 

この本が訴えていることは、認知機能や身体機能が弱った高齢の方たちも人間らしく扱われるべきであるということ、そしてそれは彼らがユマニチュードと呼ぶ技法を用いれば可能であるということ、この2つである。

この主張は、ますます高齢化が進み、施設や家庭での介護を受ける人の数が増えていく時代を生きる私たちにとって、明らかにとても重要な意味を含んでいる。著者たちは「人間のための獣医」になってはいけない主張するが、果たしてそんなことが本当に可能なのだろうか。

人間の、動物の部分である基本的欲求に関してのみケアを行う人は「人間を専門とする獣医」です。人にケアをするにあたって、自分が獣医でありたいと願う人は多くはないでしょう。人間の特性に対してケアを行うことによって初めて、「人間を専門とする獣医」ではなく「人のためにケアをする人」になることができます。(p32-33)

この「人間の特性に対してケアを行う」ということこそがユマニチュードの根幹にあるのだが、それは次の4つの要素をその柱としている。

f:id:hirokim21:20170604112631j:imageユマニチュードの4つの柱(p41)

  1. 見る
  2. 話す
  3. 触れる
  4. 立つ

この4つである。私自身は現場に関する知識に乏しいが、本書の説明によると、現実の介護や看護の現場では、さまざまな理由や経緯からユマニチュードの主張と反対のことが行われていることも多いという。一つの象徴となっているのが、著者たちが「抑制」と呼ぶ状態、すなわちベッドやいすに縛り付けられた状態のことである。これは、転倒や徘徊のリスクを鑑みて、また介護業務を効率的に行うために、「仕方なく」「ほかにしようがなく」なされていることが多いのだという。

しかしながら、それによって運動機能や認知機能はみるみる低下し、悪いスパイラルに入ってしまうのも事実だ。例えば、本書では「ベッド上安静は1週間で20%の筋力低下をきたし、5週間では筋力の50%を奪ってしまいます」(p.22)と述べられている。「仕方なく」実施されている抑制には、それに伴うさまざまな害があるということだ。

f:id:hirokim21:20170604113120j:image抑制の害(p30)

著者たちが訴えるのは、ユマニチュードの技法を取り入れることで、抑制なしに介護や看護をすることが可能になるだけでなく、ケアを受ける側、そしてケアをする側の両方の尊厳や満足感を高めることも可能になるということである。

見る、話す、触れる、立つ、それぞれに関わる技法についてこの記事で一つずつ触れることはできないので、ここでは「話す」に関わる「オートフィードバック」という技法を紹介する。ユマニチュードが技法であるということの意味をとてもよく伝える技法だと思ったからである。どういうことか。

ユマニチュードの哲学の本質は「あなたのことを、わたしは大切に思っています」と伝えること、すなわち「人間を人間らしく扱うということ」と「自分と他者とのあいだに人間らしい絆を構築しようと務めること」、ここにその本質がある。しかし、認知機能が低下した高齢者のケアをする介護者が直面するのは、例えば「話しかけても返事がない」という事態だったりする。

話しかけても返事がないのに相手に対して話しかけ続けるのはふつうに考えてとても難しいことだ。単純に間が悪いし、そんなことをしても意味がないと感じてしまうかもしれない。しかし、話しかけなくなることによって(そしてそれは見なくなることと同じなのだが)、その非-行為が「あなたは存在していない」というメッセージを相手に発することと同じ効果をもってしまう、そう著者たちは主張する。

そして、それはユマニチュードの哲学に反する。そこで彼らはこの「オートフィードバック」という技法を編み出したのだ。

ケアには、どんな形であれ、その場で行なっている行為が必ず存在します。その行為そのものを言葉にしてみたらどうか。(中略)自分たちがいま実施しているケアの内容を「ケアを受ける人へのメッセージ」と考え、その実況中継を行うのです。

f:id:hirokim21:20170604115319j:image

そのとき同時に、ポジティブな言葉、つまりケアを受ける人との良好な人間関係を築くための言葉もそこに添えます。「温かいタオルを持ってきました」「肌がきれいですね」「気持ちいいですか?」といった具合です。(中略)

f:id:hirokim21:20170604115329j:image

オートフィードバックによって、無言になりがちなケアの場に言葉をあふれさせることができます。これによって反応が少ない、あるいは反応してくれない人でも、言葉によるコミュニケーションの時間を7〜8倍に延ばせます。(p.57-59)

私はこのパートを読んでとても面白いと思った。というのは、こうした問題はなにも介護の現場に限られたことではなく、それ以外の社会にも常に存在する問題であることが直感的にわかったからである。職場でも家庭でも、複数の人がともに時間を過ごしている場所ではどこでも、どうやって他人の目を見るか、どうやって他人に話しかけるか、そうしたことにまつわる困難と私たちは常にともにある。そのことに、この部分を読んですぐに気づいたからである。 

よく考えてみれば、社会には「ケアが必要な人」と「ケアが必要でない人」がいるわけではない。たとえ認知的・身体的に「健康」であったとしても、私たちは他者とのあいだでお互いをケアし合いながら生きている。「下の世話」が必要か不要かといったことだけでなく、相手の目を見るとか、話しかけるとか、そういった日常的な行為のなかにこそ、ケアというものの本質、人間らしい暮らしというものの本質が含まれているのではないだろうか。

その視点を得たあとになって、徐々に認知機能や運動機能を失っていく人々とどう私たちが向き合っていくことができるか、そうした問題について私たちが知っていることの少なさに気づいて改めて驚くのである。著者たちが切り開こうとしているのはまさにこうした領域、あえて意識しなければ作り出す事も実践することもできない技法の領域なのだ。そのことに気づくわけである。

ケアが必要な高齢の人に対して、赤ちゃんを育てるときのような愛情にあふれた行動を自然にとる本能は、わたしたちには備わっていません。したがって、視線を受けることも、話しかけられることも、触れられることも自然に少なくなっていき、認知機能はますます悪化します。これはある意味で自然なことではありますが、唯一無二の人間として存在する可能性を奪うことでもあるのです。(p.75)

ユマニチュードが技法であると同時に哲学でもあるということの意味が少しずつわかっていただけたのではないだろうか。それは、ある種の「自然」や「仕方のなさ」に抗おうとする意思をもったものなのである。

著者たちは、ユマニチュードが可能にするものを人間の「第3の誕生」と呼んでいる。生物学的な誕生としての出産が「第1の誕生」、そして、そのあと赤ちゃんが周りの人からまなざされ、声をかけられ、触れられるという体験を通じて自分と社会とのつながりを感覚するのが「第2の誕生」である。

「第3の誕生」とは、「第2の誕生」によって得られた社会性や社会とのつながりをなんらかの仕方で失ってしまった人々に対して、ケアする人がふたたび人間らしい尊厳や関係をつむぎ直そうとすることを意味している。ユマニチュードは哲学としてその可能性を志向し、その可能性を実現するためにこそ様々な技法を開発しているというわけだ。

f:id:hirokim21:20170604121100j:plain第3の誕生(p.37)

ノックをして反応を待つ、正面から近づく、視線をとらえる、目が合ったら2秒以内に話しかける、手首をいきなりつかまない、視覚や聴覚、触覚といった複数の知覚情報を矛盾させない。こういった一つ一つの具体的な技法には、私たちの日常生活にも役立つ多くのヒントが詰まっている。

私たちは人間と人間との関係を「自然」なものと捉えてしまいがちだが、様々な技法を用いることでその関係性をより良いものに変えていくことができる。自分と他者の生を自分たち自身の手でより良いものに変えていくべきだし、それは具体的な形をとって可能であるということ、そのことをこの本は教えてくれるのだ。

ケアの実践は、試行錯誤の積み重ねでもあります。これまでの仕事の文化や方法も変えなければならなくなるかもしれません。しかし、この変革を成し遂げることで、ケアを受ける人、ケアを行う人双方が、質の高い、充足した時間を過ごすことができるようになる、とわたしたちは確信しています。(p.86)

著者たちの意思と豊かな実践を知り、私は強く感銘を受けた。

ユマニチュード入門

ユマニチュード入門

 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味は旅、カレー、ヒップホップ。1985年埼玉県生まれ。
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自己責任を求める成功者たちにつけるクスリ

本田圭佑氏のツイートが話題になっていた。若い世代の自殺に関するニュースを取り上げて「他人のせいにするな!政治のせいにするな!!」と吼えている。ああ、このツイートは見たくなかった。好きなサッカー選手であるだけに個人的には残念な気持ちになった。

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本田氏が取り上げている記事はこちら。

記事を一目読んでみていただければわかる通り、本田氏が言うような「他人のせい」とか「政治のせい」とかそういった内容についての記述がある記事ではない。これを読んであのような書き込みをするということは、彼が「自殺」という問題を考えるうえでのある種の思い込み、「自殺者は自分の苦境を「他人や政治のせい」にして自死したのだろう」といった類の思い込みがあるからだろうと思う。若者に対して強く生きるように鼓舞したいという彼の気持ちはわからなくもないが、この文脈で使うべき言葉、そして言葉遣いだとは到底思えなかった。

平凡な、物言いではある。取り立てて言及するほどでもない、ありふれた光景だ。なんのことはない。本田氏ほどの人でも、そこらへんにいる「成功おじさん」から転化した「自己責任おじさん」たちとほとんど変わらなかったというわけである。それはもうあまりにも当たり前の光景で、このインターネット・SNS全盛の時代であればなおのこと、こうした高圧的な物言いを私たちは日々目にせざるをえないわけである。だから、本田氏の物言いは話のきっかけ、氷山の一角にすぎない。

自分は自分の力で頑張ってきたんだという強い自意識があるから、社会的な弱者に対して「他人のせいにするな」と平気な顔で言い放ってしまう。自分が成功したのは自分ががんばったから、そして、他人が成功しなかったのは他人ががんばらなかったから。あまりにも単純で、あまりにも狭い。物事の複雑な因果を一つの偏狭な図式に当てはめて理解し、それによって成功者としての自分の過去に肯定的な価値を与える。今日もまた一人、また一人と、成功者たちが「自己責任論」のダークサイドに墜ちていく。

ーーーーー

さて、このブログの読者自身が、自身の成功体験からほかの人々の人生を断罪するような物言いをしそうになってしまう、そんなこともあるいはあるかもしれない。もしそんなことがあれば、一息ついて思い出してほしい言葉がある。アメリカ民主党のエリザベス・ウォーレン氏の言葉だ。自己責任論に陥りそうになったら、このクスリを飲んでみていただけたらと思う。自分もたまに飲んでいる。

(翻訳)この国には、自分一人の力で富を得たものは一人もいません。一人も!あなたが自分で工場を建てた。いいでしょう。 ただ、明確にしておきたいと思います。あなたの商品を市場に運ぶための道路、この道路は残りの私たちがお金を出し合ってつくったものです。あなたが雇う労働者たち、彼らに対する教育も残りの私たちがお金を出し合って提供したものです。(中略)あなたは工場をつくりました。そしてそれが何かすごいものに変わったとします。偉大なアイデアでもなんでもかまいません。いいでしょう。そのうちの大きな塊を自分のもとに取っておいてください。しかし、根本的な社会契約の一部、それは、あなたがそうして手に入れた大きな塊を次に来る子どもたちのために使おうとする、その恩送りにこそ存するのです。

(原文)There is nobody in this country who got rich on his own. NOBODY! You built a factory out there – good for you! But I wanna be clear. You moved your goods to market on the roads the rest of us paid for. You hired workers the rest of us paid to educate. ... Now look, you built a factory and it turned into something terrific, or a great idea, god bless, keep a big hunk of it, but part of the underling social contract is you take a hunk of that and pay forward for the next kid who comes along.

ーーーーー 

実は、オバマ前大統領にも同じ趣旨の言葉がある。2012年の「You Didn't Build That」という有名なスピーチの一節だ。最後にこの言葉を紹介しておく。

(翻訳)私がいつも驚かされることがあります。(自分が成功したのは)単に自分がとても賢かったからに違いないと考える人々がいるということにいつも驚かされるのです。賢い人々はたくさんいます。そして彼らは自分たちがほかの人々より頑張ったから(成功したのだ)と考えているのです。一つ言わせていただきたい。あなたたち以外にもたくさんの働き者がいるんですよ。

もしあなたが成功者だとしたら、誰かがどこかのタイミングであなたのことを助けているはずです。そして、人生のどこかで、あなたは偉大な師と出会っているはずです。あなたが繁栄することを可能にしているこの素晴らしいアメリカのシステムですら、誰かの助けによって生み出されたものなのです。誰かが道路や橋に投資をしました。もしあなたが事業を起こしたとしても、それはあなた(だけ)が建てたものではないのです。ほかの誰かが、それが起こることを可能にしたのです。

(原文)I’m always struck by people who think, well, it must be because I was just so smart. There are a lot of smart people out there. It must be because I worked harder than everybody else. Let me tell you something — there are a whole bunch of hardworking people out there. 

If you were successful, somebody along the line gave you some help. There was a great teacher somewhere in your life. Somebody helped to create this unbelievable American system that we have that allowed you to thrive. Somebody invested in roads and bridges. If you’ve got a business — you didn’t build that. Somebody else made that happen. 

ーーーーー

影響力をもった成功者たちのうちに、こうしたクスリが少しでも広まることを願って。 

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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日本のシングルマザーたちを苦しめる恥やスティグマの感覚

米ワシントンポスト紙が日本のシングルマザーたちの苦境を取り上げる記事を出していた。単に貧困率など数値的な側面を取り上げるだけでなく、「恥」や「スティグマ」といった心理的な側面に焦点を当てているパートが印象的だったので、そこだけさっと翻訳して紹介する。

以下が翻訳部分。ラフに翻訳しているので原文も併記しておく。

ーーーーー

実際、支援グループを運営しようとする女性たちにとって、助けるべきシングルマザーたちを見つけることそのものがチャレンジとなっている。なぜなら、恥の感覚がとてもとても深いからだ。

「離婚したことを強く恥じるあまり、そのことを友人や両親にすら言えないシングルマザーたちもいるほど」とシングルマザーを支援するNGOの代表であるテラウチ・ジュンコ氏はいう。

「貧しいシングルマザーたちは貧しく見えないように本当に本当に努力している」と、彼女たちが100円ショップで化粧品を買う様子を伝えながらテラウチ氏は言う。「地元の役所の職員たちからーー彼らの多くは男性であるーー「あなたが福祉を必要としているようには見えない」と言われることもあるんですよ。」

ーーーーー 

Indeed, for women trying to operate support groups, even finding single mothers to help can be a challenge — because the sense of shame runs so deep. 

Some women are so embarrassed about a relationship breaking up that they don’t tell their friends, or even their parents, said Junko Terauchi, head of the Osaka Social Welfare Promotional Council, a nongovernmental group helping single mothers with advice and emergency food packages. 

“Single moms in poverty try really hard not to look poor,” she said, describing how they buy makeup and nail polish at the Japanese equivalent of a dollar store so they can keep up appearances. “Sometimes local government officers, who are often men, say things like, ‘You don’t look like you need welfare.’ ”  

ーーーーー 

この感覚、わかるだろうか。シングルマザー家庭で育った自分は、子ども時代にこうしたスティグマや恥の感覚をもっていたことをよく覚えている。今となっては不思議にすら感じるが、子ども時代はリアルな感覚だった。だからこそ、こんな感覚が早くなくなればと思う。

ところで、アメリカ人はこの記事を読んでどんなふうに感じるものなのだろうか。そのことも気になったりした。

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望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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鈴木謙介氏の整理に沿ってーー経産省「次官・若手ペーパー」論(3)

社会学者の鈴木謙介氏が件のペーパーをもとに始まった議論に対してある種の総括(?)的なブログ記事を書かれていた。鈴木氏のことは昔から尊敬しており、過去に氏の著作のいくつかを読んできたのはもちろんのこと、講演を聞きにいったこともある。記事中で私のブログも紹介くださっていたので、勝手に胸をお借りする気持ちになってアンサーブログという形でまとめておきたい。

私の過去記事はこちら。

鈴木氏の趣旨は明快で、記事タイトルの「選択肢を理解する」の通りである。すなわち「どこに論点の中心があって、何が対立していて、そして僕たちに示されているのはどのような選択肢なのかということが明らかになっていない」ので、それを明らかにしようということである。

私も二本目の記事で「どこに国家観や政治思想上の大きな分岐が走っているかを正しく認識したうえで自分の思考を深めてみていただければと思う」と書いていたが、それと基本的に同趣旨だと理解している。そのうえで、鈴木氏の整理は私のそれよりメッシュが細かくなっており、加えて意味合いの異なる二種類の選択肢を別々のものとする形での整理を行っている。

では早速鈴木氏の整理を紹介する。(※上記の二種類の選択肢の区別をわかりやすくするために、以下引用中の"ーーーーー"は私が追加した。)

A.産業構造の変化に抵抗し、誰もが自由で安定した生活を得られる製造業中心の社会を維持する(従来の左派)

ーーーーー

B.産業構造の変化を不可避なものとして受け入れつつ、商品化された生活のオルタナティブを目指す

B-1.財政拡張によるセーフティーネットの拡充を目指すリベラル、リフレ左派

B-2.緊縮と規制緩和を通じて、オルタナティブな市民の支え合いを促すリバタリアン左派、サイバーアナーキスト

B-3.緊縮と規制緩和を通じて、人々の自由と自己責任が重んじられる社会を目指すリバタリアン右派、ネオリベ

B-4.大企業への規制強化と移民の権利制限を通じて、自国民の生活を第一に優先する右派・左派ナショナリスト

鈴木氏による一つめの分割"AとBのあいだ"に走っている。その分割はかつて可能であったが現在はもはや現実的に選び得ないだろうと診断された選択肢(A)と、現在の社会状況からするとこちらしか選びようがないと診断された選択肢(B)、このあいだに走っている。

次に、鈴木氏による二つめの分割"選択肢Bの内部"すなわち"B-1、B-2、B-3、B-4のあいだ"に走っている。B-1~4の一つ一つについての詳述は元のブログ記事を読んでいただくとして、私たちがいま実質的に選びうる選択肢として思いつくものが暫定的にこの4つだというのが鈴木氏の整理になる(ほかの整理もありえるという考え方)。

そこでこの理解を前提として、私の考えを以下の3つのポイントに沿って述べていく。

  • (1)ありうる選択肢の提示、それ自体の重要性
  • (2)選択肢の分類についての考え
  • (3)経産省「若手・次官ペーパー」への評価

(1)ありうる選択肢の提示、それ自体の重要性

まずもって改めての話にはなるが、複雑性が高すぎて、きちんと分節された形ではなかなかイメージしづらい社会の未来像や方向性について、人々が自分たちの選択肢として選びうるいくつかのオプションという形に情報を縮約して示すことはとても大切なことである。そして、それは「知識人」という存在がいまだに可能であるとすれば、それに期待される重要な作業のうちの一つではないだろうか。したがって、私は鈴木氏によるこうした分類作業自体とても有益だと考えるし、自分もそのことを志向して先のブログ記事2本を書いた。

(2)選択肢の分類についての考え

鈴木氏による一つめの分割、AとBのあいだの分割についてはあまり異論がない。製造業が生み出す大規模な雇用によって人々の生活を長期的に安定させるという戦略は少なくともこの国ではもはや選び得ないと考えてよいだろう。そして、文脈上、経産省はまさにこの「日の丸製造業」とともに歩んできた官庁であり、Aの選択肢が選び得ないという危機感に基づいてこそ、このペーパーが出てきたということも理解はできるわけである。

次に、二つめの分割、すなわちB内部の分割について。これについても基本的に首肯をしつつ、「別様の組み合わせもありうる」という鈴木氏の言葉を前提に、考えをさらに推し進めるためにある一つの言葉について簡単に解説を入れておきたい。「緊縮」という言葉がそれである。

私の記事でもこの言葉を用いているのだが、ネット上などでの反応を見ていると「緊縮」という言葉をめぐってその理解に混乱が生じる余地があることがわかった。そして、その理由は割とシンプルである。それは、緊縮が歳出と歳入の両面に現れうるということから来る混乱だ。

緊縮は、政府が歳出を絞ることと、税や社会保険料などを通じて歳入を増やすこと、この両面に現れうる。加えて、ややこしいことにこの歳入を増やすということについて、税や社会保険料などを通じていま生きている人々から直接お金を得ること以外に、国債を発行する、すなわち借金をすることで将来の人々からお金を得る、という選択肢も同時に存在するわけである。

言い換えるなら、政府は「現在生み出されている富」から税や社会保険料を徴収するか、「将来生み出されるはずの富」をあてにして国債を発行する。そしてそのどちらかを主な財源として歳出を行っていくわけであるが、「緊縮」という言葉が含意するニュアンスは、とくに社会的な弱者や貧者において、政府とのあいだでのお金の出入りが歳入・歳出の両面を足し合わせた際にプラスかマイナスのどちらに動くかという時間的な概念であると言える。その意味でそれは「動き」を含んだ概念であり、例えばGDP比の社会支出などで単純に線を引けるものではない。

こうした視点を踏まえたうえで、鈴木氏によるB内部の各選択肢について、それぞれざっくりとではあるが注釈を付してみた。(※それぞれの"→"以降は私が書いたものである。)

  • B-1.財政拡張によるセーフティーネットの拡充を目指すリベラル、リフレ左派
    歳出増+歳入増(ただし税・社会保険料を財源とするのではなく、国債を財源とする立場)
  • B-2.緊縮と規制緩和を通じて、オルタナティブな市民の支え合いを促すリバタリアン左派、サイバーアナーキスト
    歳出減+歳入は不明(歳出減を人々の助け合いでカバー、なお歳入については消費増税と法人減税を組み合わせるような路線が考えられる)
  • B-3.緊縮と規制緩和を通じて、人々の自由と自己責任が重んじられる社会を目指すリバタリアン右派、ネオリベ
    歳出減+歳入不明(歳出減を自己責任でカバー、なお歳入については消費増税と法人減税を組み合わせるような路線が考えられる)

  • B-4.大企業への規制強化と移民の権利制限を通じて、自国民の生活を第一に優先する右派・左派ナショナリスト
    歳出不明+歳入不明(ナショナリズム等に訴えることで、歳出を増やさずに政治的支持を調達するスタイルが現在の流行。労働規制強化等ピュアな規制以外に法人増税等も行うかどうかが歳入側の分岐点)

この注釈をもとに、私がこれまでの記事で述べてきたことと照らし合わせた内容を最後に述べておきたい。 

(3)経産省「若手・次官ペーパー」への評価

まず、鈴木氏によるこのペーパーに対する評価を振り返っておく。鈴木氏の評価は「AではなくB」と言ったことにこの資料の価値があるのではないかということであった。

今回、発端となった資料に対する反応は、おおむね「AではなくてBであるなんて言い古されたこと」だという前提から出発している。その上でB-1が大事なのにB-3とはけしからん、といった論点が挙がっているように見えるのだ。しかし、「AではなくB」というのは、それほど共有された前提だろうか。

その意見に半分は賛成しつつ、私が最初の記事「経産省「次官・若手ペーパー」に対する元同僚からの応答」を書くにあたって、このペーパーに対してきちんと反論をしておく必要があると考えた理由をあらかじめ簡単に述べておく。

私が簡単にでも反論しておこうと思った理由は、当該の資料が「AではなくB」ということを危機的なムードで伝えながら、それと同時に「BのなかではB-2かB-3しかないのだ」、ということを主張する内容になっていると感じたからである。それはB-2かB-3以外の選択肢、より具体的にはB-1に近い選択肢の存在があることを人々に対して覆い隠す効果を持っており、だからこそ、危機ではあってもB-2/3ではない別の選択肢があるということを誰かが言っておかなければならないと考えたのである。

最初の記事でもペーパーについて「これまで何度も言い古されてきた緊縮・福祉国家再編の論理であり、新しさはほとんどない」と書いたが、「B-2かB-3しかないのだ」という主張自体は実は本当にありふれている。鈴木氏が記事中でこれまでの歴史的経緯を紹介している通りである。そして、経済評論家その他の方々がそうした主張をされることにいちいち反論を書いていたらキリがないし、そんなことは実際してこなかったわけだ。

しかし、今回はその主張が行政組織内部の一官庁である経済産業省から出てきた。であればこそ、行政、あるいは政治一般というものに対しての民主的コントロールをきちんと働かせるために、先のような形で「経産省はこの道しかないと言っているが別の道もありえるのだ」ということを、あくまで選択肢を示すという意味合いにおいて、言っておく必要があると考えたわけである。

さらに言えば、上記(2)でつけた注釈にすでに明らかであるが、私はB-2とB-3の違い自体が本質的にあまり重要ではないと考えている。

経産省のペーパーでも取り入れられているが、B-2というものは一見とても美しい人々の助け合いがあれば、緊縮を受け入れてもいいかな、そう感じさせる美しさがある。しかし、冷静になるべきではないか。私たちは人々の助け合いにどこまで期待できるだろうか。それによって何人もの人が救われることはあるだろう。そして、その様子を目撃した私たちが心動かされることもあるだろう。

私自身、子どもや生活困窮者、難民の方々を支援するNPOの支援等を通じて、人間や社会がもつその可能性に賭ける気持ちを持っている。そして、だからこそ、人々の自発的な助け合い、言い換えれば「共助」というものの限界にもまた敏感でありたいと考えているのだ。国家観や政治思想上の大きな分岐が走っているのは一体どこなのか、そのことを幾度にわたって書いているのはそういう理由からである。それはB-2と3の間ではないと思うのである。

ーーーーー

以上、鈴木氏による選択肢を参考にしつつ、自分の考え方を述べてきた。ここから先はやや長いあとがきのようなものになる。論旨自体はこれより前の部分から継続している。

まず、B-4についても少しだけ触れておく。B-4はB-1とB-2/3との対立を別様に解決するウルトラCである。そして、だからこそ、世界中でこの選択肢に魅了される政治指導者と人々が現れているとも言える。トランプが大統領に選ばれた選挙のあと、ルペンのインタビューも引きながら、私は以下のように書いていた。

福祉国家を維持する路線を取るにしても、新自由主義的な路線を取るにしても、人々からの政治的正統性を得るために、すなわち選挙で勝つためには、攻撃しやすい外部、あるいは現在の困難の責任を被せることができる他者の存在を仮構することが得策になってしまう、そうした時代に私たちは突入している

「AではなくB」ということによって生ずるそもそもの困難、そしてB-1であろうがB-2/3であろうがそれに対する支持を得ることの困難、それが現在の既成政党の困難であり、私たちの民主主義の困難である。

したがって「ポピュリズム」と称されることの多いB-4型の主張を批判するにしても、それはポピュリストたちを批判するだけでは足りず、ではBのなかでどんな選択肢を構想できるのか、という問いに対して根源的な形で応えていく必要から私たちは逃れることができない。そして、その問いに応えることができないでいる限り、排外主義的装いをまとったポピュリズムの亡霊は永遠に回帰し続けるだろう。

私個人としては、B-1に近い線をどう現実的な選択肢として鍛え上げ、それに対する人々の理解と支持を集めていけるかが大切だと考えている。歳出増と歳入増の組み合わせを短期だけではなく長期的にどう実現していくか、これについてもっと考えていかなければならないし、学ばなければいけないことが多くあると思っている。

時間軸をざっくり分けるならば、短中期的には国債に依存する状態をある程度維持しつつ、子ども・現役世代に対するそれも含めた歳出増を先行させる。もちろん、パイそのものを拡大する経済成長ということは常に意識しつつ、しかし同時に経済成長を唱えることそのものが免罪符にはならないだろうとも思う。

中長期的には税・社会保険料の様々な選択肢のなかで、世界的にも担税力が低いとされる日本財政の基盤をより強固なものに変えていく必要があるだろうと思う。そして、そのためには、多くの人々のあいだにそのことがビジョンとして、一つの選択肢として、漠然とでも思い描かれていることが必要なのだ。

私たちがそのなかに生まれ、そしてことあるごとに言祝いでいる「民主主義」とは、結局のところそういうものだからである。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
Facebook hiroki.mochizuki

関連エントリ

経産省「次官・若手ペーパー」に対するある一つの「擬似的な批判」をめぐって

先日こちらのエントリを書いたところかなり大きな反響があった。

その後、件の「次官・若手ペーパー」に対する応答が他所からもいくつかなされていたが、そのなかに渡瀬裕哉氏という方によるかなり強めの批判記事があった。この方のことは存じ上げなかったが、私とはだいぶスタンスの違う議論をされているようなので、自分の立ち位置を明確にするためにも簡単に取り上げさせていただく。(なお、今回も前回記事と同様、個人の人格に対する攻撃を行う意図は微塵もなく、議論の整理が目的であることを明記する。)

「時代遅れのエリートが作ったゴミ」発言者に訊く!若手経産官僚のペーパーに感じた違和感とは。 | 一般社団法人ユースデモクラシー推進機構

どんな方か知らない方もいらっしゃるかもしれないので、プロフィールを上記の記事より転載する。読むに、ティーパーティー運動にシンパシーのあるリバタリアン的な志向性をもった方なのであろう。

渡瀬裕哉(わたせ・ゆうや)早稲田大学招聘研究員 1981年生まれ。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。 機関投資家・ヘッジファンド等のプロフェッショナルな投資家向けの米国政治の講師として活躍。創業メンバーとして立ち上げたIT企業が一部上場企業にM&Aされてグループ会社取締役として従事。同取締役退職後、日米間のビジネスサポートに取り組み、米国共和党保守派と深い関係を有することからTokyo Tea Partyを創設。全米の保守派指導者が集うFREEPACにおいて日本人初の来賓となった。また、国内では東国原英夫氏など自治体の首長・議会選挙の政策立案・政治活動のプランニングにも関わる。主な著作は『トランプの黒幕 日本人が知らない共和党保守派の正体』(祥伝社)

結論から述べる。先の記事を一読して感じたのが、批判者(=渡瀬氏)と批判の対象(=経産省のペーパー)の立場が本質的にかなり近いのではないかという違和感であった。渡瀬氏は経産省のペーパーを「ゴミ」などと激烈な口調で批判するが、実際のところ両者の言っていることはあまり変わらないのではないか。その意味で、渡瀬氏からの批判は「効果」として(※「意図」は知らない)擬似的なそれであり、むしろペーパーの方向性に対してエールを送る「効果」すら持っているように思える。

どういう事か。私は先日の記事でこのペーパーの趣旨を「①緊縮(=財政の縮小)」と「②世代間対立(=財政の投資化)」とまとめたが、とくに①の意味で、渡瀬氏とペーパーの方向性は大いに軌を一にしているように見えるのだ。そして、渡瀬氏自身も実際のところはそう思っているようである。

考えてみれば当たり前のことなのだが、リバタリアン的な志向性を持つ方と、今回の緊縮的な意味合いの強いペーパーのスタンスが近いというのは至極当然のことである。渡瀬氏が「立場上言えない人たちは辛いだろう」と言っているのは、「役人の側から国家を縮小するような主張は難しい」という意味合いを込めてのことだろう。

実際のところ、両者の主張はとても似ている。かたや経産省のペーパーは、「「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に」と言い、渡瀬氏も同様に「問題を解決できる組織や人が解決するべきであって、問題を解決できてこなかった政府の出る幕はありません」と言っているわけである。立場の濃淡はあれど、方向性はほとんど同じではないだろうか。

で、やや復習というか、繰り返しのような形になるが、私が先日の記事で述べたことはこれら両方と全く正反対のことであって、引用すると「個人や企業、市民セクターなどが社会課題の解決主体でありうるということが、国が社会問題の最大・最終的な解決主体であるということの責任を免除することを帰結することはありえない」ということであった。

したがって、国家観や政治思想上の大きな分岐はむしろここにこそ走っていると言える。だからこそ、この分岐の場所を示すための一つの対照例として、渡瀬氏の論考を取り上げさせていただいた。

さて、この分岐のどちらに進むかを一人一人が考えるうえでのポイントに触れるような話を渡瀬氏がしていたので、最後にその点について簡単に敷衍しておきたい。まず渡瀬氏が経産省ペーパーのある種の視野狭窄を批判するくだりを引用する。「議論のスコープ」という言葉が使われている。

渡瀬 「まるで牛か何かの出荷時の品質管理みたいな物言いだなと。人生には最初から合格も100点もありません。そもそも皆が各々の人生を生きているわけです。この後に言及されている昭和型人生スゴロクですが、これはお役所や大企業の人たちの人生観であり、自営業や中小企業の人たちは最初から眼中にありません。自分達で1950年代ですら34%しかいないと試算している終身雇用の人たちの価値観を『昭和型人生スゴロク』(=自分たちは100点?)と表現するのがどうかと思いますよ。行政文書に『画一的な価値観』が『多様な価値観』に変化した云々という言葉が並んでいることが多いんですが、それは彼らが今まで『眼中になかった人々が見えるようになった』というだけです。官僚の価値観と社会設計の中で生きていない人たちは最初から存在していて、コロンブスが新大陸を『発見』したと表現しているようなものです。こんな議論のスコープで作られた文章を今更読む価値もないかなと。」

仁木 「今言われて気が付いたんですが、これ『議論のスコープ』だからスコープに入っていない『リアル』もあるわけですよね。」

ここで述べられていることは、そもそも「一般的なライフスタイル」といったものは昔から存在しておらず、昔も今も人の暮らしは多様であるということだ。さらに、そうした多様な暮らしぶりのすべてに政府が対応することは難しく、したがって政府はそのことを認めて潔く引っ込むべきだと主張しているわけである。

記事中の言葉を引用すれば「社会の中の限られた一部の人々に政府によって設計された社会システムを提供したことで、不安や不満を無くせてきたと思ってることが根本的な間違い」だという主張になる。つまり、過去と現在に関する彼なりの社会認識があり、そのうえで彼が肯定する社会と国家の関係性・あり方がイメージされているわけである。

私のスタンスを際立たせるために、ここでひとつ補助線を引く。セルジュ・ポーガムというフランスの社会学者による「貧困の基本形態」についての議論である。かつてこのブログでも取り上げて話題になったことがあった。

ポーガムが示す認識は、社会における貧困のあり方には大きく3つの形態(統合された貧困、マージナルな貧困、降格する貧困)があり、いまの欧米諸国や日本はそのうちの「降格する貧困」という形態の要素を色濃くしているということだ。

貧困の基本形態の一つとしての「降格する貧困」、それは貧者が社会のなかで「マージナル=周縁的」な存在であることをやめ、多くの人がいつ貧困状態に陥るかわからないという不安を抱えて生きているような状況を意味している。

ポーガムが来日時に日本について述べていたことを上記の記事より引用することで、その意味合いがよりわかりやすくなる。

  • 1990年代以降は状況が変化し、降格する貧困の時代になっているのではないか
  • 賃金労働社会が危機に陥り、失業率が増加している。不安定雇用の割合が増え、労働市場がよりフレキシブルな形に変化している
  • 他の国々と同様、日本でもネオリベラルな政策が採用され、「再市場化」という考え方が支配的になっている
  • 貧困の存在が目に見えるようになり、ホームレスなどについても多く語られるようになる。貧困が国民の意識に入り込み、日常の一部となっている
  • 多くの日本の人たちが自分もその貧困層になってしまうのではないかと考えている

渡瀬氏は、先に「議論のスコープ」という言葉を用いていたが、私にとっては、こうした社会の認識こそが「議論のスコープ」になる。そのうえで、こうした不安定な暮らしを生きる人々の大規模な広がりを認識しながら、政府を縮小しつつ(=緊縮)市場や非営利団体を含む民間セクターに任せる社会問題の領域を拡大するというスタンスは私としては全く承服できるものではない。それは、私がいくつかの非営利団体を熱心に支援していることと完全に両立するスタンスである。

したがって、先の記事で私が経産省のペーパーに対して反論したのと全く同じ論理の道筋に沿いながら、私は渡瀬氏による経産省のペーパーへの批判に対しても同じように反論を行うことになる。

こうした整理を踏まえることによって、経産省のペーパーをめぐる議論を眺めておられる方には、どこに国家観や政治思想上の大きな分岐が走っているかを正しく認識したうえで自分の思考を深めてみていただければと思う。現在の社会をどう認識するか、そのうえでどんな社会や国家のあり方を志向するか、そうした骨太の議論が市井の人々のあいだに広がることを願う。

ーーーーー

(追記)もう1本書きましたのでよかったらお読みください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
Twitter @hirokim21
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経産省「次官・若手ペーパー」に対する元同僚からの応答

経済産業省の「次官・若手プロジェクト」によるペーパーが話題になっていた。私自身、新卒時に同省で働いていたのだが、このペーパーの作成に私の(個人的に親しい)同期なども関わっているようだ。

不安な個人、立ちすくむ国家 〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜 平成29年5月 次官・若手プロジェクト | 産業構造審議会総会(第20回)‐配布資料 | 経済産業省

したがって、以下に述べていくことについては、このプロジェクトの参加メンバーに対する人格攻撃の意味合いをまったく持たず、このペーパーが提案する国家観及び社会像そのものに対して応答していくものである。あらかじめ述べておくが、私の意見の基調は「反論」のそれである。しかし繰り返しになるが、その目的は特定の誰かへの攻撃ではなく、政府が発表しかつ社会的に話題になっている資料について、そこでなされている議論の整理と、別の視点を提供することだけをこの文章は企図している。以上が前置きである。

さて、全65頁にわたる本ペーパーを一読し、私はその内容をどう理解したか。いろいろと書いてあるが、それほど複雑な資料ではない。根本的なメッセージは「我々はどうすれば良いか」と題された最後のパートにあるp51のスライドに集約されている。

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「社会の仕組みを新しい価値観に基づいて抜本的に組み替える」とあるが、3つのポイントを改めて書き起こす。

  1. 一律に年齢で「高齢者=弱者」とみなす社会保障をやめ、働ける限り貢献する社会へ
  2. 子どもや教育への投資を財政における最優先課題に
  3. 「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に(公共事業・サイバー空間対策など)

何が言われているか。それぞれについて、同ペーパー中にて提供されている様々なコンテクストを加味しながらわかりやすく噛み砕くとこうなる。

  1. 高齢者の数がどんどん増えるなかで、高齢者に対する社会的支出(年金、医療、介護など)が大きくなりすぎており、財政を持続不可能にしている。同時に、まだ働く能力があるにも関わらず、一定の年齢を基準に「高齢者」と認定され、それによって年金などの社会的支出の対象となっている人々が存在している。したがって、後者の人々に働いてもらうことで、高齢者に対する社会的支出の絶対量を抑制し、財政の持続可能性を高める。
  2. 社会的支出の多くは高齢者に対して支出されており、現役世代や子どもたちに対しての支出が少なすぎる。後者は将来的にペイする「投資」であり、したがって高齢者への支出を減らしてでも、現役・子ども世代への支出を増やすべきである。
  3. 「公的な課題」の増加と多様化に対して、国だけが対応するのは無理である。国が財政措置などで「公的な課題」の全てを解決しようとするのではなく、意欲と能力ある個人により多くを任せるべきだ。それが個人の生きがいにもつながる。

上記をざっくりまとめ直すとこうなる。

"高齢者の増加によって国に生活保障される「弱者」が増えすぎており、このままでは財政的にもたない。高齢者への支出を削ってでも若者に投資すべき。高齢者への対応含め、公的課題の全てを国の責任とするのは現実的ではないので、人々が国を介さず自分たちの手で解決できる領域をできるだけ広げていきたい。"

で、こういった考え方を2つにまとめるとこうなる。

①「緊縮(=財政の縮小)」

②「世代間対立(=財政の投資化)」 

このスタンス、この社会像に私は反対する。

このペーパーを読んで、私は今年の2月に少し話題になったある出来事を思い出した。それは、上野千鶴子氏が中日新聞紙上で述べた内容がきっかけとなってインターネット上で巻き起こった議論のことである。私はそのときも以下の記事で上野氏に対する反論を書いていた。

私が当時まとめた上野氏の主張は以下の通りである。

  1. 日本は今転機にある。最大の要因は人口構造の変化。
  2. 人口を維持するには自然増か社会増しかない。自然増は無理だから社会増、すなわち移民の受け入れしか方法がない。
  3. したがって、日本には次の選択肢がある。「移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。
  4. 「移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。」世界的な排外主義の流れがあり、さらに日本人は単一民族神話を信じているから多文化共生には耐えられない
  5. 結局自然増も社会像も無理だから「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。」
  6. 「日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。
  7. 日本の希望はNPOなど「協」セクターにある。様々な分野で問題解決してる。人が育ってきている。
  8. 憲法改正論議についても心配していない。 日本の市民社会は厚みがある。

経産省のペーパーには移民や外国人についての言及がなかったが、根本的な論理構造は上野氏のそれと多くを共有しているように見える。だいたい、こんな感じである。

"人口の高齢化という構造要因のなかで、(移民の受け入れも)社会民主主義的な(=福祉国家的な)再分配機能の強化も現実的ではない(むしろ再分配機能は別様にずらしつつ縮小すらすべきである)。そして、(高齢者の)労働強化と市民社会による代替が再分配の不足を埋めあわせる鍵になる。"

私個人の感想としては「よく聞く話」というものである。それに対して、最後に、私のスタンスを以下の3つにまとめておく。

①まず「財政的制約」については、現在の税制を思考停止的に前提とすべきではなく、所得税、消費税、相続税、法人税など様々な税目についての検討、加えて課税ベースの強化についてのオプションをしっかりと出していくべきである。それは財務省の仕事だというかもしれないが、そもそもこのペーパーの所管範囲は経産省のそれではない。歳出サイドだけでなく、歳入サイドについても検討・議論の範囲を広げるべきである。もちろん、税だけでなく社会保険や国債などの組み合わせ全体が議論の対象となる。議論の線としては、アトキンソン「21世紀の不平等」などを参考にしており、国家による再分配機能の縮小=新自由主義路線ではなく、再分配機能の再度の強化をこそ志向する。言葉の正しい意味で、「弱者」が増えているからである。

21世紀の不平等

21世紀の不平等

 

「制度が依存的な弱者をつくる」という考え方について。その側面があることを否定はしない。では、「制度に頼るべき弱者」と「制度に頼らなくて済む強者」、ある個人がそれらのどちらであるかについて、誰がその線を引くのか。このペーパーのスタンスは明確である。その個人が「自分自身で引く」「自分自身で選択する」のである。そして、そのことがもたらすひどく恐ろしい効果を想像してみてほしい。「一億総活躍」と「財政の持続可能性」が骨がらみになって主張されているさなか、「どんな人生の最期を迎えたいですか?」と社会から個人に対して自己決定が促されるわけである。年金を受け取ることのスティグマは強化され、「延命治療を受けたい」と口に出すことは憚られるようになるだろう。少なくとも私はそういう国にしたくない。表面的な「自己決定」が「社会からの強制」に等しくなる構造を想像するのは容易いからだ。持っている権利を社会の期待に合わせて自ら捨て去ることの恐ろしさに気づいているのは弱者の側だけであり、そして、誰しもいつかは弱者になるのである。

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③最後に、そして自分が企業からのNPO支援などに深く関わっているからこそきちんと言っておきたいのだが、「国家が担ってきた領域の個人による代替」について。個人や企業、市民セクターなどが社会課題の解決主体でありうるということが、国が社会問題の最大・最終的な解決主体であるということの責任を免除することを帰結することはありえない。前者は後者に付加されるべきものであって、代替することを想定するべきものではない。NPOセクターに限ってみても、その力がまだまだであることの根本的な要因は、よりプリミティブな意味での質の高い人材の不足と、それと強く相関する活動資金の圧倒的な不足にある。そして、国家は国家業務の外部委託や助成金などの投入という形で、NPOセクターへの最大の資金の出し手なのである。その事実を踏まえずに「公を民が担うのだ」というビジョンを掲げることは、緊縮財政の実現を通じて、結果としてのNPOセクターの縮小を招くだろう。

さて、経産省による「次官・若手ペーパー」の内容に触れてきた。ウェブ上での反応を見ると「新しい内容」と捉える向きもあるようだが、こう整理してみれば明瞭なように、これまで何度も言い古されてきた緊縮・福祉国家再編の論理であり、新しさはほとんどない。むしろ、本資料についてきちんと考察・理解しておくべきことは、このペーパーが現在の政府全体の動きとどこが同じでどこが違うかである。基本線としては「一億総活躍社会」という政府全体のスローガン及び関連する政策内容とかなりの程度呼応していると私は判断している。その意味でも新しさはほとんどないと言えるように思う。

力ある者が真面目な気持ちで危機を煽るとき、力なき者は自分の立っている地平を見失ってはならない。なぜなら、力なき者たちが自らの支えを失ったとき、彼ら=私たちが自分の指導者として誰を選ぶにいたるか。その想像力こそが、煽られた危機に臨む私たちにとっての試金石となるからである。

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(追記1)関連テーマでもう1本書いたのでこちらもよければご一読ください。

(追記2)さらにもう1本書きましたのでよかったらお読みください。

プロフィール

望月優大(もちづきひろき) 

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慶應義塾大学法学部政治学科、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(ミシェル・フーコーの統治性論/新自由主義論)。経済産業省、Googleなどを経て、現在はIT企業でNPO支援等を担当。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味はカレー、ヒップホップ、山登り。1985年埼玉県生まれ。
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